第22話 正しさが苦しめる
「は? 何の用?」
昨夜の出来事を考えながら歩くセルの耳に、冷たい声が届く。廊下の角からそっと顔を覗かせると、声の主であるレイナと、その背中に隠れる位置にいる誰かが対峙している。
「……! あ、あんた。どうして」
レイナは動揺を隠さず、震える人差し指をマイに向ける。触れてはいけない何かのように、数歩後ずさりをした。その様子に、マイは口元に手の甲を当て、くつくつと笑った。
「どうしてって。いきなり喋られるわけないでしょう。足りない頭なのは分かるけど、少しは思考する努力はしてよ。レイナちゃん?」
バカにした口調だったが、レイナの脳裏に怒りは沸かなかった。あまりの衝撃に、その回路が壊れたと言ってもいい。金魚のように口を開閉し、次の言葉を必死に探っているようだった。
「面白い。レイナちゃん、鏡で見せてあげたいくらい。すっごく間抜けな顔だよ」
マイはゆっくりとレイナに詰め寄る。レイナはさらに一歩後ずさる。そしてマイが再び歩み始める。両者が互いに視線を外さず、沈黙が流れた。
レイナの額から、滴が伝う。極度の緊張から発生した自身の汗だ。ぬめるそれを不快に感じるが、拭う動作も起きない程、彼女の自由は衝撃によって奪われた。
「レイナちゃん」
沈黙を破るように、マイが言った。呼ばれたレイナは、息を吐く。
「レイナちゃんさ、長年私をいじめてくれたでしょ? そのおかげで、セルは私をずっと守ってくれたの。弱い自分を演じる事で、色々なものから自分を守れたんだ。感謝してるよ、ありがとう、レイナちゃん」
マイは淡々と言葉を紡いだ。レイナの眉根に皺が寄る。
「レイナちゃんにとって、私って鬱陶しかったでしょ? だからいじめていたんでしょ? でも、そうすればそうする程、周りはあなたを粗暴な人間と位置付けて、私をかわいそうな人間としたの」
マイは円を描くようにレイナの周りを歩き出す。そしてセルに気がつくと、両方の口角を上げた。
マイは笑顔だった。今まで見てきたどこか遠慮した微笑みとは全く違う。全てを曝け出した、純粋な笑顔をレイナにも見せた。セルは口を開ける。マイはピースサインをし、白い歯を見せた。
「セル、セル。私の、セル。私だけの、セル」
セルは呆気に取られてマイを凝視する。それしか出来なかった。レイナは弾けるように振り返ると、セルと真っ向から視線がぶつかった。
「セル、私はね、化け物になる瞬間も、あなたと一緒にいたい。それがかなわない絶望は、ずっと私を支配してきた」
マイの言葉を受けて、セルは息を呑んだ。セルの全身に衝撃が走る。雷に打たれたかのような痺れが我が身を貫いた。ふらつきそうになる体を、何とか保とうと力を入れた。
「私は、セル以外誰にも興味がないの。私の世界はあなたで出来ている。だから、今まで誰が化け物として出荷されようが、何とも思わなかった」
マイは目を細めた。後ろで手を組んで、愉快そうに歩く。
「ラルムやレイナちゃんみたいな、馬鹿な人間と一緒に暮らすのはうんざりだったよ。でもね、セルが私の近くにいてくれたから、それも耐えられたんだよ? ねえ、セル。セルも、私だけを見ていてくれるよね?」
そこまで言ったマイに、レイナは声を荒げた。「マイっ……!」剥き出しの敵意は、場の空気を淀ませる。
マイはそんなレイナにおかまいなしに、愉快そうにこちらを見つめている。
「皆に伝えたら凄く驚いていたけど、レイナちゃんみたいに怒ったりしなかったよ。これからたくさん声を聞かせてねなんて言ってくれた。だからちょっと物足りなかったけど、レイナちゃんの反応で大満足だよ」
レイナは荒い呼吸を整え、セルを睨みつける。
「セル……あんた、騙されてたんだよ」
レイナに返答せず、セルは息を大きく吐いた。容赦ないレイナの追撃が襲う。
「これからどうするの? これからもこいつと一緒にいられる? 本性を現したこいつと、今までみたいに笑って生きていける?」
セルは立ち止まった。セルの脳裏に、これまでの出来事が嵐のように過ぎ去った。マイとルーサがいつも隣にいた。たわいない事で笑って、時には喧嘩をして。いずれ来る成人の日に怯えながら、せめて今はと蓋をして生きる日々。大人は皆を「家族」と呼んだ。しかしセルはいつもそれに抗っていた。
