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あがきをはやみ

 二人と分かれ、青は宿泊先のホテルへと戻るためのタクシーに揺られていた。総白髪の運転手は言葉少な。ラジオから流れる穏やかな低音の声だけが車内を満たす。窓に頭を傾かせると暗がりを月明かりがぼんやりと照らしていた。

 空に向けていた視線を落とすと、進行方向の窓枠の端から巨大な建造物が目に入ってくる。暗闇の中にあってさらに暗く、闇に浮かび上がる巨体。

「あの」

 考えるより先にその言葉が口をついていた。

「ここで降ろしてください」

 えっ、と運転手は短く声を上げる。バックミラー越しに困惑した目と目が合った。

「いいんですか? ここだと目的地まで結構歩きますよ? 夜だし危ないんじゃ……」

「大丈夫です」

 タクシーは交差点を少し過ぎて路肩に停まった。扉が開くと夜風が勢いよく吹き込んでくる。それを裂くように歩道へと勢いをつけて降り立った。

 巨体へと歩みを進める。一歩進むごとにその姿はじりじりと大きくなった。その巨体は星空を掻き消すように覆い被さる。やがて足を止め、それを見上げた。

「……やっぱりおっきいな」

 巨体――中山競馬場を見上げて青はつぶやく。

 中山競馬場に来たのは皐月賞に訪れて以来、実に半年ぶり以上になる。その迫力は中学生の時に初めて訪れた頃から変わっていない。

 騎手になってから十以上の競馬場で騎乗した。デビューし、初勝利した阪神競馬場。クラッシュオンユーで勝った京都競馬場。節目節目となった競馬場はあるが、やはりこの中山競馬場は特別だ。

 この競馬場で、あのノッキンオンハートが勝った有馬記念を観ることがなければ、自分は騎手としてここに立っていない。母に騎手になりたいと打ち明けたあの日がなければ。

 目にかかった前髪が夜風に踊る。遥か遠く、しかし昨日のことのように鮮明なあの日の記憶が蘇る。


 

「お願いします」

 騎手になりたい。

 一年ぶりの出走となったノッキンオンハートが三冠馬イスカンダルを破った有馬記念の日の夜、そんな初めてできた夢をリビングで母に打ち明けた。

 少し間を置いて頭上で母がなにか呟く。はっきりとは聞こえず、

「え? なに?」

 青は思わず頭を上げた。眉間に皺を深く刻んだ母と目が合う。母の発する言葉を待つまでもない。その顔がすべてを物語っていた。

「絶対にダメ!」

 母は今度は大きく息を吸い込んで言った。もう聞く耳は持たないとばかりに青に背中を向け、リビングを出ていこうとする。青はたたらを踏んでその背中に追い縋る。

「待ってよ!」

「だいたい、あんた馬になんて乗ったことないじゃないの。夢ができたなんて大層なこと言ってるけどね、そんなのは子供がアニメを見てヒーローになりたいって言うのと一緒。高校生になるんだからいい加減そういうのは卒業しなさい」

「私は本気なの!」

 母は鼻を鳴らし、冷たく青を睨んだ。

「なにが本気よ。だいたい馬にも乗ったことないのに、騎手になるなんて――」

 青はそこで瞠目する。その口角がみるみる上がっていった。

 そうか、たしかにその通りだ。騎手になるために()()()()()()()()()()()()()()

 十五年間育ててきた母の直感だろうか、青の顔を見て、しまったという顔をして母は一瞬硬直した。慌てて言葉を継ごうとした機先を制し、青は、

「わかった。じゃあ一ヶ月待ってよ」

 胸を張って勢いよく啖呵を切った。

「馬、乗ってくるから」



「――というわけでさ、馬乗れるところ知らない?」

 挨拶もなしに訊ねられた美波はのっそりと英単語帳から顔を上げた。冬休み明け始業式の朝。底冷えする三年A組の教室にいるのは慌ただしく駆け込んできた青と眠たげに目をこする美波だけだ。

「なにが、『というわけで』なのよ。あんた結論しか言ってないじゃない。物事には順序があるでしょ。まずは挨拶。次に理由(わけ)を言いなさいよ」

「え?」

 青はぽかんと口を開け、「言ってなかったっけ?」と首を傾げた。

「言ってないね」

「言ってないか。おはよう、美波」

「はい。おはよう、青」

 青の表情がすっと引き締まる。机にどんと踏ん張るように手をつき、澄み切った眼で美波を捉えた。

「私ね、騎手になりたいの。でもお母さんに反対された」

「だろうね。私だって反対すると思うよ。騎手って、あの競馬のでしょ? そもそもさっきの口ぶりからするに馬に乗ったこともないんじゃないの?」

「うん。だから私が馬に乗れるっていうことが示せたら認めてくれると思うんだ。ほら、既成事実ってやつ。――でもさ、いろいろ調べたんだけど中学生が一人でいって乗せてくれる乗馬クラブがなくって困ってるんだよね」

 というわけで、と青は改まって美波に向き合う。

「馬乗れるところ知らない?」

 美波は大きく息を吐き出し、物思いに耽るように膝にかけたブランケットに指でひとつまたひとつと円を描く。

「なんで騎手になりたいの、とかこれ以上深掘っても無駄だと思うから訊かないけどさ、そもそも上手くいくのその作戦? お母さんが言ってるのはかぐや姫が求婚者に出した難題みたいなもんだよ。火鼠(ひねずみ)皮衣(かわごろも)とか(つばめ)子安貝(こやすがい)みたいな、ね。青のお母さんはそもそも騎手になるのを諦めて欲しいんでしょ?」

