また、君に誓おう
「なんでお前もついてくるんだよ」
車のキーを手持ち無沙汰に手の中で転がしながら、咲島は今日何度目かわからないセリフを口にした。冷たく乾いた空気に金属音が刺さる。
「私もクラッシュに早く会いたいんです。先生だって可愛い女の子が話し相手になってくれて嬉しいでしょ?」
「早くその可愛い女の子ってやつを連れて来いよ」
なに言ってるんですか、と青は笑い飛ばす。
「目の前にいるじゃないですか」
青は跳ねるように歩速を上げて咲島を追い抜いていく。お前が先に行っても乗れねえぞ、と咲島は呆れたように言った。
新千歳空港にあるレンタカー店で借りた赤いコンパクトカー。その荷台に青が大きなボストンバッグを詰め込む。キーを回すと真っ白い息を吐き出して車が唸りを上げた。青が助手席に乗り込む。気温マイナス一度。車内が暖まらないうちに車は走り出す。
ジャパンカップの翌週。行先は北海道は新ひだか町にある翠嵐牧場。鼻出血発症後に休養しているクラッシュオンユーの様子を見に、咲島と青は北海道に訪れていた。
幸いなことに雪もなく車で東に一時間と少しで牧場に到着した。車から降りると、
「やあ、お疲れ様。サクちゃん」
クラッシュオンユーの馬主、武市がこちらに気付いて手を上げた。咲島が頭を下げる。青もペコリと頭を下げた。
「お早いお着きですね」
「昨日から近くに泊まってたんだよ。夏もいいけどやっぱり僕としては北海道は冬がいいな。この冷たい空気がいい」
「もう馬は見られたんですか?」
「ああ、少しね。元気そうでよかったよ。今週末のレースからでも走れそうだ。――まあ、でも」
武市は物憂げに顎を撫でる。
「電話で言った通り出走の判断はサクちゃんに任せるよ。今日はそのために来てもらったからね」
有馬記念への出走の可否。
札幌記念一着。天皇賞(秋)は降着で四着となったが、二位入選。クラッシュオンユーはG1レースで一線を画す実力を有している。
体調が万全であれば年末の有馬記念の出走はなにもおかしいことではない。有馬記念まで一ヶ月。中央所属の馬は初出走馬を除いて十日前までにトレセンに入厩する必要がある。調教を考えればもっと早くだ。
鼻出血の出走停止が明けたこのタイミング。ここがデッドラインだ。
「……そうですね」
有馬記念に出すつもりはない。
春は挫跖。秋は鼻出血。この半年、クラッシュオンユーは軽度とはいえ怪我を繰り返している。実力があるだけにもっと大事に扱うべき馬だ。
面子が揃うと言われている今年の有馬記念にこの状態のクラッシュオンユーを出してどうする。ましてやトルバドゥールが出るというのに。
「じゃあ、早速見ましょうか。クラッシュオンユーはどこにいるんです?」
咲島の問いに若い厩務員が、
「今は放牧地の方に」
と左の方を指を差した。早速そちらに向かおうとして異変に気付く。……いない。
「……日鷹は?」
「えっと、なんか大きい荷物持ってあっちの方に行きましたけど」
厩務員は再び左の方を差した。咲島は舌打ちして足早にクラッシュオンユーがいる方へと向かった。
途切れない地平線。青く揺れる草。数頭の馬の群れ。少し離れて青毛の馬がいる。クラッシュオンユー。
そして、そこからまた離れたところで人が一人立っている。青だ。
思わず舌打ちする。
「おい、日鷹! なにやってんだ! 勝手なことするんじゃねえ!」
青は振り向かない。足元に荷物を置き、ただじっとクラッシュオンユーの方を向いている。
なにをしようとしている?
