乗馬クラブ
「相変わらず急だな青ちゃんは」
「お久しぶりです。森木さん」
薄くなった白髪を撫でつけ、森木は肩を揺らして哄笑した。
平和賞の翌日、青は埼玉県にある乗馬クラブに訪れていた。中学卒業後、競馬学校に合格するまで通っていた場所だ。
「すみません。思い立ったが吉日というかなんというか」
青は照れ臭さを隠すように頭を掻いた。
「いつでも歓迎だよ。ラッキーもずっと待ってたぞ」
そう言って森木が視線を向けた先、一頭の馬が草を食んでいた。
※
土曜日、午前九時四十二分。
電車から降りた数人の隙間を縫うようにしてホームを駆け抜け、青は改札から飛び出す。
乾いた泥の跳ねた白色の運動靴。パンと張ったボストンバッグ。名前も分からないキャラクタのキーホルダーが跳ねる。
着慣れた紺色のスポーツウェアに身を包んだ青はロータリーをぐるりと見渡した。
ロータリーには乗降のために止まるタクシーやバスに混じって、白いミニバンがその隅にぽつんと止まっている。ボディにはポップな書体で「モリキ乗馬倶楽部」。
あれだ。
青は小走りで車に近付く。助手席側のドアをノックすると、派手な赤いナイロンの上着を着た男がのっそり顔を上げる。柔和そうな笑顔で顔の皺が深く刻まれる。歳は六十くらいだろうか。男は右手をひらひらと振ると笑顔で助手席を促した。
助手席を開けるやいなや、
「やあ、遠い所よく来たな。聞いたよ。どうしても馬に乗りたい生徒がいるって。いやあ、うれしいねえ」
お世辞ではなく、心底嬉しそうに男は言った。
「鳶島青です。よろしくお願いします」
「森木だ。よろしく。好きに呼んでくれたらいい。ああ、でも先生とか堅苦しいのはなしだぞ。そういうのはなんだかむず痒くてな。――じゃあ、行こうか」
挨拶もそこそこに車は出発する。
駅から十五分ほど走ると目的の乗馬クラブへと着いた。
窓の外、開けた土地をぐるりと大きく日に焼けたクリーム色の柵が囲い、そのなかに人を乗せた馬が数頭見える。その姿に自然と鼓動が速くなった。
ドアを開けて勢いよく飛び出す。
「馬だ!」
突然の声に馬場にいる馬たちが一斉に顔を向けた。
「はは。ダメだ大きな声出しちゃ」
少し遅れて車から降りた森木が優しく窘める。
「す、すみません。えっと、あの――」
青が顔を上げて森木を見ると、青の考えなどすべてお見通しとばかりににやりと笑った。
「じゃあ、早速乗るかい? 荷物や着替えはあそこの赤い屋根の建物で。ヘルメットとプロテクターを着けてきて。分からないことがあれば中のスタッフに聞いてくれればいい」
「はい!」
森木の話を気もそぞろに聞き、青は喜び勇んで建物に駆け込む。荷物を放り投げるように置くと、慌ただしくヘルメットや装具の類を身に着けて先程の場所に戻った。
戻ってきた青に気付いた森木が手を上げる。その横にはすでに一頭馬が立っていた。
「いい馬だろ?」
その馬に近づくと独特な獣臭が冷気を押しのけてむっと押し寄せる。有馬記念のパドックで遠くから見たときには実感が湧かなかったが、近付くと鞍の付いている部分でさえ青の頭の天辺ほどのところにあった。脚をかける鐙ですら胸の高さにある。
生き物としての迫力に暫し圧倒されていると馬の進行方向左側に促された。
「んじゃここに立って――」
言われるままに馬の左半身に正対し、左手を鬣。右手を鞍に置く。森木が青の左足底に両手を添えた。
「俺が君の左脚を持ち上げるから、それに合わせて両腕を下にぐっと押しつけて。そしたら右脚を大きく振り上げる。馬の身体を跨いだら鐙に脚をかける。あっ、鐙は垂れ下がってるそれだ。それと手綱は絶対離さぬなよ。落ちて頭打っちまうぞ。
じゃあ、いくぞ。せーの――」
こちらの返答を待たぬまま流れるように説明すると、森木は腰を入れた。青は慌てて手に力を込める。
瞬間、重力から解放される。ぎゅっと目を瞑り、右脚を思いっきり振り上げ馬を跨ぐ。そして驚くほど軽やかに鞍上に収まった。
恐る恐る目を開ける。視界から差し込む地面二メートル程からの景色。普段より少し高い。少しだけ高いだけなのに、なんでこんなに景色がよく見えるのだろう。冬の透き通った空気のせいだろうか。それとも――、
「どうだ? いい景色だろう?」
森木の問いに、青は恐る恐る肯く。
「怖がらなくていい。ラッキーはここに来て長いが、すごく大人しくていい子だからな。さあ、大きく深呼吸して。手綱から、鞍から、鐙から、ゆっくりとラッキーの息遣いを感じるんだ」
言われるままに息を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりとすべて吐き切る。それを繰り返す。次第にラッキーと触れ合っている部分から熱が身体の中に流れ込んでくる。
――熱い。
その熱が緊張をじんわりと溶かしていく。
「じゃあ、少し動かすからしっかり掴まってなよ」
最後の息を吐き切ったそのタイミングで森木に声を掛けられる。
「は、はいっ!」
ラッキーが森木の合図で曳かれながらゆっくりと動き出した。
人の歩く程度の速さ。それを追い越さんばかりに鼓動が速くなる。私はいま、馬に乗っているのだ。信じられない。レース場ではこれよりもずっとずっと速く走っているなんて。
