第17話 解放
第六章 アスカ・十五歳
さっきから不味い不味いとうるさいなあ。アスカは後ろから聞こえる声に苛立ちを覚えた。しかしすぐに「ああ、いけない」と小さく漏らし、にこやかな笑顔を張り付けて食事を続ける。物心ついた時から施設の食事を美味しいと感じた事は無かったが、食べないと死んでしまうから食べる選択肢しか無い。そんな状況下で「あー、本当にまっず」と口に出しながら食事をするレイナが、心底馬鹿に見えて仕方なかった。
「アスカ、リツカの結婚祝いなんだけど」
ルーサに話しかけられて食事の手を止める。
「どうしたの?」
「ご飯中にごめんね。雑貨屋さん、どうやら体調不良でお店を休んでいるみたいで」
ルーサが頬をかきながらアスカに謝罪する。「ああ」と、アスカは目を細めて返した。
「それは仕方ないよ。気にしないで、ルーサ」
手を上げ答えると、両手を合わせて「本当にごめん」と申し訳なさそうにルーサが言った。かぶりを振って「だから大丈夫だって」と返すと、ようやくルーサはその場を去った。
アスカはパンを口に運んだ。水分がほぼ失われている塊は、咀嚼する度に自身の唾を取り込めば何とか喉を流れて行く。子供達は一日三回十分程で食事を終わらせ、その日ごとにそれぞれ思い思いに過ごす。アスカの周りには自然に人が集まって来るが、食事だけは誰ともとらないと決めている。
「まずかったあ……。ラルム、外行こ」
アスカの背後で再びレイナの声がした。アスカはうんざりした表情を浮かべ、片手で顔を覆う。
昔からラルムとレイナが嫌いだった。場の秩序を乱す二人。それを何とも思わず、のうのうと生きているのが許せなかった。特にレイナの悪ぶった態度と、それを格好いいと勘違いしている様子が無性に苛立ちを募らせる。嫌いが増長すると、次第に声を聞くだけで溜息が出るレベルになった。どうか自分を苛立たせないでくれと願うが、声に出さないそれをレイナが理解出来るわけも無く。
「アスカ」
先程から何度も呼ばれ自然に眉間に皺が寄ったが、息を吐いてからそれを消した。そして顔を上げると、セルが彼女を見下ろしている。
「どうしたの?」と尋ねる。しかしセルはスープの皿に目線を落とすと、アスカがそれに気がつく。ああ、面倒くさいなあ。さっさと用件を言ってくれていいのに。
アスカはスープの皿を片手で持ち、ざっと飲み干すと口元をぬぐった。セルは空いている椅子をアスカの横に引き寄せ、話を始める。
「リツカの結婚祝いなんだけど」「あー、それルーサから聞いた。だから大丈夫」「いや、それじゃなくて」「ん? 何さ」食器を重ねて頭の後ろで手を組んだ。椅子の背もたれに体重を預け、セルの言葉を待つ。
「物以外に一つってやつ。あれ、何か決まったのか?」
ああ、と小さく漏らしアスカは宙を見上げた。物で一つ、物以外で一つ。そうリツカをお祝いしようと決めたが、物以外の案は保留だった。
「色々意見は出たんだけどさ。お祝いの言葉、とか、合唱、とかさ。でも、物以外のお祝いって、結局は皆の協力が必要なんだよ。物も集金とかあるけど、ぶっちゃけそれはどうとでもなるんだよね、高額じゃないし」
セルは目元を動かした。そして理解したと言うように何度か頷くと、「わかった。あとさ、お前まとめ役だからってあまり抱え込むなよ。頼りにならないだろうけど、俺はいつでも相談にのるから」
アスカの肩を軽く叩いてセルは言った。そして去って行く気配を感じながら、アスカは思った。
ああ、やっぱり。セルだけがあたしの理解者だ。
アスカの顔に、自然に笑みが浮かぶ。すぐに頬を軽く何度か叩き、表情を戻した。席に戻るセルに目を向けると、ルーサとマイが隣を囲むようにいる。
アスカの視線はマイを捉える。反射的に眉間に皺が寄った。しかしぶんぶんと頭を振ると、前に向き直り背伸びをした。
廊下を歩いていると、前方から不審な気配がする。アスカは極力視線を固定し、気がつかない振りをした。しかしすぐに相手から距離をつめられ、両肩を掴まれる。
