虎に翼なくとも
秋の天皇賞当日を迎えた。
テレビのスタジオでは品のいいひっつめ髪の女性キャスターが入念に手元の原稿に目を落とす。淡いライトブルーのジャケットが爽やかだ。十五時になった。短いテーマソング。キューが入る。
「皆さんこんにちは。今週も『ケイバの時間』のお時間です。
快晴となりました東京競馬場。本日は亀岡元調教師と鶴市元騎手にゲストにお越しいただいています。さて、フルゲート十八頭に十二頭の出走と少し寂しい今日の十一レース天皇賞(秋)ですが、亀岡先生、やはりほかの陣営は現在G1を五勝しているトルバドゥールとの勝負を嫌ったのということでしょうか」
厳しい顔をした亀岡が鼻を鳴らして鷹揚に口を開いた。
「腰抜け共ばっかりだ。儂らが若い頃はな、ああいう馬がいたら燃え上がったもんだ。なあ、ツル」
「そうですね」
亀岡より少し若い細面の鶴市は卒なく相槌を打つ。綺麗に剃られた坊主が照明を受けてきらりと光った。
「トルバドゥールは確かに強い。だが、だからこそ騎手が変わったここ。こけるならここしかない。違うか、ツル」
「そうですね」
鶴市の寸分違わぬ相槌に、そうだろそうだろ、と亀岡は満足気に何度も頷く。
「競馬はその名の通り馬だけが重要なんだとほざく馬鹿がいるがな、そんなわけがない。あんな脳足りんの馬鹿どもの言うことなどまともに聞いちゃいかん」
女キャスターが、節々で「先生」とやんわり抵抗を試みるが、亀岡の耳には届かない。気持ちよくなったのかすらすらと言葉が出てくる。
「同じ公営ギャンブルの競輪でも競艇でも、人がいなきゃ成り立たん。馬だけを見るってのは人を見ずに自転車だけボートだけを見て評価するようなもんだ。名前に囚われている奴ってのは本質を見失う。なあ、毒島ちゃん。あんたも『ブス』って名前なのにえらい別嬪さんだ」
「……ありがとうございます」
毒島キャスターは固い笑みを保ったまま応じる。亀岡は咳払いした。
「話が散らかったな。つまり何が言いたいかってえとだ、強い馬の背には当然それをさらに伸ばすいい騎手がつきもんだってことだ」
亀岡の話は留まることをしらない。息継ぎもそこそこに捲し立てる。
「競馬は人馬一体のスポーツ。強さはその関係、物語に宿る。アマクニと那須もいいが、秋華賞のスティレット、菊花賞のアレクサンダーとくればここで勝つのは同じく二年目騎手の乗るクラッシュオンユー。これしかない! なあ、そうだろ――」
「なるほど! 亀岡先生の本命はクラッシュオンユーと。鶴市さんはどの馬を有力視されてますか?」
キャスターは完璧な笑みを顔に貼り付けたまま、食い気味に亀岡から主導権を奪った。亀岡は憮然と口を閉じて椅子に深くもたれる。鶴市は困ったように眉を寄せ、柔和な笑みを作りながら話し出した。
「難しい質問ですね。トルバドゥールは言わずもがなですがそれ以外でいけばやはり三歳馬には注目したいですね。ダービー馬のアマクニ、二歳G1を勝っているピクチャレスク、この間の札幌記念でリアルビューティを負かしたクラッシュオンユー、と三歳世代の有力馬が近年でも稀に見るレベルで揃ってます。古馬とは斤量の面で有利ですし、調教技術の進歩で若い馬の実力も年々飛躍的に伸びていますからね。チャンスは大いにあるでしょう。……まあ、それで勝てるか、と言われれば、どうでしょうね、としか言えませんが」
鶴市の持って回った言い回しに、キャスターがずばりと切り込む。
「つまり、鶴市さんの本命は?」
鶴市は短く唸ったあとこう言った。
「虎は翼なくとも虎。鬼は金棒なくとも鬼」
「はあ?」
