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幸運の名を持つ馬

「晩御飯の後じゃダメなの? お腹空いてるでしょ」

 ダイニングテーブル。向かい合って座る母が言う。

「ダメ。それに減量中だから、今」

「騎手になるために?」

 凍てつくような視線が青に向けられる。

「そうだよ」

 青は臆せずに答える。母は小さくため息をついた。青はボストンバッグからクリアファイルに入った用紙を母の前に置く。

「高校に入ったら()()でバイトする。私が書くところは書いたから、お母さんの名前と判子押してほしい」

「そう。コンビニとかスーパーとかカフェとか? 学生らしくていいわね。バイトくらい好きにしたらいいんじゃない?」

 紙に視線を落とした後、母は敢えてだろう、意地悪くそう言った。青はむっとして語気を少し荒げる。

「乗馬クラブ。レジ打ちもしないし、コーヒーも出さない」

「じゃあ、ダメね」

 にべもない。

「私は」

 勢いよく青は立ち上がる。母を見下ろして、

「私は絶対騎手になりたいっ! お父さんが生きてたら絶対賛成してくれた」

 母はなにも言わない。

「どうしたら認めてくれるの? 馬にも乗ってきた。これからだってたくさん練習する。想いだって伝えた。これ以上なにをしたら認めてくれるの、お母さんは」

 二人暮らしには少し広いダイニングルーム。沈黙。青の荒い息遣い。母は目を伏せる。

 窓の外。遠くではしゃぐ子供の声。椅子の脚がフローリングを擦る音。母が立ち上がる。

「ちょっ――」

「いいから座ってなさい」

 低い声でぴしゃりと青を制して、母はリビングから出ていった。中腰の姿勢で呆然と半開きの扉を眺める。

 なんで? なんで話を聞いてくれないの?

 憤りががんがんと頭に鳴り響く。

 なんで……!

 がちゃりとドアノブを回す音。母が戻ってきた。壁に掛かった時計を見る。それほど時間は経っていない。

 母は再び静かに椅子に座り、書類に目を落とす。細く肌荒れた指で、

「ここに押せばいいの?」

 紙を指差した。

「え? ……あっ、はい。……そうです……。え?」

 青は動揺して、視線が紙と母の間を行ったり来たりする。

 押してくれるの? 青の動揺を他所に母は淡々と名前を書き、実印を押した。

 慌てて紙をひったくり凝視する。自分の見間違いではないか、そんな不安を払拭するために。しかし、そこにはたしかに母の字で母の名が書いてある。 

「…………なんで?」

 望み通り承諾を貰ったのに、疑問が口をついた。

「あなたは私の子供だけど、――お父さんの子供でもあるから」

 青が首を傾げる。なにを当たり前のことを改めて言っているのか。眉を寄せる。机に印鑑を置く音。

「私は反対。でも、私だけの意見じゃたしかにフェアじゃない。――だから、この署名とハンコはお父さんの代わり」

「お父さんの?」

「そう。お父さんからあなたへ、天国からの最初で最後のチャンス」

 青はテーブルに飾ってある写真立てを一瞥する。笑顔の父。いつも私たちを見守っている顔。視線を上げ、再び母に向き直る。 

「……ありがとう」

「感謝しなくていい」

 母はきっぱりとした口調で、

「これで落ちたら諦めがつくでしょ。言っておくけどね、あなたが思うほど騎手は簡単な仕事じゃないの。辛いことだってたくさん――」 

「大丈夫だよ」

 青は言い切る。

「きっと追い抜いてみせるから。だって私、お父さんとお母さんの子供だからね」

 自信が笑みとなって口元に表れる。

 小刻みに震える手を抑え、母は泣きそうな、それでいて笑いそうな複雑な表情で青をじっと見つめていた。


 

 馬房のほど近く。紺色の冬用馬着を羽織ったラッキーが顔を上げる。 

 美しい鹿毛は色褪せ、張りの合った皮膚は役目を終えてぷかぷかと子供部屋の隅で浮かぶ風船のように萎んでいるが、可愛らしく額の真ん中に浮かぶ白斑はいまだに健在だ。そして、その瞳の輝きは昔からなにひとつ変わっていない。

