第26話 人として
最後のパンを食べた時は絶望感でいっぱいだったし、水が底をついた今はその事実に目を疑った。
――ああ、死ぬのか。
母とロウが死んで、集落から追われるように抜け出したアリスは、ふらふらと歩き続けた。
頼る人も、場所も無かった。ただ、何かに導かれるように、アリスは歩き続けた。
小石に躓き、地面に吸い込まれる。頬に感じる土の湿り気。手の甲にある、13番の痣。アリスの瞳から涙が溢れた。
お母さん、ロウ。
二人は自分が殺したようなものだ。アリスはずっと自身を責めていた。二人の遺体が発見された時、村の住民達から何事かと聞かれたが、アリスは何も言えなかった。ロウの唯一の肉親である祖母が肩を震わせて泣き、アリスに「一刻も早く出て行っておくれ」とたった一言だけ告げた。それでも幼い子供を追い出す負い目からか、せめてもと幾らかのお金と食料を鞄に入れて、アリスに放り投げた。
薄れゆく意識の中、アリスは痣を見つめていた。この痣が、自分からたくさんの人や物を奪ったのだ。
「よかった。目が覚めたようね」
アリスは状況を理解するのに時間がかかった。上体を起こすと、視線を右往左往させる。身に着けている衣服は柔らかく、肌に吸い付くような滑らかさがあった。無論自分の物では無い。顔を上げると、質素な部屋の中だった。テーブル一つと椅子が一脚。壁に飾りは一切無く、殺風景だ。声がした先に視線を移動させると、アリスは「あ……」と漏らした。
「あなた二か月も眠っていたのよ。お医者さんに見せても眠っているだけだから大丈夫と言われて……。すごく心配したんだから」
女性はパンを柔らかく煮てアリスに差し出した。久しぶりの食事だから、アリスの腹の調子を気遣ってくれたのだろう。数秒器を見つめ、恐る恐る受け取った。母以外が作った料理に警戒を抱くが、瞬時に飢えが心を支配する。ひったくる勢いで器を受け取り、ミルクと一緒に勢いよくかきこんだ。一息ついてスプーンを器に置き、アリスは女性に目を向ける。
「さっきの様子だと覚えてるみたいね。私はリツカ。あなたが13番目の子供だと、施設の子供達から聞いています」
アリスはぼんやりした頭で施設の子供達を浮かべた。そうだ、あの子達に痣がばれて……。
「私は、施設から出てここで一人暮らしをしているの。ここはあなたの雑貨屋があった町の二つ隣の町よ。距離は少し離れているけど、車を使えばすぐに雑貨屋に行けるわ」
そう言ってリツカは飲み物を差し出した。ミルクは口にしたものの、カップを見た途端に喉の渇きを覚えたアリスは、それを手に取り勢いよく流し込む。
「お店に戻っても、私にはもう何もないもの」
アリスはカップの底を覗き込み、小さく言った。
「……そう言えば、お母さんは?」
リツカの問いに、アリスは今までの生活について語り出した。途中何度も言葉につまり、話し終えた時にはすっかり日も暮れた。リツカは所々頷いたが、基本的に口を挟まずに聞き役に徹している。
「呪いは、もう終わりを迎えているのかもしれない」
夕暮れの窓を見ながら、リツカは神妙な面持ちで呟いた。自分の痣を見ながらアリスも同調する。
「私が、存在しているから。ずっと12人だった子供達。存在してはいけない私が、ここにいるから」
不変の呪いは綻びを見せている。リツカはそう感じていた。そしてセルの顔が浮かぶ。呪いを解こうと足掻いていた少年。自身の立場を悲観せず、後の子供達やその家族のために、呪いを解こうとしていた少年。
「アリス、今から施設に行きましょう」
リツカの言葉に、アリスは目を丸くして息を呑んだ。
突然のリツカの帰宅に、マダムリリーは言葉が出なかった。再会を喜ぶ間も無く、「客間にセルを呼んで下さい」と告げられ、マダムリリーは眉を潜めた。しかしアリスの手の甲にある痣に気がつくと、口を開きかけたがリツカの射るような目に何も言えない。
客間に通されたセルは、思わぬ訪問に言葉を失った。マダムリリーは自然にセルの隣に腰かけたが、何か言いたげなリツカを無視して四人目として頑なにその場にいる。
「どうしてリツカといるんだ」
セルはアリスに問いかけた。アリスは黙ってセルを見つめる。リツカが代わりに今までの出来事を端的に説明すると、マダムリリーが食ってかかった。
「あなた! 13番目の存在と言うそんな大切な事を、どうして私に報告をしなかったのですか!」
リツカはうんざりした様子で「今はそんな話をしている場合ではありません」と返す。マダムリリーは歯ぎしりをしたが、浮かした腰を再びソファーに埋めた。セルはそれを横目にアリスに再度問う。
「これから一体どうするんだよ」
アリスは目を伏せた。これからどうするのか。そんなのアリスが一番知りたかった。
「……私が、そばにいようと思うの」