セルにとって家族とは「一緒に住んでいる人間」ではなく、「血の繋がり」であった。だが大人だけではなく、他の子供達さえも「一緒に住んでいる人間」を「家族」と呼んでいる。セルはその乖離に苦しんでいた。
「セル、どうしてだろうね」
マイに問いかけられたセルは、目を細めた。
「どうして、私達だったんだろう。どうして、呪いを受けたんだろう」
マイは俯いた。そして少しの間何かを考え、困ったような笑みを浮かべてセルに向き直る。
「この国の呪いのせいで、私達は命の期限を明確に示されている。生きる意味も、目的も無い。そしてあなたは呪いを解く方法を模索しながらも、呪いのサイクルを正常に保つために、命を放棄するなと言う。これってとても残酷だよね? あなたのエゴのせいで、たくさんの子供達が苦しんだと思わない?」
マイはセルの眼前に立ち、右手を真っ直ぐと突き刺した。人差し指をすっとセルの顔に合わせ、鋭い視線で今にも射貫きそうだ。セルは口を開いた。
「……俺のエゴか。確かにそうかもな」
マイは何も言わない。
「でもな、マイ。俺達は、後に続く子供達の事も考えないといけないんだよ。自分が化け物になったらはい終わり、なんて考えじゃいけないんだ。後に呪いを受ける人間が確実にいる以上、自分達が何をすべきなのか、考えないといけないんだ」
セルの声が重く響く。マイは一瞬目を閉じ、胸を上下させ深呼吸した。そして唇を噛み、両手を固く握り締め叫んだ。
「それが鬱陶しいの!」
そして髪をぐしゃぐしゃに掻き毟る。豹変したマイを、二人は驚きの顔で見た。
「そうやっていつもいつも周りを気にして、私達とは違うってすました顔で! セルのそういう所は大っ嫌いだった! 皆そう! セルはいつだって自分が正しくて、いつだって残酷だった!」
掻き毟る両手を顔に移動させ、マイは呻くように震える。
「……皆セルみたいに強くない。皆不安の中必死に自分を保ってる。それなのにセルは、そんな皆を見下してきたんだ」
セルは思わず声を張り上げた。「違う!」しかしマイは更に言葉を続け、弁解を許さない。
「ルーサがアリスを好きになった。それは自然の事よ。レイナちゃんとラルムだってそう。互いに傷を舐め合いながら、そう生きるしかなかった! 皆が家族と呼び、かりそめであってもそう生きて来た! それは誰にも責められないし、責める権利なんて無い! でもあなたは、家族も恋愛も、全て否定してきた! 私達が何とか踏ん張って生きている意味を、無駄なものだと否定してきた!」
マイは叫んだ。全ての不満をぶつけるように、唾を吐きながらまくし立てた。その様子にセルは苦い表情を浮かべ唇を震わせる。
「……俺は、皆を見下してなんかいない。生き方の否定もしていない。俺は、俺が出来る事、するべき事をいつも考えて来た。それこそ命を断ちたいと思った日なんて……腐る程あったさ。でもそれだけはやってはいけないと、自分に言い聞かせてきたんだよ」
セルの脳裏に、今まで成人を迎えた人間が次々と浮かぶ。皆、諦めていた。呪いの連鎖を断ち切れない以上、甘んじて受けるしかなかった。その、諦めの表情。セルには辛かった。自分も呪われた子供であるが故に、諦める気持ちを深く分かってしまうのが辛かった。自分が生きるためではなく、後に続く子供達をこれ以上誕生させないために。悲しむ家族を増やさないために。閉じられた日常で得る少ない欠片を集めて、何とか呪いを解こうともがいていた。
「セルは、どうしていつも周りの人間の事を考えるの?」
今まで黙っていたレイナが冷めた口調で話しかける。セルはレイナに目を向けると、問われた内容を思考するが、答えがでずに返せないでいた。
「あんたみたいに正しい人間が、周りを苦しめる事だってある。確かに私は馬鹿だよ。ラルムに依存して、それ以外を敵視して……つくづくガキだなって思う。でも、私も、私だって……あほみたいに日常を過ごしているわけじゃない。セルからしたらくだらない恋人ごっこかもしれないけど、それでも私からしたら、大切な日常だった」
