12・夕飯
部屋を出た瞬間に鼻をくすぐったのは、食欲をそそる醤油とニンニクの香ばしい匂いだった。
数秒前まで意識を浸していた、あの清潔な月光に満ちたテラス。そこから引きずり出された先にある現実は、揚げたての夕食の香りと、生活感の染み付いた古びた廊下だ。
「信也!市香! ご飯よー! 揚げたてのうちに食べなさい!」
母親の威勢のいい声に、信也の胃がぐうと鳴った。
二十時。あと一時間もしないうちに、俺はイチの声を聴く。その未知の体験への緊張はあるが、まずはこの空腹を満たさなければ戦えない。信也がダイニングへ向かい、席に着いて「いただきます」と手を合わせた、その時だった。
ドタドタドタッ、と二階から階段を激しく駆け下りる音が響き、食卓に不躾な風が吹き込む。
「やっぱり唐揚げか。良い匂いがしていたんだよね」
遅れて現れた妹の市香は、ゆるい部屋着姿で髪を雑にまとめ、向かいの席に滑り込んできた。二時間前にシャワーを浴びていたはずだが、今は微かに汗の匂いが混じったような、生活感のある気配を漂わせている。
ダイニングテーブルには、山盛りの唐揚げと、それに負けないくらい山盛りのキャベツの千切りが並んでいた。
「お兄ちゃん、ちょっと汗臭いよ」
唐揚げを自分の皿へ移しながら、市香が顔を顰めて言い放つ。
(……さっきまで、ヒヒイロゴンと戦っていたからだろうか)
画面越しの死闘の余韻が、まだ肌に張り付いているような気がした。しかし、そんな事情を説明できるはずもない。
「……お前もな」
「はあ!? 女の子に向かって臭いとかサイテー。ありえないんだけど」
「お前が先に言ったんだろ。ほら、文句言うならキャベツ食え。美容に良いぞ」
信也は自分の皿をガードするように引き寄せながら、山盛りの野菜を市香の方へ強引に押しやった。
「えー、キャベツは後でいいよ。今は肉の気分なの。……あ、そうだ、お兄ちゃん」
唐揚げを一つ口に放り込み、咀嚼しながら市香が思い出したように口を開く。
「夕飯の後さ、パソコン用のマイク貸してくれない? ちょっと使いたいんだよね」
「断る。何の用事か知らないが、明日以降にしてくれ」
信也の即答に、市香は不満げに頬を膨らませた。
「えー、いいじゃん。どうせ押し入れのどっかに眠ってるんでしょ? 私が勝手に探してくるからさ」
「勝手に人の部屋に入るな。……それに、今日は俺も使う予定があるんだ。貸せる余裕なんて一秒もない」
「え、お兄ちゃんがマイク? 何に使うの? 」
「うるさい。お前には関係ないだろ。……とにかく、絶対貸さないからな」
いつもの、取るに足らない兄妹の小競り合いだ。
だが、信也にとって、今日のこのマイクの死守は、単なる小競り合いではない。ナガとしてのプライドと、イチとの約束を果たすための戦争だった。
「……二人とも、ご飯の時にそんな喧嘩しないの。せっかくの唐揚げが不味くなるでしょ」
キッチンから、母親が呆れたような顔で口を挟んだ。
「マイクなら、そんなに揉めなくてもアレがあるわよ。確かここに……あったわ」
母親が物置から取り出したのは、ひどく埃を被ったプラスチックの箱だった。続けて、埃が唐揚げの方に向かわないように気をつけながら、その箱をそっと開けた。
「……ほら、これ。昔、お父さんが使っていたやつ。……信也、あんたは自分のを使えばいいし、市香、あんたはこれを使いなさい。文句ないわね?」
箱から取り出されたのは、カビ臭い匂いの漂う、ひどく古いスタンドマイクだった。コードは不自然にねじれ、網目状の集音部分は長年の眠りを感じさせるほど汚れが詰まっている。
「……うわ、何これ。いつの時代の遺物?」
市香は露骨に顔を顰めたが、母親の「これで我慢しなさい」という無言の圧力に抗えず、渋々とそれを受け取った。
「……まあいいや、とりあえず音が入れば。お兄ちゃんのを借りるよりはマシだし」
市香は満足したのか「ごちそうさま」と言い残して、埃っぽいマイクを抱えて自分の部屋へと戻っていった。
残された信也は、ようやく静かになった食卓で、追加の唐揚げを口にする。
(……マイクは二本になった。……これで、予定通り二十時から始められる)
そう自分に言い聞かせ、最後の一つになった唐揚げを噛みしめる。
窓の外では、七時を回った夜空に、月が静かに輝いていた。
運命の二十時まで、あと三十分。
信也は、嵐の前の静けさに包まれた食卓で、期待と不安の入り混じった気持ちと共に唐揚げを飲み込んだ。




