第20話 大切にしたいのに、させてくれない。
腫れた目を見ても、母は何も言わなかった。
あのまま大の字に寝転んで、空を見ていた。木の隙間から見える数多の星。アリスはただ黙ってそれを見つめた。涙で顔がぐちゃぐちゃでも、何も気にしない。
そのまま眠りにつき、明け方目が覚めた。随分長い時間家を空けたと言うのに、アリスはまだ帰る気が起きなかった。しばらくそのまま動かなかったが、自分を心配する母の姿が浮かんだ。動かすと痛む体に顔をしかめて立ち上がる。
土にまみれた娘が帰宅したのを、母は黙って迎えた。
「ここを出て行ったって、思わなかったの?」
アリスの問いに、母はしばしの沈黙の後に答える。
「……あなた一人じゃ、あの街に帰れないでしょ」
アリスの体に、冷たい何かが流れるのが分かった。その答えに何も返さず、自室に身を潜めた。布団を敷いて、体を投げ出す。昨晩外で寝たとは言え、寝具に身を委ねると睡魔がすぐにやって来た。アリスはそれを拒まず目を閉じたが、豪快に家の扉を叩く音で現実に引き戻された。
「ロウ、どうしたの?」
顔を出すと、やって来たのはロウだった。応対した母は、爽やかな笑顔を見せる少年に、曖昧な表情を浮かべた。
「アリスいますか? ちょっと見せたい物があって」
アリスが出て行こうとするより早く、母が口を開いた。
「ごめんね、あの子疲れているから。今日はゆっくり休ませたいの」
母の言葉に、ロウは「あ、そうなんですか」と言い、すぐに白い歯を見せて「わかりました、じゃあまた明日来ます」と返す。アリスは思わず扉を大袈裟に強く開けた。
「アリス」
ロウは目を丸くしてこちらを見た。
「ロウ、大丈夫だから。行こう」
さっとロウの元に行くと、母が声を上げた。
「アリス!」
強い語気に、呼ばれたアリスではなくロウが反応する。
「あ、アリス。無理すんな。また明日で」「いいから行こう」
アリスはロウの腕を引っ張り、外へ出た。母はそれ以上何も追及しなかったが、アリスはどんどん家から離れて行く。
「アリス、おい、何かあったか? おばさんと喧嘩でもしたのか?」
しばらく歩いて、ようやくアリスは道端に腰をかけた。アリスは何も言わず、黙って唇を引き結ぶ。何かを察したロウは困ったように頭をかいた。
「そりゃあ、家族でも色々あると思うけどさ。でも母子二人なんだ。母さんを大切にな」
アリスは思わず声を張り上げた。
「大切にしたくても、させてくれない!」
アリスの剣幕に、ロウは微かに動揺する。しかし声を張り上げたアリスの、次の言葉を待つように口をつぐんだ。
「お父さんが死んでから、お母さんは私を一層縛りつけた。たくさん好きな事をさせてもらえて、何を甘えた事を言ってんだって思うかもしれないけど……。私の一番は、絶対にお母さんであるべきだって、決めつけてる。私は……。私だって」
そこまで言って、言葉が続かなくなった。しばらく何も言わなったロウが、そっとアリスを引き寄せた。アリスは驚いて一瞬戸惑ったが、恐る恐るロウの服を握った。
しかしロウの肩越しに、母がこちらを見つめているのを分かってしまった。
「お母さん……」
アリスの言葉に、ロウは跳びはねるように振り返った。そしてぱっと手を離すと、気まずそうに頭をかく。母が一歩一歩こちらに近づいてくる。アリスは黙ってそれを見ていた。
「アリス、お母さんを、裏切るのね?」
うつろな瞳だった。全身の力が抜けたように、ぶらりと垂れ下がった腕が、歩行の力で小さく揺れる。
「裏切る?」
口を開いたのはロウだ。困惑し、アリスと母に交互に視線を動かす。
「駄目よ、あなたは、お母さんとずっと一緒にいるの。ずっとそう言ってるじゃない」
アリスは一歩後ずさった。無意識だった。体が、本能が、危険を察知したのかもしれない。そしてロウの服を掴み、後ろに引っ張る。ロウもまたアリスにならい、一歩距離をとった。
「どうして? どうして皆、私とアリスを引き裂くの。ねえ、どうして?」
母の右手にナイフが光る。それに気がついた二人は絶句し、母から目を逸らさずにいた。駄目だ。アリスの中で警鐘が鳴る。鼓動が跳ね上がり、危険を知らしめる。母の目が、真っ直ぐに殺意となって二人を視界に捉えている。アリスの足元がじりじりと鳴った。退散が定石と判断できたが、思うように足が動かない。唇を噛みしめて、母から目を離さなかった。
「ロウ、逃げて」
アリスは呟いた。ロウの「え」と漏れた声の後、さらに続ける。
「今のお母さん、何するか分からない。ロウを傷つけるかもしれない。だから、すぐに家に帰って。絶対に鍵を閉めて」
ロウはアリスの母から顔を動かさず、目だけちらりとアリスを見やった。
「お前は」「いいから、お願い。一生のお願い。ロウがお母さんのせいで傷ついたら、多分私、おかしくなってしまう」
アリスの願いにロウは顔を歪ませる。喉をぐうっと鳴らし、絞り出すように叫んだ。
「出来ない……出来ない! アリスを置いて行く事なんて、絶対に出来ない!」
アリスは腹の底から声を出した。
「いいから早く! ロウ、お願い!」
ロウは左右に小さく何度も首を振り、葛藤しながらアリスを見た。アリスの懇願に、勢いよく駆けた。アリスはほっと胸をなでおろし、母と対峙する。
母は何も言わなかった。何もしなかった。ただ黙って走り去るロウを見ていた。感情が消えた瞳が、ただ景色を映しているように見える。ナイフを持つ右手がだらんと垂れ下がる。アリスはロウの気配が消えた事を確認し、息を大きく吐き切った。
「お母さん、帰ろう?」
アリスの声に、母親は反応しなかった。
「お母さん……。ゆっくり話そう。これからの事……きちんと、話そう」
母は目を閉じた。そしてゆっくりと頭を垂れた。「……先に帰っていて」アリスは頭を勢いよく振った。
「嫌よ、一緒に……」「いいから! ……ロウの所に行く元気なんて、もう無いわよ」
母の一喝にアリスの肩が驚きで揺れる。しばらく動けなかったが、母の鋭い眼光に怯み、立ち上がる事しか出来なかった。アリスは頷き、そのまま歩き出した。
その翌日の事だ。母親とロウの遺体が発見されたのは。
アリスはこの世界で、一人になった。




