降着
残り二ハロンを切る。
前を往く馬はトルバドゥールのみ。後続馬は――関係ない。あの馬を抜かなければ勝利はない。
二週前、愛が秋華賞を勝った。
一週前、由比が菊花賞を勝った。
今日、私がこの秋の天皇賞で勝つ。置いてかれるわけにはいかない。
誰よりも、誰よりも速く進まなければ。
『最後の直線、最後方からトルバドゥールまたたく間に先頭! 先頭、トルバドゥール! G1六連勝、六冠目に向けて驚異的な末脚!』
この直線、ここからトルバドゥールを捕らえることができるのは私たちだけだ。追い出しの一瞬、一度内に進路を変えたことで出鼻を挫かれたがまだ間に合う。
だって、クラッシュオンユーは特別な馬だから。
「走れクラッシュ! こんなところで止まるな!」
お前はあのノッキンオンハートの息子だろ。
私だって、鳶島大洋の娘だ。
こんなところで――、
「こんなところで立ち止まってられるか……!」
脚元が隆起する。――来た。
ここからだ。ここからがクラッシュオンユーの本領。速度がまたひとつ上がる。
『クラッシュオンユー馬群を掻き分けて上がってくる! しかし、いまだ先頭トルバドゥール変わらず! その差は二馬身! 縮まらない! 残り一〇〇メートル!』
ダメだ。届かない。
クラッシュオンユーの呼吸が荒くなる。微かな異音。歩様が僅かに乱れる。――限界だ。
青は下唇を強く噛む。鉄の味が口に広がった。
『最後方から十一頭ごぼう抜き! 騎手が変わってもその強さに翳りなし! これでG1六勝目、猿江騎手は初のG1勝利を手にしました! 秋の初戦を勝ち取りグランドスラム達成まであと二勝としています!』
勝者を迎える喚声。
スタート前の不安の色は影もなく、スタンドにいる誰もが、圧倒的な王者の力に酔いしれる。クールダウンを終えたトルバドゥールがくるりと向きを変え、スタンドの方へと軽やかに戻ってくる。鞍上で猿江が力なく手を挙げ、声援に応えた。
青はその姿をただ遠くから見やることしかできない。
二馬身差の二着。絶対王者トルバドゥールに次ぐ順位。だが、その内容は完敗だった。
常歩まで速度を落としたクラッシュオンユーの歩様が乱れ不意に強く手綱が引かれる。異変に視線を落とす。クラッシュオンユーが頸を曲げると、その鼻先が赤黒く染まっていた。
「! クラッシュ!」
鼻出血……!
いつの間に? 程度は? いや、とにかく早く治療しないと……!
慌てて顔を上げると、スタンドに相対する大型電光掲示板が目に入る。ある一点に青の視線が吸い寄せられる。五着までの着順表示。その上、青い背景に「審議」の白文字が表示されていた。
「納得できません!」
レース後の検量室。呼び出された青は目の前に立つ裁決委員に噛みつく。目の前の複数枚のモニタには先程のレース映像が様々な画角で流れている。
三人の裁決委員。そのひとり、痩せた背の高い四十半ばの男が細い眉ひとつ動かさずに青を睥睨する。不健康そうな青白い肌。こちらを品定めるように細められた眼は蛙を睨みつける蛇を連想させた。
「君が納得するかどうかなんて関係ない。パトロールビデオを見ても君はこのタイミングで他馬を妨害しているのは明らかだ」
そう言って蛇男が映像を止めた。最終直線入口。トルバドゥールに躱される瞬間、たしかにクラッシュオンユーが内に刺さりアマクニともう一頭の進路に被さっている。が――、
「確かに進路妨害に当たるかもしれません。でも、この進路妨害があってもなくても順位は覆らないと思います。後続馬よりクラッシュオンユーが先着していたはずです」
進路を妨害したからといって、その瞬間に降着や失格の処分が下るわけではない。妨害がなければ被害馬が加害馬よりも先着できたか、といった点が争点になる。走行妨害による騎乗停止処分は甘んじて受けるが、クラッシュオンユーの着順にまでケチをつけられる謂れはない。
蛇男の片眉がぴくりと上がる。
「覆る。この二頭は明確に不利を受けた。加害馬である七番のクラッシュオンユーは二着から四着への降着が妥当だ」
「納得できません」
堂々巡り。蛇男は諦めたように首を振って背を向けた。
「これは決定事項だ。私たちは君と議論をしに来たわけじゃない。文句があるなら明日にでも不服申し立てをするといい。君への処分は後日正式に通達がある。以上」