「元気だった? ラッキー」

 頬を撫でると、ラッキーは短く鼻を鳴らしてぐいぐいと額を押し付けてくる。

「はは、わかったって。ごめんね、顔見せなくて」

 青は森木のほうを見て、

「まだ人乗せてるんですか?」

「いや、もう二十を超えてるからな。今は乗馬も引退したよ」

「そうなんですか。もう一回乗っておきたかったなあ」

 がしゃん。

 転がるバケツ。溢れる餌。

 四十絡みの男性がお化けでも見たような顔でこちらを見る。男は右脚を庇うように一歩身を引く。

「あれ?」

 どこかで会ったことあるような。

 ――あっ。

「トルバドゥールのところの調教助手さん、ですか。もしかして。えっと……」

「……井能だよ。この前はどうも」

 井能は表情を取り繕って言った。

「いえ、こちらこそありがとうございました、井能さん」

 そう言いつつ、青は困惑した表情で井能を見た。栗東トレセンの調教助手がなぜこの関東にある小さな乗馬クラブにいるのだ。……ストーカー? まさか。

「そんなに驚かれると傷つくな。俺だって驚いてるよ、まさかこんなところで君に会うなんて。……思いもしなかった」

 井能が苦笑する。そして、

「俺もその子に会いに来たんだ」

 顎で指す。私の隣。そこにいるのは、ラッキー。

「ラッキーにですか?」

「ラッキー……。ああ、そう、ラッキーにね」

「ここに通ってたんですか? それとも管理馬だったとか?」

 井能は無言で首を振った。

 逡巡。そして、意を決したように、 

「二〇☓☓年十二月☓☓日。日曜日。中山競馬場十一時五十五分発走。第四レース。ダート一八〇〇メートル二歳新馬戦」

 淡々と、しかしどこか噛み締めるように諳んじた。

「このラッキー――まだキャプテンダラーという名前だったこの馬が走った最後のレースだ。俺が騎手として最後に走ったレースでもある」

「ラッキーの最後のレース?」

 昔の名前を呼ばれた時、ラッキーの目が僅かに険しくなったように見えた。デビュー戦である新馬戦が最後のレース? それに、同じレースが井能の騎手としての最後のレース……。そんな偶然があるだろうか。胸の奥が俄にざわつく。

「ああ」

 喉が渇く。

「ラッキーはそのレースの怪我が原因で競走馬として生きていけなくなった。君のお父さん――鳶島大洋騎手が亡くなったレースで、だ」 

「え……?」

 ラッキーが……?

「井能」

 森木が井能の話を静かに遮る。

「止めないでください、森木さん。いつか話さなきゃいけなかったんです。俺は話す義務があるし、彼女には知る権利がある」

 井能は青の目を見て話を切り出す。

「これは、俺が走った最後のレースの話だ」


※ 


「――のか? イノちゃん」

「えっ? なんですっ?」

 声に振り向く。有馬記念を目当てに詰めかけた観客でまだ昼前だというのにスタンドは満員。有馬記念への騎乗予定はないものの、井能もその異様な空気に飲み込まれていた。

「緊張してんのか、って」

「そりゃあ緊張しますよ。タイヨーさんと違って、こんないい馬滅多に回ってこないんですから」

 パドックを前にして、大洋は白い息を吐き出して屈託なく笑った。彼とは競馬学校で在学期間が被ったこともあり、デビュー前からお世話になっている。デビュー後は言うまでもない。

 緊張をほぐすために挑発的に口角を上げる。

「今日は負けないですよ。タイヨーさん」

「生意気言いやがってよー」

 屈託のない笑顔。騎乗命令がかかる。

「やってみろよ、イノちゃん」

 一足先に駆け出した背中。そこに向かって無言で強く頷いた。

 パドックを終え、本馬場入場。輪乗り。

 ゲートに入り、レースがスタートする。

 絶好のスタートで馬群を抜け出し、先頭へと躍り出る。これ以上ない出だしだった。 

『第二コーナー超えて、先頭一番人気キャプテンダラー――』

 怖いくらいに順調。

 だが、恐れなど頭の隅にもない。駆け巡るのは興奮に騒ぎ立つ血液だけだ。

 先頭のまま第三コーナーを迎える。が――、

 突如急ブレーキを踏んだようにがくんと馬体が揺れる。不規則なギャロップ。瞬間、底なし沼へと足を取られたように沈み込む。

 そこで思考が追いつく。

 ――なんだ……? なにが起こっている?

 手の中で踊り狂う手綱を掴み直す。振り落とされぬよう鐙を踏ん張る。馬のうなじに鼻がぶつかる。鈍い痛み。血の臭い。鉄の味。

 やばいやばいやばいやばいやばい……!

