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13・二人だけの時間

 自室に戻り、重い木製のドアを閉めた。


 だが、それで全てが遮断されたわけではない。胃の奥からは、先ほど詰め込んだばかりの醤油とニンニクの効いた唐揚げの匂いが、じわりと熱を持って上がってくる。げっぷを噛み殺すと、口内に広がるのはあまりに生々しい「生活」の味だ。


 信也はデスクに向かい、モニターの主電源を入れた。暗闇に浮かび上がる液晶の光が、彼の顔を青白く照らし出す。


 この光を浴びるたび、自分の中の「織田信也」という不純物が脱ぎ捨てられていくような気がした。


 鼻腔に残る油の重苦しい残滓が、モニターから放射される乾いた電子の匂いによって、一枚、また一枚と剥ぎ取られていく。網膜に焼き付くのは、安っぽい自室の壁紙ではなく、果てしない冒険の舞台。指先がキーボードに触れるたび、重力に縛られた肉体は希釈され、最強のヒーラーである「ナガ」へと再構築されていく。


 時計の針は十九時四十分。集合の二十分前だ。


(……少し、早いな)


 だが、居ても立ってもいられなかった。信也は儀式に臨む神官のような手つきで、机の隅に置いてあったヘッドセットを手に取った。安価なモデルではあるが、今の彼にとっては、異世界へと繋がる唯一の聖遺物のように見えた。


 ヘッドセットを装着すると、周囲の微かな環境音が遮断され、代わりに自分の荒い呼吸音がイヤーパッドの内側にこもった。震える指でマウスを操作し、「PMO」にログインする。


 見慣れたギルドハウスのテラスに、彼の分身である「ナガ」が降り立った。


 驚いたことに、そこには既に先客がいた。


 深紅のドレスアーマーを纏った少女――イチだ。


 彼女はナガの姿を認めるなり、弾むようなエモーションと共に駆け寄ってきた。


『プロっス!ナガ君! 早いね!』

「プロっス!イチこそ。楽しみで、つい早めにログインしちゃったよ」

『私もだよ。あ、そうだ。ボイスチャットの設定、もう終わってる?』


 イチの問いかけに、信也はごくりと喉を鳴らした。


「今、やるところだ。正直……ちょっと緊張するな」

『ふふ、私も。ねえ、ナガ君。ハルちゃんたちが来るまでまだ時間あるし……ちょっと早いけど、私達二人だけで先にテストしてみない?』

「二人だけで?」

『うん。……他のメンバーがいる前だと、なんだか気恥ずかしくて、うまく喋れないかもしれないから』


 その控えめな提案に、信也の胸が締め付けられるように熱くなった。


 信也は設定画面を開き、ボイスチャットの項目を「有効」にする。


「マイク入力を有効にしますか?」


 カチリ、とマウスのクリック音が響く。


 スピーカーから漏れてくるのは、特有の微かなホワイトノイズ。それはまるで、遠い異世界の風の音のようにも聞こえた。信也はマイクのミュートを切り、震える唇を開く。


「……あー、あー。イチ、聴こえるか?」


 その瞬間、ヘッドセットの奥から、ザッ……というノイズが走った。


 向こう側で、誰かがマイクを調整している気配。そして――。


「……わ、わあ。聴こえるよ、ナガ君! 凄い、本当に喋ってる……!」


 耳元で、鈴を転がしたような、透き通った声が響いた。


 信也の思考は、その瞬間、真っ白に染まった。


 少しだけ高いトーン。けれど、どこか落ち着いた湿り気を含んでいて、語尾がわずかに震えている。緊張しているのだろうか。その「震え」こそが、彼女が記号の塊ではなく、生身の心臓を持った人間であるという事実を、残酷なまでのリアリティをもって突きつけてきた。


(……なんだ、この声。可愛すぎる……。これが、イチの声なのか?)


 想像していたよりもずっと可憐な響き。けれど、不思議な感覚だった。


 初めて聴いたはずの声なのに、なぜだろうか。そのイントネーション、言葉の裏側に潜むリズムが、驚くほど滑らかに信也の脳に吸い込まれていく。まるで、ずっと昔から知っていた旋律を聴いているかのような、抗いがたい既視感――いや、「既聴感」とでも呼ぶべき、心地よい馴染み深さがあった。


「イチ、凄いな……その、いい声だね。なんだか、初めて聴いた気がしないくらい、耳に馴染むよ」

「え、えへへ。恥ずかしいよ……。あ、ねえねえ、ナガ君!」


 イチの声が、一段と弾んだ。


「今の今まで、私、夕飯食べてたんだけど……ナガ君のところ、今日のおかず何だった?」

「え? ああ、夕飯か。……唐揚げだったよ。母さんが山ほど揚げてさ」


 そう答えた瞬間、信也の鼻腔に、再び唐揚げの香ばしい匂いが蘇る。


「ええっ!? 凄い! 奇遇だね、私もだよ! 私のところも今日、唐揚げだったの!」

「マジで? はは、そんなことあるんだな」

「うん! しかもね、お兄……じゃなくて、ええと、うちの家族とマイクの取り合いになっちゃって。結局、お父さんの古いマイクを引っ張り出してきたんだよ。埃っぽくて、ちょっとカビ臭いんだけど……でも、ナガ君に声が届いて良かった!」


 イチが笑う。その「えへへ」という吐息混じりの笑い声が、ダイレクトに信也の鼓膜を揺らす。


(唐揚げに、マイクの争奪戦……。なんだ、イチも俺と同じような、普通の女の子なんだな)


 その親近感が、信也の心をさらに熱くさせた。

「嫁」というゲーム上の設定が、声という実体を伴うことで、手に届きそうな現実感を帯びていく。


「イチ……。あのさ、ハルとアヤが来るまで、まだ時間あるだろ?」

「うん。まだ十五分くらいあるね」

「少し、歩かないか。二人で。……声を聞きながら、いつものフィールドを」

「……うん! 嬉しい。行こう、ナガ君!」


 二人のアバターが、月明かりのテラスを後にする。


 これまではタイピングのために立ち止まらなければならなかった。だが今は違う。


 歩きながら、戦いながら、呼吸を合わせるように言葉を交わせる。


「ここの景色、声を聞きながら見ると、なんだか違って見えるな」

「本当だね……。ねえ、ナガ君。今の私の声、ちゃんと届いてる?」

「ああ、届いてるよ。耳のすぐそばにいるみたいだ」

「……私も。ナガ君の声、なんだか優しくて、落ち着く。ずっと聴いていたいな……」


 ヘッドセットから返ってくる、蕩けるような甘い響き。


 信也の五感は、完全に「ナガ」へと同期した。


 胃の奥に残る唐揚げの熱は、もはや不快な生活の残り香ではない。


 それは、イチと同じものを食べたという、奇妙で幸福な「繋がり」の証のようにすら感じられた。


 閉ざされたヘッドセットの内側。


 この甘美な闇だけが、今の俺にとっての唯一の真実だ。


 ハルやアヤが合流し、賑やかなギルドの時間が始まる前の、たった十五分間。


 信也は、この上ない多幸感に浸りながら、鼓膜の奥にまで染み渡ってくるイチの残響に、ただ、じっと耳を澄ませていた。

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