そう言ってレイナは駆け出した。追おうとするセルだったが、まるで凍り付いたように足が進まなかった。
自然に涙がこぼれた。泣きながら走り去るレイナの腕を掴んだのはマダムリリーだ。レイナは目を見開き、振りほどこうと腕に力を入れる。しかし微動だにしなかった。しばらく格闘したが、マダムリリーは表情も変えずレイナを眺めた。レイナはようやく諦め大きな溜息をついて俯いた。
「どうしました、レイナ」
マダムリリーの言葉にレイナは何も答えない。しかしそっと目を動かしマダムリリーを見ると、下唇を舐めて潤した。
「セルと、揉めただけ」
マダムリリーは「ほう……」と小さく漏らした。一言返したレイナは、タガが外れたように、言葉を続ける。
「セルは正しい。人として、誰よりも。……でもそれが苦しい。自分の甘さが心底嫌になる」
マダムリリーは力を緩めた。レイナは手を振り払うと、掴まれた手首をさすって舌打ちをする。
「ねえ、マダムリリー。私達はどうせただ化け物になるだけでしょ? どうして勉強だとか、他のやつらとの関わりが必要なの? 私達の居場所を管理するだけなら、ただどこかに閉じ込めておけばいいじゃない。どうしてこんな家族ごっこを強制するの? 私もう限界よ……。ラルムがいなくなってから、もう全部がどうでもいいの」
レイナの話を聞いたマダムリリーは、「こちらへ来なさい」とただ一言返す。レイナは訝し気な表情を浮かべたが、歩き出したマダムリリーに素直に着いて行った。二人の足音が古い床の悲鳴として鳴った。レイナはマダムリリーの後ろ姿を眺めながら、両指を何度か丸める。
マダムリリーと話した事は少なかった。そもそも話題が無いし、彼女が子供達と積極的に関わる人間ではなかったからだ。どうしても娘のリツカと接する機会が多かったし、それで生活が成り立っていた。
レイナは思考を巡らせる。これからどこに連れて行かれるんだろう。進む先にあるのは、マダムリリーの部屋とは逆方向だ。レイナが不信感を僅かに募らせた時、マダムリリーが急に立ち止まった。危うく背中に激突しそうになったレイナは、「何?」と若干の苛立ちを見せる。マダムリリーの背中を避けるように顔を覗かせると、そこには誰もいない。
「……失礼。行きましょう」
マダムリリーは再度歩みを始めた。レイナは鼻を鳴らすと、黙って着いて行く。しばらく歩いて再び立ち止まったそこに対して、レイナは素直に疑問を口にした。
「……看護棟?」
健康体の自分にはほとんど縁が無い場所だった。ラルムが出て行った日、リツカがレイナを気遣って連れて来たが、すぐにここから去った。ここへ通じる長い廊下は何となく不気味な雰囲気が纏い、好んで近づくような場所でも無かったからだ。マダムリリーは扉に手をかけると、ゆっくりと右にスライドさせる。
カーテンが閉め切られ、電気が点いていない室内は、当然ながら漆黒の空間だった。レイナは思わず眉根を寄せた。
――何か、いる。
レイナの全身が、無意識に総毛だつ。半歩後ずさったが、それ以上動く事は出来なかった。
「マ……マダムリリー……?」
引きつく唇を何とか動かした。マダムリリーは何も答えない。
室内にいる何かは、二人の存在に気がついている。廊下の灯りが差し込んだから当然だ。その何かは、マダムリリーを通り越してレイナを見ているようだ。レイナは口元を両手で押さえ、震える足で何とか踏ん張って立ち姿勢を保つ。自然に涙が流れ出て、何度も何かの名を呟いた。
「……化け物に、なりきれなかったのです」
マダムリリーはレイナを振り返って冷たい声色で言った。何かが小さく呻き声を上げる。唇と思われる部分から大量の涎を垂らし、両方合わせて八本の腕がそれぞれ別の意思を持つかのように揺れている。顔の中央にある、レイナの顔程の大きさの目が一つ血走っていた。足は三本だろうか。レイナの思考が停止寸前で、それ以上の描写を拒否していた。
「……っ……! ラ、ラルム…………っ!」
胸元に、緑のネックレスが光っていた。レイナはその場で意識を失った。




