11・ボイスチャット
ハルが投げかけたそのテキストが、いつもと変わらないギルドテラスの風景を凍りつかせた。
画面上のアバターのうち、提案したハル以外の三人――ナガ、イチ、そしてアヤが、ぴたりと動きを止める。
モニターの中に映っているのは、代わり映えのしない石造りのテラスだ。しかし、そこにはいつものそれとは明らかに違う、ひどく張り詰めた空気が広がったような気がした。
真っ先に沈黙を破ったのは、やはりアヤだった。
『賛成。その手があったわね。良いと思うわ。設定なんてすぐ終わるし、私はいつでも準備できるわよ』
キーボードを叩く音が聞こえてきそうなほど、迷いのない即答。だが、それに続くはずのナガとイチの反応は、目に見えて鈍かった。
数十秒の空白。
信也はモニターの前で、言葉にならない戸惑いに立ち尽くしていた。
彼にとって、この『PMO』という世界は、リアルの汚れを一切持ち込まないための聖域だ。そこに「肉声」という、あまりに生々しく、個人の情報を孕んだ音を入り込ませる。それは、自分が大切に守ってきた「ナガ」という完璧な仮面に、ひびを入れる行為に他ならない。
(声を出せば……俺が「織田信也」だってことが、少なからず漏れちまう。イチの理想を壊すことにならないか……?)
そんな信也の、あるいはイチの躊躇を察したのだろう。ハルが少しトーンを和らげて、フォローのテキストを打ち込んだ。
『……あ、もちろん、いきなり喋るのが抵抗あるなら無理には言わないよ。ナガとイチちゃんは、アヤちゃんの指示を聞くだけの「聞き専」でもいいし。それだけでも、四秒のロスはかなり減るでしょう?』
(聞き専……。そうか、聞くだけなら、俺の正体はバレない)
少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。逃げ道はある。一方的に情報を取る側であれば、この聖域はまだ守られるはずだ。
そう自分を納得させようとした、その時だった。
画面上のイチが、ゆっくりとナガの正面に歩み寄った。
紅蓮のドレスアーマーの裾が、静かに揺れる。
『……私、もしナガ君が良ければ、ナガ君の声……聴いてみたい、かな。私も頑張って喋るから。駄目かな?』
心臓が、跳ねた。
それは、文字という無機質な媒体を通しているはずなのに、まるで耳元で囁かれたかのような破壊力を持っていた。
理想の嫁からの、あまりに純粋で、あまりに無邪気な「お願い」。
彼女がどんな声をしているのか。どんなトーンで、自分の名を呼ぶのか。そして彼女も勇気を出そうとしている。その抗いがたい欲望が、正体が露呈することへのパニックに近い恐怖を、一瞬で塗り替えていく。
信也は震える指をキーボードに乗せ、一気にエンターキーを叩いた。
「……分かった。やってみよう。マイク、押し入れのどっかにあったはずだ」
『本当!? 嬉しい、楽しみにしてるね、ナガ君!』
弾けるようなイチの言葉に、もう後戻りはできないと悟る。
ハルが、満足げなスタンプと共にテラスの真ん中で飛び跳ねた。
『よし、決まりだね! じゃあ、一度ログアウトして夕飯を済ませよう。一時間後……二十時に再集合でいいかな?』
アヤとイチが「了解」の意を示す。信也もそれに続く。
『じゃあ、また後で。二十時、楽しみに待ってるわ』
アヤの言葉を最後に、画面上のキャラクターたちが次々と光の粒子になって消えていく。
信也もまた、自室の「ログアウト」ボタンをクリックした。
次の瞬間、煌びやかなファンタジーの世界は消滅し、視界は一気に現実の闇へと引き戻された。
数秒前の、あのギルドテラスでの約束。
「あと一時間くらいで、イチの声が聞ける」
小さく呟くと、どうしようもなく心が高揚した。同時に、自分が声を出す事への恐怖に身がすくんだ。
期待と、仮面が剥がれることへの底知れない不安。その両方を抱えたまま、信也はモニターの主電源を切った。
闇の中に浮かび上がったのは、複雑な表情を浮かべる「織田信也」の顔だった。
彼は深く一度だけ呼吸を整えると、埃を被ったヘッドセットを押し入れの奥に見つけ出し、それを机に置いて階段を下りていった。
運命の二十時まで、あと五十分。