「アスカ。この前の試験ですが、またあなたが国で一番の成績でしたよ」
マダムリリーが満面の笑みでそう言った。アスカは「ありがとうございます」と、何に対して礼を述べているのか分からないが、そう言って頭を下げた。そして「失礼します」と一歩踏み込むが、相手はそれを許さなかった。
「機関の幹部さんはとても褒めていました。施設の教育を見習いたいと」
アスカは曖昧な笑みを浮かべた。ひりつく肌。掴まれた肩から流れる嫌悪感が、全身を巡る血液のように、自分の体内を駆け抜ける。ああ嫌だ。早く、どこかに行ってくれ。
「そこでお知らせですが」
マダムリリーがようやく両手を離した。そして歯を見せて笑う。
「国一番の成績を誇る学校で、アスカに勉強のやり方を教えてもらう事になりました」
言葉が耳に入ったが、理解までに至らなかった。
「……は?」
間の抜けた声を出すと、マダムリリーは上機嫌のままそんなアスカに説明を始めた。
「そこの学長さんから機関の幹部さんに相談がいったみたいで。是非ともアスカの勉強方法を生徒に教えて欲しいと。それが国全体の底上げに繋がるからと、懇願されたようですよ」
マダムリリーの話を聞いても、アスカは呆気に取られていた。
「ですので来週には、この施設を出て行ってもらいます」
決定事項。断定した物言いに、アスカはようやく内容を理解した。その間数秒。全身に居座った嫌悪感が、一気に憎悪に変わるのを感じる。
「納得いきません。あたしに何の相談もなく」
アスカは両手を固く握る。こうでもしないと、この気持ちの行き場が無かったからだ。両掌にぶつけるように爪を皮膚に食い込ませた。急激に湧き上がる怒りの前に、この程度は痛みでは無かった。
「あなたに相談する必要がありますか?」
心底意味が分からないと言った風に、マダムリリーは首を傾げた。その返答にアスカは絶句し、次の言葉が紡げずにいた。
「誇りなさい。あなたの頭脳を買われたのですよ。人として残された時間を、この国のために捧げるのです。そしてその後も、あなたは国を守る存在になる。とても名誉な事でしょう」
にこやかに告げるマダムリリーを見て、アスカは徐々に怒りが冷めるのを感じた。熱い物が去って行く。怒りが無くなったわけではない。ただ諦めや絶望に変化しただけだ。アスカは呆れて鼻で笑った。
「……あたしは、そんなもののために、頑張ってきたわけじゃない」
マダムリリーは首を傾げたまま止まる。
「あたしは、あたしとして残された、少ない時間を。そんなくだらないもののために使う気は、ない」
アスカは途切れ途切れに言葉を繋げた。唾を飲み込み舌を噛みそうになりながら、何とか伝える。自分達を家族と言いのける目の前の人間は、家族を何の断りも無く外へ放り出そうとしている。アスカの中で、眼前の母親に対する嫌悪感が湧いて出た。
何も言わないマダムリリーにしびれを切らし、アスカは勢いよく横を通り過ぎた。呼び止められるわけでもなく、アスカは足音が響かんばかりに廊下を進み、自室へと戻った。
昼休み。食欲がわかないアスカは、早々に食事を切り上げ外へ出た。施設の裏手。施設全体を巨大な壁で囲まれた中の、唯一の自然と呼べる場所だった。木々がうっそうと茂る。陽が届かないそこは、途端に人気をなくした。静寂の中に、時折木々が風に揺らめく心地よい音が耳に届いた。
木の根元に腰を下ろす。目を閉じると思わず眠ってしまいそうな穏やかさだったが、午後の授業に遅れてはいけないと、頬を軽くはたいて空を見上げた。木々に遮られ爽快な視界とはいかないものの、建物の中より格段に居心地が良かった。アスカは視線を前方に移し、昨日言われた事を考えていた。
来週ここを出る。
アスカは舌打ちをした。何故自分が。しかし答えは明白だったし、マダムリリーも言っていた。それは分かっている。自身が国で一番優秀だと、数字が示しているからだと。