検量室から去ろうとする蛇男の袖口を青が掴む。
「納得できないって、言ってるじゃないですか……!」
男は無言で顔だけを向け、静かに掴んできた青の手を払った。青は男を睨めつける。男は後ろの二人に目配せて帰るように促すと、一人が心配そうに訊ねた。
「大丈夫かい? 二口くん?」
「ええ。お二人は戻ってください。運営に支障が出ます」
にこやかに答えると、後ろ髪を引かれた表情で二人は蛇男を残して去っていった。青は蛇男――改め二口――と相対する。二口の口元にピンク色の舌が小さく覗いた。
「君は少し勘違いをしているね」
「勘違いなんて――」
二口は青の発言をしなやかな指が伸びる手を突き出して制する。
「まだ私が話している。君の番じゃない」
青が口を閉じたのを確かめると、二口は話し出した。
「君は、――騎手という職業はこの日本中央競馬会という巨大な組織において、馬に乗るという役割を担っているにすぎない。決して騎手の価値を低く見積もっているわけじゃない。騎手だけじゃなく、調教師、調教助手、厩務員、装蹄師、獣医師、生産・育成牧場の従業員、そして私たち職員。それぞれがそれぞれの役割が与えられているにすぎないんだ。組織を生かすため、それぞれの領分で私たちは動いている。
わかるかい? 私たちは公正な競馬を運営するための駒。それ以上でも以下でもあってはいけない」
男は右手の人差し指をゆっくりと立てる。
「この一レースの馬券の売上、それだけで三百億の金が動く。遊びで買った馬券。今日の飯を食うための馬券。応援のために買う馬券。それぞれの購入者の願いがひとつまたひとつと積もり積もった結果が三百億だ」
そこで二口は言葉を切り、その細く切れ上がった眼でもう一度静かに青を睨みつけた。
「ガキの我儘でどうこうしていい金額じゃないんだよ」
穏やかな声色は変わらないが、丁寧だった言葉遣いが僅かに乱れる。
「君が男で、ここが神聖な競馬場の検量室でなければ一発殴っていたところだね。まったく、君は運がいい」
二口が口元が裂けるようにして笑った。
やってみればいいじゃないですか、と青は心のなかで毒づく。上等だ。倍にして殴り返してやる。栗東所属時代の猿江を殴り謹慎させられたかの咲島の弟子なのだ。見くびられては困る。
二口の言っていることは正論だ。青の言っていることは幼稚でもあるだろう。だからといって、胸の奥で燻る感情がきれいに消えるわけではない。
挑戦的な青の眼を見て、二口は鼻で笑った。
「血は争えないみたいだね」
「……どういう意味ですか」
青は瞠目する。なぜ、ここで父が出てくるのか。二口のこちらを嘲るような表情。怒りに声が震えるのを抑えて訊いた。
二口が視線を外した。その視線の先は――、
「君も騎手なら少し頭を冷やしてパトロールビデオをちゃんと見たほうがいい。父親と同じ死に方をしたくないならね」
死に方? 父と、同じ――。
全身から血の気がさっと引く。青は足を縺れさせ、慌ててモニタに駆け寄る。映像をまじまじと確認した。クラッシュオンユー。背後の馬群。まさか、そんな――。
「君が内に切り込んだ瞬間、十番アマクニの那須騎手、二番スカーレットアウトの人見騎手、その二人が手綱を引いた。後続馬はそれを見てまた手綱を引いた。そしてその後ろも、ね。最後の直線、どの馬も追い出しにかかったタイミングだ。あと少し判断を間違えてたらどうなったか。わざわざ言わなくても、――わかるよね?」
落馬。
勝つための大胆な騎乗はこれまでも何度もしてきた。だが、危険な、ましてや落馬を誘発しかねない騎乗はこれまでしないようにしてきた。それなのに、トルバドゥールに囚われて――いや、一着という着順に囚われて周りが見えていなかった。
「ここだけじゃない。最後の直線、随分と危険な乗り方をしていたね。この馬の能力を随分過信してるらしい。
なんだっけ、君がさっき言ってた台詞。たしか……、納得できない、だったかな? これを見て、もしまだそんなことを平気な顔して言えるなら」
二口が青から身体を背け検量室の出入り口へ歩き出す。
「もう二度とこの馬に乗らないほうがいい。君のためにもね」
次回は2月3日更新予定です。