リツカの言葉に驚きを見せたのは、何よりアリスだった。
「なっ」マダムリリーは目を見開き、その先を紡げずに呆然とする。
「雑貨屋で生きていこうと考えてる。それがアリスのためになると思うから」
重い決断をした彼女の表情は真剣そのものだった。
「……私は、怖い。もう、誰ともいられない」
アリスがか細く漏らす。
「もう嫌なの。全部、嫌。疲れたの。もう無理なの。私、自分が大嫌い。私のせいで、皆いなくなってしまう!」
投げやりなアリスに、セルは「落ち着け」と声をかけた。しかしアリスは「全部あなたのせいじゃない」と返すと、沈黙が部屋を包んだ。
「俺のせい?」
セルは小さく言った。アリスははっと笑いを漏らし、ソファーから立ち上がりセルに声を荒げる。
「あなたが私を機関に渡すっていうから、お母さんと出て行くはめになったんでしょ。出て行かなければ今までと同じ生活が出来た。お母さんもロウも死ななくてすんだのに。そうよ、あなたが殺したんだ。あなたが二人を……全部あなたが悪いんだ!」
セルは何も言わず冷静にアリスを見て、頭を左右に振った。そして彼女を真っ直ぐに見据えて口を開く。
「……逃げてどうなる」
この言葉に、アリスは小刻みに震え出した。それでもセルは話すのを止めなかった。
「逃げてどうする。そうやって日常を過ごしていても、いつかは――」
突然アリスがセルに飛びかかった。まるで獣のように、白い歯を剥き出しにして呻きながら。セルは片手でそれを止め、もう片方の手でアリスの右手を軽くひねり上げる。痣が剥き出しになり、アリスは瞬時にそこに目をやった。セルの真剣な表情と交互に見やる。アリスは肩を大きく揺らし、荒く乱れた呼吸を必死に整えた。リツカもマダムリリーも手を出さずそれを見ている。次第に落ち着きを見せた彼女を確認して、セルは掴んだ手を離した。アリスは痣に手をやり、さすりながら眉間に皺を寄せる。
しばらく沈黙が続いた。アリスの思いを聞くために、セルが口火を切った。
「お前は一体どうしたいんだ」
セルの問いかけに、アリスの肩がぴくりと動く。
「そうやって、逃げて。これから一体どうしたいんだ。逃げても、成人を迎えたら人間じゃなくなる。そう決まっているのに、一体これからどうするつもりなんだ」
アリスは舌打ちをした。そしてセルにきつく眼光を向ける。
「逃げたっていいじゃない! 自由を求めたっていいじゃない! あなたみたいに、ずっと縛りつけられて、それが当然みたいな顔して生きて、私には耐えられない! 私は、私は……。人間のように、生きて、いたいって」
アリスは片手で顔を覆った。涙と鼻水が交じり、ぐしゃぐしゃになった。しかし彼女はそんな事を気にするそぶりも見せず、下唇を噛みしめる。そして手の甲で乱雑に目元を拭うと、光が失われていない鋭い視線を、再びセルに向けた。
「呪いのサイクルを保つ? 呪われた子供としての責務? 笑わせないでよ! 自分に酔って、周りにもそれを求めて満足? あなた神様にでもなったつもり? 下の世界で転がり踊る人間共を、嘲りながら眺めてんの?」
セルは思わず「違う!」と怒鳴った。そして矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「神様? ふざけるな。俺だっていつもいつも無力感を抱いていたさ。成人を迎えて出て行くやつがいる度に、自分の無力さを呪った。街で普通に過ごすやつらを見る度に、羨ましく思った。俺が、心を持たない機械だとでも思ってんのか?」
セルは目を閉じた。小さく震えて、涙を堪えるようにその場に踏ん張る。
「俺は絶対に諦めない。呪いを解いて、全てを解放する。悲しむ人間をこれ以上増やさないために、俺だけは絶対に諦めちゃいけないんだ」
それを聞いたアリスは、薄っすらと唇を開けたままセルを凝視した。次いで嗚咽を漏らした。床に突っ伏し、頭を抱える。いつか雑貨屋で見た彼女の母のようだった。
「……分かってる、分かってるの……。あなたが、あなたのやろうとしている事が、どんなに尊いか。どんなに周りの人間の事を思っているのか。そんなの私だって分かってる……!」
アリスの傍に腰を下ろしたリツカは、彼女の背中に手を置いた。マダムリリーは何も言わずこれまでのやりとりを見つめている。
セルは両手を強く握り締めて深呼吸をした。そして意を決して口を開いた。
「リツカ、アリス。そのアクセサリーを俺にくれないか? ……全てを終わらせるために。未来を作るために」
突然の申し出に二人は目を丸くした。しばらく黙っていた二人だったが、ブレスレットと指輪を外しセルにそっと渡す。すると部屋をノックする音がした。すぐにルーサが現れる。「レイナが倒れた!」そう叫ぶ彼に、一同の目は釘付けになった。