国を守る兵器になる前に。自分が自分で無くなる前に。生きた証を残したかった。それが自分を生んでくれた母親に対する恩返しだと思った。
あたしは生きているよ。
国で年に一度行われる大きな学力試験。施設の子供も対象になるそれに、自分が成績上位者として発表されたら、母親はきっと喜ぶだろう。アスカはそんな思いで毎日毎日頑張ってきた。しかし今となっては、それを後悔しそうだ。それは母親よりも、大切だと思える人物がいるから。
脳内に浮かんだのはセルだった。
ぶっきらぼうでありながら、常に周りを見ている人間。子供達の中で誰もやらない『呪いを解く方法』を探す彼。出来っこない、意味が無いと言う子供もいるが、それでもセルは街に行く度に聞き込みをしている。調べる術を圧倒的に持たない呪われた子供は、最初から無理だと投げ出している。アスカもそうだった。施設に来た当初は方法を考えたが、思いつきもしなかったし調べようが無かった。
しかしセルは声を上げる。行動をする。ラルムやレイナと衝突が多いが、それも二人の一方的な因縁によるものだ。セルから喧嘩をふっかける事は見た限り決して無いし、むしろセルは物静かな人間だ。
セルは度々アスカに声をかけた。「無理するなよ」何でも抱え込む彼女を気にかけていた。アスカは能力が高いので、全てにおいて苦が無くこなせたが、それ故大人でさえ彼女を当てにしてしまう。セルはそんなアスカを気にかけ、口数こそ少ないが見守っている。
アスカの脳裏にセルとの思い出が浮かんだ。それは楽しい出来事ばかりだった。自然に緩む自身の顔を、人気が無いここでは元に戻さない。
次にマイの姿を思い浮かべた。
マイ。生まれながらに声を失った、かわいそうな人間だとアスカは思った。話す事が出来ない彼女は、手話を使ったコミュニケーションを行う。そのために他の子供達もそれを覚える必要があった。最初に覚えたのはアスカだ。それこそ難なく会得した。そして周囲の子供達に自分が教える事で、リツカの負担を減らした。物心ついた頃、マイの面倒をよく見ていたのはアスカだった。最初に手話を使えるようになったため、自然に一緒にいる事が増えたからだ。
アスカはそれを当然と思っていたし、周囲もそう思っていた。アスカは出来る子供。皆の意識の中で、そう思うのは自然だった。
しかし次に手話を覚えたセルが、アスカの手助けをするように一緒にいた。アスカはリツカに様々な事を頼まれていたし、セルがマイの傍にいて、そこに自然にルーサも加わって、いつしかその三人が一緒にいる事が当たり前になった。
アスカの胸がざわついた。今まで色々と教えてあげたのに。簡単に、他の子と仲良くなるんだ。それは次第に嫌悪感に変化する。
マイへの嫌悪。セルへの恋心。その二つが心に同居をし始めた時から、アスカの中でマイに対する嫌悪が憎悪へと変わった。
セルはマイのお守りを任された、かわいそうな人間。
かわいそう。そう、セルはかわいそうなのだ。
根が優しいばかりに、マイのそばから離れられないのだから。
いつしかアスカは思った。セルは自分のために、マイと一緒にいるのだと。自分の負担を減らすために、マイと一緒にいるのだと。
そうだ。名案が浮かんだと、指を弾いた。すっと背筋を伸ばすと、一刻も早くこの提案をしたいと胸が高鳴る。土の汚れを払い、彼女は駆け出した。
施設の出入口で、マダムリリーとぶつかった。アスカは謝りもせず、もつれるように足を滑らせた。マダムリリーは訝し気な表情を浮かべたが、声をかける間も無くアスカは駆けて行く。
自分がセルを解放してあげよう。
廊下でマイとすれ違う。アスカは一瞬目線をマイにやったが、すぐに無言で前方を見据えた。そして「……ばーか」と言い残し、足早に去る。
ああ、本当に馬鹿。この施設内の人間は馬鹿ばかりで、まとめる事に心底疲れたわ。
それならセルも一緒に、この施設を出て行こう。それが、彼を解放する術なのだ。




