第1話 子供達の暮らし
第一章 セル・十五歳
午前の授業が終わり、セルは教室を出た。まだ初夏だと言うのに、異常な熱気が建物内を支配している。セルの両隣には男女がいた。右隣には少女。左隣には背伸びをする少年。
セルは猛烈な暑さにうんざりしながら、廊下の壁に背を預けた。重みで壁が微かに軋む。随分古い建物だ。建てつけが悪くなるのは仕方ない事だった。
三人は行動を共にする事が多く、今日も自然な流れで一緒にいる。授業から解放された安堵感から、他の子供達は自然に笑顔を見せて、思い思いの休み時間を過ごした。
たわいない会話をしながら、セルは額にうっすら滲んだ汗を拭った。黒い前髪がじんわりと水分を含み、思わず手で風を送る。左耳のピアスも熱を帯びていた。
『マイ、今日の授業で分からない所はあるか?』
セルは指を動かして問う。マイはすぐさまセルと同様に指を素早く動かし、『所々でセルが補足してくれるし大丈夫。いつも助かってます。ありがとう』
セルはほっとしたように頷いた。「それなら良かった」と呟く。
マイは耳が聞こえない。そのためこの建物で暮らす者は、手話の心得があった。彼らが暮らす国、アーレンシュの独自の手話だ。細かい部分に対応された手話のため、覚えるのは容易ではなかった。
「ねえセル」
呼びかけにセルは口を開いた。
「ん?」
少年――ルーサはにやりと笑みを浮かべ、セルの肩に手を乗せる。
「この前雑貨屋で僕がナンパされた話、聞く?」
「興味無い」
「オレンジ色の髪が素敵ですねって。でも客のその子より、店番の子の方が百倍美人で」
「興味無い」
セルの食い気味の返答に、ルーサは唇を尖らせた。明らかな不満の色を隠さず浮かべるルーサ。毎日一回必ず聞かされるルーサの恋愛話に、セルは呆れて聞き流す。そんなセルにルーサはへこたれず、相手にされない事を承知で語る。
「本当にセルは冷たいよねえ。それに比べてマイは優しいよ」
ルーサは話しながら指を動かした。マイはそれに気がつき、すぐにルーサが紡ぐ「セルは冷たい」の指の動きに小さくかぶりを振った。
『ルーサのお話、楽しいもの。いつも元気をもらえるわ』
マイが素早く動かす手に、ルーサは見る見るうちに晴れやかな表情になる。そしてセルの肩を勢いよく叩くと、「でしょ?」と鼻息を荒くして笑った。マイも肩を揺らし、目を細める。
「はいはい、良かったな。そろそろ昼飯食いに行こう」
セルは首をすくめそう言うと、廊下を行った先にある広い部屋に入る。そこは幾つかの長テーブルと、前には食事が入った大きい入れ物が置いてある。この建物で暮らす子供達が食事をする部屋だった。
ルーサとマイもそれに続く。セルはいち早く部屋の前方に用意された昼食を取り、定位置に座った。
「ちょっと邪魔なんだけど」
マイが食器を落とす音が響いた。一瞬にして部屋が緊張に包まれる。
またか、とセルは辟易とした。小さく舌打ちをし立ち上がると、落ちたパンを食器に戻すマイの元へ向かう。傍にいたルーサも眉根を寄せた。
「レイナ、謝れよ。お前がマイにぶつかっただろ」
セルの言葉に、レイナは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。腰まである黒く長い髪を払うと、一歩踏み出してセルを見据える。レイナは背が高いため、男のセルと並んでも体格はそう変わらない。大きな目を見開いて、ずいっとセルを威嚇するかのように指を突き出す。
「あんたはこいつの保護者気取りかい、セル。毎回毎回うざいわ」
立ち上がったマイが『やめて』と制止するのを、レイナは更に噛みついた。
「だーかーら! その手話もうざいんだよ! いちいち指でやりとりなんて、まじでうざいうざいうざい!」
罵倒するレイナの言葉は分からなくとも、何を言われているかは雰囲気でマイに充分伝わるだろう。
レイナのマイに対する圧倒的な悪意。剥き出しの敵意。セルが再び口を開きかけた時、部屋に入って来た男が一足先に声を出した。