「そんなのわかってる。でも、私は騎手になりたいし、なにもしなきゃ騎手になれないじゃん」

 美波はこれ以上なにを言っても無駄だなと諦めたように肩をすくめ、単語帳をぱたんと閉じた。僅かに口角を上げる。幼い頃から何度となく見てきた表情。こういった時の美波ほど頼りになるものはない。

「まあ、心当たりはなくもないよ」

 その猫のようにくるりとした眼が怪しく光った。



「ああ、知ってるよ」

「本当ですか! えーっと……」

菰田(こもだ)。受け持ちは二年だから知らなくてもしょうがないか。担当は古文漢文。顧問は女子バレー部だよ。憶えなくていいけど」

 菰田先生は鼻先にずれ落ちた古風な丸眼鏡をくいっと持ち上げた。教師になってからまだ五年と経っていないらしいが、その所作はどこか老成している。手入れのされていない藪のようにごわごわとした髪も相俟って、冬休み明けの職員室の麗らかな日差しのなかで、それは校庭の隅にぽつんと立つ老木のようであった。休みぼけが抜けていないのか、菰田は机にある小さな鏡餅の飾りを指で弄りながら大きく欠伸をした。

「で、誰に聞いて僕のところに来たの?」

「美波です」

「ああ、喜多村(きたむら)さんか」

 偉大なる友人、喜多村美波は昨年までバレー部のキャプテンを務めていた。

「菰田先生! あの、どこで馬に乗れるんですか? 今日乗れますか?」

「えっ、今日?」

 頓狂な声を上げて菰田は壁掛け時計に目をやる。時計は正午を僅かに回っていた。窓の外、校庭に目を落とすと生徒が騒がしく下校している。菰田は困ったように鼻頭を掻く。

「今日はどうかなあ……急だしねえ。一応電話はしてみるけど」

「ありがとうございます!」

 青は勢いよく頭を下げた。

 押し殺した笑い声。顔を上げると、菰田が興味深そうに青を観察していた。眼鏡のレンズがきらりと光る。

「しかし、なかなか面白い子だね、君。急に乗馬がしたいって。漫画とかアニメとかの影響? ドラマとか?」

「競馬です! 先生、馬ってめっちゃ速いんですよ! こう、ぎゅーんって感じで。あんなに広くておっきい競馬場をあっという間に走っちゃって――」

 青の話は熱を増していく。職員室にいる他の教師も何事かと視線を向けてきた。その視線に気付き、青は照れ臭そうに頭を掻く。

「……まあ、その、だから乗りたいっていうのは自分でも変だなってわかってるんですけどね」

「いいんじゃない?」

「え?」 

青駒(あおこま)足掻(あがき)(はや)雲居(くもい)にそ(いも)があたりを過ぎて来にける」

 歌うように流麗なリズム。そのどこか枯れた風体からは想像できない絹のように柔らかい声だった。突然のことに青は目を白黒させる。これは――、

「……短歌、ですか?」

「そう。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の詩だよ。〝馬の歩みが早いので、雲のはるかに妻の家のあたりを後にして来たことだ〟ってのが現代語訳だね。人麻呂が都に戻る時に石見国(いわみのくに)――現在の島根県――の妻を思って詠んだものだ。馬が早いから去り際に別れを惜しむ暇もないって感じかな」

「……な、なるほど?」

 なぜ急に短歌が出てくるのだ。背筋を伸ばして少し畏まった青を見て、菰田はくつくつと笑う。

「授業じゃないんだからそんなに緊張しないでよ。いやね、昔も今もただ変わらないんだなと思ってさ」

「変わらない?」

 菰田は肯く。おもむろに胸ポケットからボールペンを一本取ると手のなかで遊ばせ始めた。

「人麻呂が生きた飛鳥(あすか)時代、当然車もバイクも電車も、飛行機だってない時代だ。当時の人にとって、馬っていうのは驚くくらいに早い生き物だったことだろう。それこそ去り行く人の想いも見送る人の想いも置き去りにしてしまうくらいにね」

 菰田はくるりと椅子を回し青に向き合った。ボールペンの頭の部分で青を指す。その一点に視線が吸い寄せられる。

「君もきっと置いていかれてしまったんだ。だから、どうにか追いつこうと焦がれてしまう。馬の早さってのは、今の時代でも人の心を揺さぶってしまうんだね」

 手元のメモ帳を一枚ちぎり、スマホの画面を見ながら書き留めていく。三十秒程して書き終えると、それを丁寧に二つに折って青に手渡した。

「僕の親戚のやってる乗馬クラブだ。今度の土曜に行くといい。そのほうが今日より時間もある。叔父さんには特別に乗せてくれるように頼んでおこう。僕は部活の顧問で行けないけど、ここに書いた最寄り駅に朝十時に迎えに来てくれるように頼んでおくから」

「あ、ありがとうございます!」

 青の顔がぱっと華やぐ。

 渡された紙片を奪うように受け取り、まるで宝物のように胸に抱いた。


 ※


 風で落ち葉が舞い上がる。

 青はアスファルトから迫り上がる冷気に身を震わせた。中山競馬場に背を向けてホテルへと歩き出す。

 今はあのメモ紙もどこかへ行ってしまった。競馬学校に合格するまで二年間通った乗馬クラブなので、あの紙がなくても目を瞑って辿り着けるのだが。あれから五年近く経ったけれど、忙しさにかまけて卒業以来あの場所には訪れていない。

 暫く歩き、赤信号に足を止めた。

 ポケットからスマホを取り出す。眩しいくらいの画面上で少し親指を迷わせた後、明日――日付変わって今日――の新幹線の予約をキャンセルした。 

 交差点の信号が赤から青に変わる。

 青は再び、歩き出した。

次回は2月17日(火)更新予定です。

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