禅問答のような答えに、キャスターが初めて表情を崩した。困惑。どこか澄ましたマネキンのような顔よりもよっぽど愛嬌があった。
虎、翼、鬼、金棒。この言葉から導かれる言葉は自然と決まる。虎に翼、そして鬼に金棒。どちらも、威勢のよいものがさらに威勢を加えること、を意味する。先程の亀岡の喩えを受けたものだとすれば、虎は即ち馬、翼は即ち騎手。
つまり――、
「本命はトルバドゥールか。つまらんな」
呆然とするキャスターをよそに亀岡が腕組みして唸った。鶴市は背中を丸めて坊主頭を二度叩く。
「はは、すみません。でも、引退してからつくづく思うんですよ」
そう言った鶴市の表情は先程までとがらりと変わり、騎手時代の勝負師の顔が覗いていた。
「虎に翼はいらない、って」
十五時四十五分。
天皇賞(秋)の発走時刻を迎えた。が、ただ一頭ゲートへ入るのを拒む馬がいる。
一・五倍の一番人気、トルバドゥールだ。
場内に発走時刻の遅れを伝えるアナウンスが流れる。満員のスタンドがどよめき、揺れる。ゲート入りを拒む馬は珍しいと言ったら嘘になるが、こういった事態はトルバドゥールにおいては初めてのことだった。当然良い兆候ではない。
先にゲートに入っていた十一頭が一度ゲートから出された。空になった発馬機。青はクラッシュオンユーの馬上でトルバドゥールの方へ顔を向ける。揃いの緑色のジャンパーを着た何十人という係員がトルバドゥールをなんとかゲートへ入れようと奮闘していた。
馬の気をトルバドゥールから逸らしながら、すべての騎手の視線がトルバドゥールへと注がれていた。憮然としてゲートを睨みつけていたトルバドゥールが、係員の手によって半ば強引にゲート収められる。発走直前という最も気を遣う場面で五百キログラム近い生き物を動かすというのは容易いことではない。それを見届けると、他の馬たちも慌ててゲートへと向かった。
三分遅れでようやく全馬がゲートに収まる。
人馬ともにスタートを待つ。ばらばらだった二十四の呼吸が揃った刹那、スターターの合図でゲートが開いた。
一コーナー奥のポケットから、十二頭が勢いよくスタートを切る。申し訳程度の直線を経てすぐにコーナーへと入っていった。――が、
『おっと、出遅れましたトルバドゥールは最後方のレース。後方にクラッシュオンユー、アマクニ、トルバドゥールと人気馬が固まります』
「……猿江先輩」
青の口から思わず声が漏れる。いったいどうしたというのか、トルバドゥールに前走までの面影がない。まさか、騎手ひとつでここまで変わるのか。岸ほどとはいかなくても、猿江は若手騎手のなかでは次のG1騎手に最も近いとされている有望株だ。それなのに。
青は余計な考えを振り払うように前を向いた。
他人の心配をしている場合ではない。
それに――、
青は並んで走るアマクニを見た。
同期のダービー馬アマクニにはシンザン記念で辛酸を嘗めている。同じ追い込み馬としてもここで負けるわけにはいかない。那須の引退までもあと三ヶ月を切っているのだ。
どれだけ高い壁が立ち塞がろうと、ただ指を咥えて立ち止まっている暇などない。
レースは不気味なほどに静かに進行していく。
トルバドゥールは最後方のまま。第三コーナーの大欅を過ぎ、残り半分。いよいよレースは大詰めに入る。
まずアマクニが速度を上げた。手前を替え、冷えた空気を切り裂くように一瞬で加速する。クラッシュオンユーもそれに続く。
大回りの四コーナーを抜け、府中の長い直線へと入った。喚声。アマクニを外から躱し、直線で速度を上げる。次々と前を往く馬を抜いていく。
その時――、背後からの圧に全身の肌が粟立った。
――アマクニが来たのか?