「うるせえぞレイナ」
レイナの唇の端が上がった。「ラルム!」愛おしむような、女の声を出す。ラルムは食器にスープを注ぎ、駆け寄るレイナから事の顛末を聞く。
「まじでこいつらうざいんだよ。ラルムやっちゃってよ」
レイナはセル達をちらちら見ながら笑う。いくら体格が同じだろうと、男のセルに力でかなわない事を知っている彼女。自身の男に報復を願っているのだ。あまりにも絵に描いた流れに、セルは思わず鼻で笑った。
「何がおかしいのよ! ああもうむかつくなあ……! ねえラルム! 食べるのなんて後にして、早くこいつらを――」
「黙れ。俺に命令するな」と低い声でレイナを制すると、部屋にいる全員がラルムとレイナに注目する。
「ごめん……」
ラルムはレイナの首元を掴むと、「お前はいつも騒がしいんだよ」と吐き捨てた。
「レイナ!」
慌ててルーサが止めに入った。ラルムはレイナからルーサに目線を移動させる。鋭い目つきにルーサは言葉を呑んだが、レイナをかばうように間に入る。
「何してるの!」と大声がセル達に届いた。
「……リツカ」
ラルムは振り返りもせずそっと呟く。
「ちょっと、レイナ。大丈夫?」
駆け寄るリツカの手を払い、咳込みながらレイナは上体を起こす。
「ラルム、一体何が」「うるさいなあ!」
ラルムが答えるより先に、レイナがリツカに向かい声を荒げた。
「何も無いよ、ほっといて」
レイナの返答に納得がいかないリツカは、それでも食い下がる。
「そんなわけないでしょう。ねえラルム、説明してちょうだい」
リツカはラルムに視線を向けると、ラルムはふっと笑った。
「……うぜえんだよ。どいつもこいつも」
「うざい?」
リツカはラルムの肩を両手で掴んだ。ラルムは唇の端を歪める。
「てめえら全員うぜえんだよ。当たり前だろ。血の繋がりもねえ人間が、何年も寝食を共にするんだ。ストレス以外の何物でもねえだろ」
吐き捨てるラルムに、リツカの表情は暗くなる。しばしの沈黙の後、リツカは重い口調で告げた。
「血の繋がりは無くても、私達は家族よ」
その言葉に真っ先に反応したのはレイナだ。ラルムの肩を掴むリツカの手を勢いよく払いのけると、リツカの襟元を引き寄せて叫んだ。
「ふざけんな! 家族なもんか! 綺麗事抜かすんじゃないわよ!」
セルはすぐさま二人を引き離す。興奮した様子のレイナ。リツカは左右に小さく首を振ると、セルをそっと押しのけてレイナに言った。
「私は家族だと思っている。何があっても、あなた達は私の妹と弟よ」
レイナは唇を引き結んだ。眉をひそめ、わなわなと小刻みに震え出す。
「じゃあ助けてくれよ」
ラルムの声に、リツカは「え」と漏らした。
「じゃあ俺達を助けてくれよ。来月の俺の誕生日、お前にどうにか出来るのかよ」
自嘲気味に告げるラルムに、レイナは喉を鳴らす。するとルーサがたまらず割り込んだ。
「いい加減にしなよ。リツカが言っているのは、そういう事じゃないから」
「……うぜえんだよてめえも」
間髪入れず悪態をつくラルムに、ルーサは一瞬たじろいだ。
「てめえもむかつくんだよ。セルにくっつく金魚の糞が。目障りだから消えな」
ルーサを見下ろすと、その目の奥は憎しみが込められているかのように暗く感じた。
「お前のそういう言動が、俺にとっては目障りだけどな」
セルがそう嘲ると、ラルムは目を細める。「誕生日が近くて苛立つ気持ちは分かるが、それを周りにあたり散らすなよ」
重い沈黙が流れた。居心地の悪さを感じたのだろうか。ルーサが妙に明るい調子で声を出す。
「ストップ! ご飯冷めちゃうし、もうやめよう。リツカも今日は見逃して?」
ルーサの言葉にリツカはしばらく考え込んだ。しかし「分かったわ」と呟くと、重い足取りで部屋を後にした。
「ほら、セル、マイ。ご飯食べちゃおう」
ルーサに促されてセル達は席に戻る。そして事の成り行きを見守っていた他の人間も、それぞれ昼食に戻った。ふと目を向けると、ラルムが部屋を出て行った。それに続くレイナだった。