 思考が回る。言葉が回る。背後から迫りくる馬蹄の音。脳髄が掻き乱されるなか、ただ本能で馬を追った。

 一瞬、キャプテンダラーは息を吹き返す。が、それは燃え尽きる前の蝋燭が一際輝くのと同じ。大きく沈み込んだ。目を閉じる。暗闇。頭から潜り込むように地面へと叩きつけられる。

 衝撃。息を吸えない。肺が何者かに踏みつぶされたように酸素を拒む。生を拒む。

「ぶはっ……!」

 ようやく吸い込んだ空気が肺を満たす。身体を突き破らんばかりに脈打つ心臓。

 それに被さる――音。

 音、音、音。

 死のスネアロール。襲いかかってくる音の壁。視界を覆うように馬が駆ける。

 死ぬ。

 五百キログラムの馬体。それが時速六十キロメートルもの速さで向かってくる。

 今日、ここで死ぬ。

 脳の奥深く。映画のワンシーンのように目の前の光景が焼き付く。騎手は死と隣り合わせの職業だ。レースは戦場、死の臭いが常に漂う。覚悟はしていた。していたが――、

 もっと走りたかったな。

 薄れゆく意識。頭に過ったのは、そんなささやかな願いだった。走馬灯とやらも流れない。まあ、たいした思い出も活躍もないけれど。

「散れっ!」

 喚声と地鳴りを掻き消す声。

「落馬だ、落馬! 離れろ!」

 暗闇が晴れ、はっと開いた目がその主を捉える。

 ――タイヨーさん……!

 懸命な手綱捌き。喉が枯れんばかりの怒声。目が合う。険しく尖った目が、こちらを安心させるように一瞬和らぐ。その口の端が僅かに上がった。

 唇が動く。

「――――」

 聞こえない。だが、たしかに自分に向けられた言葉だ。

 なんて言ってるんですか、タイヨーさん。聞こえないですよ。……レース終わったら、……聞かせ……てくだ――

 そこで、意識が途切れた。



「次に目覚めたのは病院のベッドの上だった」

 井能は夢から覚めるようにゆっくりと目を開けた。

「椎体骨折と大腿骨骨折のほか数十カ所の骨折。治療とリハビリのおかげで日常生活に支障がないくらいまで回復したが騎手は引退した。右脚には、――この通り、麻痺が残った」

 青は井能の脚に目をやる。

「罰にしちゃ生ぬるいくらいだけどな」

 井能は苦々しく吐き捨てる。

「あの落馬事故は俺が原因だ。キャプテンダラー――ラッキーはあのレース中に心室細動を起こしていた。それなのに、俺は勝ちに焦って無理に追った」

 息を大きく吸い込み、  

「すまなかった」

 井能は腰を深く折って頭を下げた。

「もっと早く打ち明ければよかった。だが、できなかった。本当に申し訳ない。この命は大洋さんに助けられた。もしあの時、俺たちを無理に避けなければ、大洋さんは生きていたかもしれない」

 井能の腿で固く握りしめられた拳が震える。一度呼吸をしてから、そうですか、と青は呟く。 

「……ラッキーはなんでここに?」

 井能はゆっくりと顔を上げる。

「ラッキーは奇跡的に命に別状はなかったが、もはや競走馬としてレースを走れる状態じゃなかった。レースに出れない馬の居場所はない。俺は退院後、牧場や乗馬クラブ、大学を駆け回った。散々断られ続けて最後にたどり着いたのがここ。モリキ乗馬クラブだ」

「青ちゃんに隠したつもりはなかったんだ」

 森木が井能の話を引き継いだ。

「最初の日にこの馬に乗せたのもまったくの偶然だった。数カ月経った頃に気付いたが、その頃にはすっかりこの子はお前さんになついていたし、余計なことを言うべきじゃないと思ってな」

「……そう、ですか」 

 青の視線がラッキーに吸い寄せられる。

 目が合った。その黒い瞳に。

 額に白く、いまだ輝きを失わない星。優しく口づけするようにそこに額を寄せる。ラッキーの体重が僅かにこちらにかかる。ゆっくりと息を吸い込む。日に照らされた匂いが肺に満ちた。

「……ありがとうございます」

 運命――だとか。

 奇跡――だとか。

 それは輝く宝飾品のように特別なものではない。

 それは、草木を撫でる風。太陽の暖かさ。逸る鼓動。そして、ラッキー。私の近くにとっくにあった。

 何気なく、当たり前に。だから気づけない。

 そっとラッキーから顔を離す。

「ありがとうございます。井能さんがラッキーの居場所を見つけてくれたから、私はここで彼に出会えました。そして騎手にもなれた」

「いや、俺は君にお礼を言われるようなことは。それに騎手になれたのは君の――」

 青は首を振る。 

「私だけの力じゃ騎手になれませんでした。私がここに立っているのはみんなのおかげです。

 なにが正しかったかなんてわかりません。でも、誰も間違ってなんてなかったと思います。――だから、私はやりたいことをやります。これまでも、これからも」

 そう言って井能に笑顔を向けた。暫くの沈黙。

「なあ、日鷹青さん」

 井能は言う。 

「今度のジャパンカップ、トルバドゥールに乗る気はないかい?」

次回は3月3日(火)更新予定です。

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