1・兄妹という関係
今日中に17話まで出します。その後は一日2話、土日は4話出し続けます。ただ、25日は話の内容を一気に出したいので3話出します(1話多く出します)。ブクマなど、応援よろしくお願いします。
四月下旬。神奈川、海沿いの朝。
窓の外では新緑が目に眩しく、湿り気を帯びた潮風がカーテンを不躾に揺らしている。織田信也にとって、この季節は一年で最も「居心地が悪い」時期だった。高校へ入学してからおよそ一ヶ月。周囲が新しい人間関係を構築し、浮ついた空気で教室を満たしていくなか、自分だけが過去の世界に取り残されている気がするからだ。
アラームを止め、信也は重い体を引きずり出すようにしてベッドを降りた。
視線の先には、電源の落ちたゲーミングパソコン。
ふと、真っ暗な液晶モニターに自分の顔が映り込む。
そこには、酷く不機嫌そうで、どこか冷めた目をした「素」の自分がいた。寝癖のついた髪に、楽しそうな気配など微塵もない口角。
(……ひでぇ顔だな、おい)
思わず鼻で笑い、画面から目を逸らす。
夜になれば、この黒い鏡の向こう側で、自分は「ナガ」という饒舌で献身的なヒーラーに変身する。そこでの自分はもっとマシな顔をしているはずだと、自分に言い聞かせるようにして部屋を出た。
一階のリビングに降りると、そこには既に先客がいた。
双子の妹、織田市香。
彼女は信也が部屋に入ってきたことなど気にも留めない様子で、スマホの画面をタップしながらトーストを口に運んでいる。サイドテールをまとめるのは、江の島の空を舞うカモメの羽を思わせる、清潔感のある真っ白なシュシュ。それが、彼女が首を動かすたびに、ふわりと揺れた。
かつて、小学校の中学年頃までは、このテーブルを挟んでくだらない話で笑い合っていた記憶がおぼろげにある。だが、小学校高学年に差し掛かり、お互いが「思春期」という出口の見えない嵐の入り口に立った頃から、会話の糸はぷつりと途絶えた。
嫌いというほど強い感情ですらない。ただ、どう接すればいいのか分からなくなった結果の、沈黙という名の停戦状態だ。
「……醤油」
信也が低く、濁った声で呟く。
市香の手元にある醤油の瓶。市香はスマホから目を離さないまま、無言でそれを十センチだけ信也の方へ滑らせた。
カツン、という小さな乾いた音が、静かなリビングに不協和音を響かせる。
礼を言うことすら、今の二人の間では「不自然なノイズ」でしかなかった。信也は黙々と、冷めかけた目玉焼きを胃に流し込んだ。
市香のスマホからは、かすかに楽しげな通知音が聞こえる。
彼女は今、誰と、どんな話をしているのだろうか。
信也には、市香が学校でどんな友人関係を築いているのか、全く知らない。
世界は、驚くほど狭いようでいて、致命的に断絶していた。
(……どうせ、クラスの女子と駅前にできたリニューアルしたパンケーキ屋がどうとか、そんな話でもしてんだろ。知らんけど)
信也は自分に無関係な女子の流行を脳内で適当に処理し、最後の一口を飲み込んだ。
市香が不意に立ち上がり、カバンを掴む。
「先行くね」
それは信也に向けられたものではなく、単に「この場から退出する」という宣告のような響きだった。
バタン、と玄関のドアが閉まる。
再び訪れた静寂のなかで、信也はもう一度、自室にあるパソコンのことを考えた。
夜の闇が降りてくるのを。
液晶の向こう側で、愛しい「嫁」に会える時間を。
仮面の自分になって、誰かを救い、誰かに必要とされる瞬間を。
信也は、自分の不機嫌な顔を隠すように通学鞄を肩にかけ、家を出た。
新緑の隙間から差し込む朝日は、彼ら兄妹の間に横たわる深い溝を照らし出すこともなく、ただ無機質に路面を焼いていた。