「いいね。上手いよ。その調子だ」
心臓が耐えられるだろうか。
そのまま馬場を大きく一周すると、ようやくラッキーは止まった。森木に支えられて馬から降りる。
「どうする? 少し休んだらもう一周いっとくかい?」
青は興奮に頬を上気させながら、
「あ、あのっ! もっと速く走ってみたいんですけど……!」
「速く?」
「はい! 競馬くらいのスピードで、こう駆け抜けるように」
「あー、そりゃ無理だな」
森木は青の発言を冗談と受け取ったのか、笑って首を振った。
「馬ってのは走り方にそれぞれ呼び方があってな。常歩、速歩、駈歩、襲歩と順に早くなっていく。競馬ではこの襲歩、すなわちギャロップで走るが、これは一般的な乗馬クラブなんかではまず教えない。襲歩の時速は六十キロメートルを超えて、一般人がおいそれと乗りこなせる速さじゃないし、そんな広さもないんだ。なんせ一秒間で十七メートルも進んじまうからな。
まあそんな話の前段階で、なんなら今の常歩でさえお前さんは少なからず恐怖を感じたはずだ。違うかい?」
「それは……」
その通りだ。人間の限界は時速四十キロメートルほど。自転車でも時速六十キロメートルなど出したことはないし、自動車免許なども勿論持っていない。自らが操る速さとしては未知の速さだ。
難しい顔をして黙り込む青を見て森木は腕を組んだ。
「……興味本位、ってわけじゃなさそうだな。襲歩で走りたいってなにに影響されたんだ? 競馬か?」
青は肯く。
「……去年の有馬記念です」
「去年の? ああ、あれはいいレースだったなあ。勝ち馬はたしか」
「ノッキンオンハートです」
「そう、ノッキンオンハートだ。そうか、あれを見て、か」
「はい」
訝しむように口に手を当てる森木を見て、青は慌てて言葉を紡ぐ。
「あの、私本気です。騎手になりたいんです。だから」
「別に疑っちゃいないさ。夢を持つきっかけなんてなんでもいい。熱に当てられた、実に結構なことじゃないか。人を動かすのはいつだって情熱だ」
森木は馬場に視線を向けた。青も少し遅れて目をやる。ここに着いた時よりも人が増え、老若男女が思い思いに馬に乗っていた。
「この乗馬クラブにはな、まだ就学前の子供から定年を迎えた老人まで世代や年齢を問わずいろいろな人がいる。始めるのに遅いも早いもない。人それぞれにきっかけや巡り合わせがある。それがお前さんにとっては今日だった。それだけじゃないか」
森木はラッキーの鼻先に手を何度も往復させる。
「だからって騎手になれるなんて言わない。騎手には乗馬とはまったく違った技術が要求される。この乗馬クラブも騎手を輩出したことがあるような大層な乗馬クラブじゃない。お前さんが仮にここで馬に乗れるようになっても騎手になれる可能性なんてほんの僅かなものだ。多分ここで止めてあげるのも大人としての俺の務めだし、優しさだろう。たとえお前さんに恨まれようともね」
そこで、ラッキーに向けていた視線を青に向けた。青の表情、身体の僅かな動き、そのすべてを逃さないような鋭い目つき。思わずたじろぐほどの無言の威圧感。
「それでも騎手を目指すのか?」
しかし、青は臆することなく、
「はい」
力強く肯いた。まっすぐと森木を見つめる。
「私、騎手になってノッキンオンハートに追いつきたいんです」
森木は大きく息を吐くと、諦めたように肩をすくめた。
「あのレースを観たのにお前さんの可能性を否定しようだなんて無粋だったね。俺も奇跡を見てみたくなっちまった。
なあ、お前さん、ここで働く気はあるかい?」
「え?」
「ここでアルバイトするならその分レッスン料はタダにするよ。もちろん平日は学校優先だ」
「や、やります!」
願ってもない話だ。乗馬クラブへの費用の捻出は遠くないうちにぶつかる課題だった。ここでお金を稼ぐことができるのなら一石二鳥である。
「ただし」
森木は青を牽制するようにぴしゃりと言った。
「条件がある」
「条件、ですか?」
森木は肯いた。
「きちんと保護者に許可をもらうこと。これが条件だ」
「……えっと」
母の了承を得ることが難しいから、なんとか伝手を辿ってここまでこぎ着けたのだ。乗馬クラブでのアルバイトなど許してくれるはずもない。
「どうしてもダメですか? 許可もらわないと」
「ダメだ」
森木は追い打ちをかけるように、
「まだ未成年だろ? 保護者の承認が必要だ。ここでは騎手になれるようにできうる限りの手助けをしよう。だが、親を説得するのはお前さんがやらなきゃいけない仕事だ。俺たちはどうしようもできない。しっかりと話し合って説得してこい。
――それにな、一番身近な人ひとり説得できないような、そんな生半可な覚悟なら」
森木が殊更強調して言う。
「ここで夢を語ってる場合じゃないんじゃないか」
「ただいま」
玄関を開けると、奥から母の声が聞こえてくる。靴を脱ぎ、上がり框に足をかける。廊下とリビングを隔てる扉の隙間から漏れ出た光。温かい料理の匂い。
廊下を進み、扉を開ける。
ソファに身体を沈める母が頭だけをこちらに向けた。目が合う。息を深く吸い込み、言った。
「お母さん、ちょっと話があるんだけど」
次回は2月24日(火)更新予定です。




