10・提案
それから、二時間近くが経過した。
ログイン直後の高揚感は霧散し、画面を支配しているのは泥沼のような停滞感だ。
リトライは十回を超えた。だが、結果は毎回10.2%から10.8%の間を行き来するばかりで、一度も「残り一割」の壁を崩せない。現実の時間は夜の七時を回ったところだが、信也はモニターの前で、出口の見えない迷路を全力疾走させられているような、ひどく重い精神的な疲労に沈んでいた。
重苦しい沈黙を破ったのは、ギルド一の廃人のアヤの、どこか飄々としたテキストだった。
『……ちょっとタイピングの休憩代わりに、頭を使いましょう。この構成のまま、今の立ち回りを続けるなら、残り一割の壁は一生超えられない。勝利に至っては絶望的だものね』
アヤが提示したのは、冷徹な試算データだった。
『更新の余地がない私と、ヒーラーのナガは除くとして……ハルとイチの武器を、最低でも三段階は更新したいわね。ついでに安定を取るなら、防具も一新したいところ』
『三段階!? いや、それって……』
『ええ。そのためには、そうね……。それぞれ三億ゴールドくらいは欲しいかな?』
画面に並んだ天文学的な数字に、ナガ、ハル、イチの三人が同時に絶句した。
(……三億……。それ、普通にプレイしてたら一年かかっても貯まるか怪しいぞ)
信也はモニターの前で戦慄した。だが、同時にチャットには出さない本音が漏れる。
(……いや、でも。俺、攻撃に関与しないヒーラーで良かった。これ、アタッカーが自分で用意するってなったら、今頃ショックで寝込んでるぞ)
小市民的な安堵に浸る信也を他所に、アヤはさらりと爆弾を投下した。
『まあ、私と同じ方法をとるなら、今すぐ用意させてあげられるけど?』
『は!? アヤ、そんな金どこから……』
ハルの問いに、アヤは「恥をリアルに置いてきた」としか思えない告白を返す。
『簡単よ。私の知り合いのおじさんキャラに甘えて、素材と装備を貢がせまくればいいの。……二人も一緒にやる? 意外とチョロいわよ』
文字通り「姫プレイ」という名の集金システム。その生々しすぎる内情に、ハルが猛烈にキーボードを叩いた。
『却下! 私のハル君はそんなことしません! そんな金で強くなっても、ハル君の可愛さが汚れるでしょ!』
自分の分身であるキャラクターの純潔を必死に守ろうとするハルの叫びに、ナガとイチも追随した。自分たちの誇り――あるいはプレイスタイルを汚してまで、装備更新で解決したくはない。
『……ふふ。凄く儲かるのに、勿体ないわね』
アヤの冗談めかした、けれど真理を突いたような言葉が流れる。
『じゃあ、金を使わないなら、今の動きから徹底的に無駄を削るしかないわね』
アヤが再び戦闘ログを解析し、一つの数字を弾き出した。
『見て。この「終焉の嵐」を回避した後の、ラッシュ四十秒間。私たち、チャットで指示を飛ばしたり状況を確認したりするたびに、合計で四秒近い遅れが出てるの』
「四秒……?」
『そう。チャットのためにキーボードの手を移し、一瞬だけ意識を逸らす。そのコンマ数秒の積み重ねが、四十秒のラッシュの中で四秒のロスになってる。この四秒を埋めれば、勝利に格段に近づくはずよ』
「で、どうするんだ」
『それは思いついていないの。だから、一緒に考えて欲しいわ』
四秒。文字にすれば短いが、コンマ一秒を争う極限状態においては、あまりに巨大な絶壁だ。
どうすればその四秒を限りなくゼロに近づけられるのか。重苦しい沈黙が、月明かりの差し込むテラスを包み込む。
その時、ハルのキャラクターがゆっくりと手を挙げた。
『……反対してもいいけど。一つ、その四秒をほぼ完全に消す作戦を思いついた』
いつもはおちゃらけているハルの、見たこともないほど真剣な、決意の滲むテキストが流れる。
『ボイスチャット、やってみない?』




