16・交通事故
部屋を飛び出した信也は、一段飛ばしで階段を駆け下りた。
足がもつれそうになるのも構わず、ただ本能的な恐怖に突き動かされて一階へと降り立つ。玄関の重いドアを乱暴に開け放つと、そこには夜の静寂を無惨に引き裂いた地獄が広がっていた。
「……っ、嘘だろ……」
目の前――文字通り、織田家の門扉から数メートルも離れていない場所にある電柱に、大型のトラックが真正面からめり込んでいた。
コンクリートの支柱は無惨にへし折れ、火花を散らす電線が蛇のようにのたうちながら、ひしゃげたボンネットにぶら下がっている。夜の闇を不気味な青白い光が明滅させ、辺り一帯には鼻を突くガソリンの臭いと、オーバーヒートしたエンジンから噴き出す真っ白な蒸気が霧のように立ち込めていた。
「うわ……っ!」
背後から、同じように階段を駆け下りてきた市香が、短い悲鳴を上げて立ちすくんだ。
普段の生意気な様子は微塵もなかった。彼女の顔は幽霊でも見たかのように蒼白で、その瞳には恐怖と驚愕が混ざり合った色が浮かんでいる。
二人が呆然と立ち尽くしていると、先に外へ飛び出していた母親が、スマートフォンを耳に当てたまま、血相を変えてこちらへ駆け戻ってきた。
「……はい! 場所は織田家のすぐ前の電柱です! トラックの運転手さんがまだ中に……! 急いでください!」
救急車を呼んでいたらしい母親は、通話を終えるなり、二人の肩を掴んで力任せに家の中へと押し戻した。
「信也!市香! 家に入りなさい! 電線が切れてて危ないし、こんなの子供が見るものじゃないわ! 早く、家の中に戻ってなさい!」
母親の烈火の如き勢いに押され、二人は逃げるように、リビングのソファへと崩れ込んだ。
信也の脳裏には、先ほど見たトラックの残像が焼き付いている。もし、突っ込んできた角度があと数度ずれていたら、一階のキッチンにいた母親を直撃していたかもしれない。そう思うと、背筋に冷たい汗が伝った。
一方の市香は、まだ指先を小刻みに震わせながらも、無意識のうちにスマートフォンのカメラアプリを起動していた。その液晶が放つ鋭い光が、彼女の怯えた瞳を冷たく照らし出す。
「……信じられない。ねえ、写真……一枚だけ撮っておこうかな。これ、絶対ネットで大ニュースになるよね。ほら、今のトラック、中の人が……」
動揺を紛らわせるためか、あるいは無意識の自己防衛か。市香は震える手でレンズを窓の外へ向けようとする。
信也は反射的に、その妹の手首を力任せに掴んで制止した。
「……止めとけ、市香。そんなもん撮ってどうする」
「えっ、何。いいじゃん別に、ちょっと記録するくらい……。みんなアップしてるよ」
「アホか。よく考えろ」
信也は、兄としての絶対的な優位を誇示するように、努めて冷徹なトーンで言い放った。
心臓はまだ早鐘を打っていたが、脳内では「ナガ」としての冷静なリテラシーが、愚かな妹を律せよと命じていた。
「今の事故現場、へし折れた電柱の看板や、向かいの家の壁の色……特徴が丸出しだ。そんなもんSNSにアップしてみろ。一発でこの家の場所が特定されるぞ」
「えっ……。でも、友達しか見てないし。鍵垢なら大丈夫でしょ」
「ネットに『絶対』はねえんだよ。もしこれがお前のフォロワーの誰かに保存されて、面白半分で拡散されたらどうする? 『家の真ん前で事故w』なんて投稿、住所をバラしてるのと一緒だ。お前、自分の部屋の窓から見える景色がどれほど致命的な情報量持ってるか分かってんのか?」
自分の発した言葉が、あまりに理路整然としていて、完璧な正論であることに信也は密かな全能感を覚えた。
そうだ、自分は「ナガ」という完璧な仮面を被り、情報の海を賢く泳ぐプレイヤーだ。妹のような、身近な危険も察知できない無防備な素人とは住む世界が違うのだ。
「いいか。匿名性の怖さを舐めるなよ。一度でも特定されたら、ネトゲの奴らにストーカーされたり、変なデマを流されたりするんだ。お前みたいな無防備な奴が、一番真っ先にカモにされるんだよ。……投稿するなよ。絶対だ」
「……。わかったよ、お兄ちゃんの言う通りにする。……たしかに、ちょっと怖くなってきたし……」
市香は渋々とスマホを下げ、力なくソファのクッションに沈み込んだ。
その肩の落とし方に、信也は「正しいリテラシーを教えた兄」としての満足感に浸った。
(……さて。ハルたちにも、無事を伝えないとな。長時間離席して心配させるのも悪いし、何より攻略の空気を壊したくない)
窓から、震える声で警察に向けた二度目の通話を始めた母親の背中を確認し、信也は再び二階へと足を向けた。
自室に戻る足取りは、先ほど一段飛ばしで駆け下りた時と違って軽やかだった。
事故の恐怖は、妹を論理的に屈服させたという勝利感によって、綺麗に上書きされていた。自分は安全だ。自分は賢い。自分はこの家の中で、最も「ネット」を正しく扱っている。
信也は、再び「聖域」への帰還を果たすべく、自室のドアノブを回した。
まさか。
今、自分が妹に突きつけた「特定のリスク」というナイフが、わずか数分後、自分自身の喉元を鮮やかに掻っ切ることになるなどとは、これっぽっちも疑わずに。
暗い部屋の中で、液晶モニターだけが煌々と青白い光を放ち、帰還した主人を無言で待っていた。




