魔王の視座
『ジャパンカップ共同会見。スリープウォーカーの一星調教師です。よろしくお願いします』
その声に続いて壇上の一星に対して質疑が始まる。
水曜日の最終追い切り後、週末のジャパンカップに向けた共同記者会見が栗東トレセンにある調教スタンド内の一角で開かれた。栗東トレセンから出走する馬は十頭。それぞれの調教師、調教助手、騎手が集結している。
「猿江の次は日鷹か。あのレベルにいる馬なのに、もう少しいい騎手くらい用意してやったらどうだ」
妻鹿調教師の隣に座る田知花調教師が冷たく言った。強張った顔で田知花の横顔を窺う。銀縁眼鏡の縁が鈍く光る。
「まあ、仕方ないか。どうせ次の有馬では岸に戻るらしいし、いくら強くても今懇意にしてる馬主に仁義を切ったほうが利口だ」
田知花を少し睨んで、妻鹿が口を震わせながら言う。
「せ、先生が短期免許の外国人騎手とかを貸してくれたら助かったんですけどね。ヴァレンタインとか。ほかの厩舎ですけどナバーロとか」
短期免許の外国人騎手は馬主と契約して来日してくる。たとえばイギリスのヴァレンタインは四王天ファームと契約し、田知花が身元引受調教師だ。ビザやら書類やらあらゆる手配をしているのも馬主。当然馬主の所有馬に乗ってもうために高い金を払って呼ぶのだから、縁もゆかりも無いトルバドゥールに乗せてやるお人好しはいない。競馬はボランティアではなくビジネスなのだ。
「日鷹は三歳のクラッシュオンユー以外は重賞で活躍できるようなお手馬はいないし、そのクラッシュオンユーも今は休養中。使い捨てるにはお誂向きだな」
妻鹿がムッとして、
「使い捨てなんて気持ちはありませんよ。うちの調教助手の推薦ですからね。実力だって申し分ない。――それに、先生もアマサカルに乗せてたじゃないですか。NHKマイルで。あの子の腕は買ってるんじゃないですか?」
田知花はしらけた目をして鼻を鳴らす。
「……浅いな。俺は勝たせるためにあれを乗せてねえよ」
「あの、妻鹿先生。出番です。お願いします」
職員が恐る恐る話に割り込み妻鹿を壇上に促す。妻鹿は憮然と立ち上がると、肩を怒らせて壇上へ向かった。
くそ陰険ジジイが。
妻鹿は心のなかで毒づいた。
『ジャパンカップ共同会見。トルバドゥールの妻鹿調教師です。よろしくお願いします』
「……。よろしくお願いします」
では、と口火が切られ質疑が始まる。
『今回のジャパンカップ、日鷹騎手がトルバドゥール初騎乗ということになります。前走の猿江騎手に続いての騎手交代となりますが、不安要素などはありますでしょうか』
なにかがぷつりと切れた。
妻鹿が勢いよく立ち上がる。倒れる椅子。机を強く叩く掌。
「ない! 絶対に勝つ!」
会見場に響き渡った声。しんと静まった室内では妻鹿の荒い息遣いだけが聞こえた。その姿は、『妻鹿調教師 堂々たる勝利宣言』として翌日とあるスポーツ紙の一面を飾ることになる。
十五時二十五分発走予定。
東京競馬場本日の最終レース。第十二レース、G1ジャパンカップ。
長円形のパドック。パカパカと軽快な音を鳴らしを回る馬。すし詰めになりながらその姿を追う熱心な観客。パドックでの騎乗にあわせて騎手が控室から続々と顔を出す。
「よお、随分調子乗ってるみたいやな、日鷹ちゃーん」
一星北斗が青をからかう。
「調子には乗ってませんよ。勝ちますけど」
「そういうとこやそういうとこ」
北斗は呆れたように首を振って、青のヘルメットを軽く小突いた。
少しして騎乗命令がかかる。騎手はそれぞれの馬のもとへ散る。青もトルバドゥールのもとへと駆けた。
紫紺のゼッケン。左側面には白文字で「11」と「TROUBADOUR」の文字。大きく息を吸い、声を出す。
「今日はよろしくね、トルバドゥール」
じろりと眼球が動き、縁に白目が覗く。口元が捲れて見える強靭な歯。
怖い。
だが、それでいい。怖くていい。
怖さは未知への生理反応。
怖いということは、まだ経験したことない領域へと踏み出している証だ。
気圧されぬように胸を張る。
「そんな睨んでもダメだよ。今日乗るのは岸さんじゃなくて私だから」
子供に諭すように、
「心配しなくてもちゃんと勝たせてあげる」
そう言って笑顔を作った。馬を曳いていた厩務員に手伝われトルバドゥールに跨る。深呼吸を一度。
あなたに勝つために、今日はその背中貸してもらう。
「よろしく」
もう一度念押しするように呟いた。
『十七頭が揃いました東京競馬場第十二レース、国際招待競走G1ジャパンカップ。ここまでG1六勝。トルバドゥールが勝利を収めグランドスラムに王手をかけるのか。ここで魔王を打ち倒し、伝説の夜明けを告げる馬が現れるのでしょうか。