怪訝に眉を寄せたその時、クラッシュオンユーが突然駆け出した。
常歩、速歩から駈歩。そして、襲歩。獲物を見つけた捕食者が襲いかかるような勢い。興奮している。向かう先は――青だ。
しかし、青は微動だにしない。
慌てて柵を乗り越えようとするも上手くいかない。
「おい、バカッ! 早く逃げろっ!」
クラッシュオンユーはあっという間に距離を詰める。
間に合わない。くそっ。
「日鷹っ!」
瞬間、青の横を吹き抜ける風のように通り過ぎる。
暫く走ると、クラッシュオンユーはゆっくりと速度を緩めた。大回りして振り返ると何事もなかったように歩いて青のもとへ向かう。咲島はようやく柵を超え、クラッシュオンユーの少し後ろに小走りで近付く。
クラッシュオンユーは青から一メートルほど離れた所で足を止めた。ただ静かにその後ろ姿を見つめている。
青が振り返る。
背中に悪寒が走った。
ぞっとするほどに爛々と輝く瞳。薄っすらと口元に浮かんだ笑み。凪のような穏やかさのなかに、今にもすべてを吹き飛ばしてしまう嵐のような激しさが渦巻く。熱。それが白い息となって口から湧き立ち、ひととき形を成す。
その姿が遠い記憶に重なる。
相対する一人と一頭。静寂。
「久しぶりだね、クラッシュ」
青が静かに話し出す。クラッシュオンユーは微動だにしない。
「あんたがのんびりしてる間にさ、私、G1勝っちゃった。いいでしょ」
青は得意気に笑う。
「トルバドゥール」
青はその馬の名を口にして、
「アレクサンダー、アマクニ、リアルビューティ、パリスグリーン、スティレット――」
次々と馬の名を言った。それを言い終わると、
「那須さん、ルピさん、刀坂さん、成海さん、小豆畑さん、岸さん、猿江先輩、由比、愛、千崎、剣くん――」
今度は騎手の名を挙げていった。
「すごいんだよ、みんな」
クラッシュオンユーの口元から息が白く吹き上がる。
「たくさん強い馬がいる。たくさん上手い騎手がいる。私たちは一番じゃないかもしれない」
声とともに、青の口から漏れる白い息が一際大きくなる。
「でも、勝とう。前を走ってるなら、全力で走って追い抜いていくしかない。そして、クラッシュ、あなたとならそれができる」
クラッシュオンユーが一歩、二歩と前へ進み、青へそっと額を差し出す。青はそっとその顔を抱き寄せた。
まったく、
「勝手に決めるんじゃねえよ」
ようやく咲島に気付いたように青が驚いて顔を上げる。ぎゅっと眉を寄せ唇を尖らせた。
「絶対にレースに出ます。誰が嫌だって言っても」
「お前がなんと言おうと、出走の可否を決めるのは俺だ」
青は無言でクラッシュオンユーから離れ、足元のボストンバッグに手を伸ばす。
「乗るんじゃねえぞ」
青がファスナーにかけていた手を止める。なんでわかったのだという顔で青は振り返った。
「バカみてえな大荷物持ってきてると思ったが、それ乗馬用具だろ。ここで乗れることを証明したらレース乗せてもらえるとでも考えたのか? バカバカしい。だいたい、こんなところで勝手に乗っていいわけないだろ」
「でも――」
「ここじゃなくて有馬で乗れ」
青の目が瞠く。少し遅れてクラッシュオンユーがゆっくりと振り向く。目が合った。
わかっていた。
天皇賞(秋)。あのレースが終わった時から。
クラッシュオンユーの眼に宿った怒り。敗北への屈辱。同じだ眼の色だ。日鷹と。
その魂は、競馬場に、レースに囚われている。そこに生きる意味があるのだと語っている。止めるべきかもしれない。だが、止めることができない。
一瞬でも、こいつらに賭けたいと思ってしまった。
「はいっ!」
青の声がどこまでも大地を駆けた。
「先輩! クラッシュオンユーが有馬出走するみたいですよ!」
栗東トレセン調教スタンド四階の記者席。息を切らせて駆け込んできた末崎が開口一番言った。
「そうか。じゃあ、さっさと記事書け」
そう言ってパソコンに顔を落としたままの新発田を末崎は不服そうに見下ろす。ひとつ息を吐いたあとに末崎は向かいの席に座った。
「もっと驚いてもいいんじゃないですか? クラッシュオンユーは秋の天皇賞の鼻出血もあって出走が不透明だったんだから。札幌記念はリアルビューティに勝って一着。秋天も四着ですよ。立派な対抗馬ですよ対抗馬」
「あのな、話題ならいっぱいあるんだよ」
画面の端に小さく表示されたニュースサイト。そこには競馬関連のトピックがずらりと並んでいる。
『トルバドゥール グランドスラムへ死角なし』
『岸 二戦ぶりにトルバドゥールの鞍上へ』
『有馬記念に二冠馬アレクサンダー、ダービー馬アマクニ参戦 牝馬二冠パリスグリーンも』
『地方競馬の麒麟児・千崎いさな 有馬電撃参戦』
『那須孝介の引退にざわめく競馬界』
『有馬記念 歴代でも屈指のメンバーが揃うか』
「まあ……。たしかに、そうですね」
末崎は渋々頷いた。新発田はちらりと視線を上げた。
「悔しかったらお前が面白い記事にしろ。記者なんだから」
末崎が顔を上げる。ノートパソコンを開き、黙々と打鍵していく。
十二月。有馬記念までひと月を切った。
次回は3/17(火)更新予定です。