日出る国、日本。その名を冠した日本最高峰のレースが今まさに幕を明けます。――各馬ゲートイン』
一瞬の静寂。ゲートが開く。
弾ける喚声。
『――スタートしました。バラけたスタート。おっと、トルバドゥールが一頭抜け出しました。どよめく東京競馬場。一番人気トルバドゥールが先頭に立ちました。二番手に――』
前走、天皇賞秋で出遅れたトルバドゥール。今日のスタートには細心の注意を払ったが、今日は出が良すぎる。
がたがたと激しく揺れる鞍上。下っ腹に力を込めて鐙に踏ん張り、慎重に手綱を緩める。外れる馬銜。
「勝手に走るな……!」
苦々しく噛み締めた口元から声が漏れる。
気が立っている。興奮に合わせてはいけない。落ち着け。
冷えた空気を吸い込み思考を冷ます。
私が乗っているんだ。勝手なことは許さない。
回転襲歩から交叉襲歩に変わる。荒々しく踊る背中が凪ぐ。ここぞとばかりに手綱を握り直し、後続の逃げ馬に進路を譲った。
『下がっていきますトルバドゥール。先頭変わってマックスメロディ、ロジカルマジックが続きます。その後ろ――』
位置を下げる。
よし。大丈夫。落ち着いた。
『トルバドゥールは集団のやや後ろです』
一〇〇〇メートルを通過。向正面に入る。暫く馬群は膠着する。
「ちんたら走っとると置いてくで日鷹ちゃん」
安い挑発。隣を走る北斗が笑う。笑い声を残して北斗の乗るスリープウォーカーが前に出た。スリープウォーカーだけではない。いつの間にか数頭の馬が前を走り壁ができる。
青は首を動かす。後ろ。続いて左右。
――しまった。囲まれる。
一頭の馬にだけG1を勝たれては騎手も馬主も調教師も当然面白くない。トルバドゥールは他の十六頭にとって共通の潰さなくてはいけない敵。マークも厳しくなる。これほどのプレッシャーの経験がなかった故に見誤った。下唇を噛む。
第三コーナーの大欅を過ぎた。
――どうする?
そうしている間にも馬が背後から迫る。
その時、手綱にぐんと力が加わった。左手が前に引かれる。
――外……?
トルバドゥールは右側――すなわち外に出たがっている。しかし、ここで大きく外に出て間に合うのか? 序盤に余計な体力も消耗しているのに。――いや、
「――いこう」
賭けるしかない。ここに留まっても道はない。
合図を送り、前にある壁を滑るようにトルバドゥールを大きく外に出す。一気に開ける視界。それを見た包囲網もまた速度を上げた。遠心力も相俟って膨らむように外に押し出される。鼓膜を破る喚声。
手前替え。
ぐんと手綱を持ってかれる。上体を倒し、首元に顔を埋める。鬣が鼻を擽った。
手前替え。手前替え。手前替え。
回転襲歩。交叉襲歩。回転襲歩。そして交叉襲歩。
激しいダンスのステップのように脚さばきが目まぐるしく変化していく。府中の直線。次々と大外から他馬を抜く。スタンドの喚声がさながら凱歌のようにトルバドゥールに浴びせかけられる。
「……やばっ……」
手前替え。
がくんと馬体が揺れる。舌を噛みそうになり、慌てて口を閉じた。
これが、これがトルバドゥールの走り。
全身が総毛立つ。荒野を駆ける猛獣。うねる大波。揺れる大地。剥き出しの生命が躍動するようだ。
府中の長い直線をまたたく間に駆け抜ける。前にはもう、ただ一頭の馬もいない。
『トルバドゥール差し切ってゴールインッ! 一瞬ひやりとしましたが、終わってみれば一馬身差の完勝! この勝利でついにグランドスラムへと王手をかけました!
前走の猿江圭に続き、日鷹青にもG1ジョッキーの称号をプレゼント! まさに異次元の強さです!』
青は喚声に応えるように手を挙げた。
「……勝たせてもらっちゃったね」
歓声を浴びながら、トルバドゥールの背中に青は呟いた。
ウィニングランを終え、検量室前。
妻鹿調教師がほっとした様子で胸をなで下ろす。井能調教助手始めトルバドゥール関係者が喜びを爆発させた。
下馬するとどっと疲れが押し寄せてくる。緊張、興奮からの緩和。一息つき、トルバドゥールから鞍を外す。
荒々しい呼吸音。立ちのぼる熱気。その瞳はいまだ激しく燃え上がる。
「どうだった、トルバドゥールの背中は」
トルバドゥールを優しく撫でながら井能が訊いてきた。青は井能に相対し背筋を伸ばす。
「我儘で、乱暴で、危なっかしくて」
そこで思わず頬が緩む。
「最高でした」
「そうか。それは良かった」
そう言って井能は挑戦的な眼で青を見据える。
「この子は強い。誰にも負けないよ」
生唾を飲み込む。額から伝った汗が線を一筋描く。
これが頂点。
今この瞬間からこの馬は敵になる。この馬に勝たなければ、有馬記念での勝利はない。
あと一ヶ月。
最後の一冠。その勝者。
すべては有馬記念の舞台で決する。
次回は3月10日(火)更新予定です。