慌てて振り向くと、こちらを睨む獣の眼光に射竦められる。咄嗟に進路を内へ取った。進路を塞がれた後続馬たちが乱れる。その外を荒い息で走る一頭の馬。
「! トルバドゥール……!」
トルバドゥールが猛然と追い上げる。つい先程まで最後尾にいたはずなのに。唖然とした顔で青はその後ろ姿を見た。
直線。馬の背後に近づく度にトルバドゥールの背が大きくうねる。大時化にうねる海原に取り残された一艘の小舟。猿江はその上で振り落とされないように惨めにしがみつくことしかできない。
最悪の乗り心地だ。
何度、――何度手前替えすれば気が済むんだ。
再びトルバドゥールは大きくうねった。
馬術において、馬の歩法は大きく四つに分けられる。
速度の緩やかな順に常歩、速歩、駈歩、そして襲歩の四つだ。四脚の脚運びによって分類される歩法。前者三つの歩法は三種の歩度と呼ばれ、乗馬や馬術の基本とされているが、最後の襲歩は競馬などの限られた場面でしか用いられない、極限まで速さを追求した走り方だ。
襲歩はそこからさらに大きく二つに分けられる。
それが交叉襲歩と回転襲歩。
その違いはその名が表す通り、交叉襲歩が――右手前の場合――左後肢、右後肢、左前肢、右前肢、と交叉するように順に脚を動かすのに対して、回転襲歩は――同じ右手前でも――右後肢、左後肢、左前肢、右前肢、と回転するように順に脚を動かす。主にチーターなどの肉食動物に見られる走りだ。これらは馬によって違うといったものではなく、両者は走りにおいて異なった役割を持つ。
回転襲歩はゲートを出るときなど素早い加速が必要な場面に用いられる反面、揺れが激しく長い距離を走ることに向かない。一方の交叉襲歩は揺れが少なく安定して長い距離を走ることができる。回転襲歩で勢いをつけ、その勢いを交叉襲歩に繋げることで競走馬は理想的な走りを実現しているのだ。
この回転襲歩は手前替えの場面でも用いられている。
手前替えでは、それまでの脚運び、手前の左右を逆転させるために交叉襲歩の間に回転襲歩を挟む。手前替えは通常、コーナーを回りやすくしたり、疲労軽減のため、時に馬が自発的に、時に騎手が重心や鞭で促して行われるものだ。これが上手くできない馬は、最後の直線で疲労が蓄積して脚が上がりモタれてしまうことが多い。
普通の馬であれば一レースで数度この手前替えを行うだけだが、トルバドゥールはこの手前替えを何度となく行なっている。はっきりいって異常な数を。
手前替えを馬が行うのはいくつか理由がある。そもそも利き脚のほうで走りたがったり、疲れ、痛み、気分、その理由は馬の数だけある。トルバドゥールがなにを思って手前を替えているのかはわからない。だが、前を走る馬を抜かそうとする度に回転襲歩に変わる瞬間。その姿は獲物に襲いかかる肉食獣を思わせた。それはさながら暴君の如く自らの力を誇示しているようだ。
まさにそれは、常識が通じない強さ――恐怖。
まさに魔王。
胃を握り潰されるような感覚に、腹の奥から吐き気が押し寄せてくる。
岸はこんな馬にあんなに平然として乗っていた。だからこそあんなにあっさりとこの馬から降りたのだ。この馬を満足に制御できるのは自分だけだと、そう確信しているから。
――レース後に気持ちが変わらないといいね。
妻鹿のあの言葉がフラッシュバックし、リフレインする。
この馬はどんな騎手でも勝たせることができるだろう。だが、俺はこの馬にとって何者でもない。五十八キログラムのただの重り。
初めてだ。
こんなに馬に乗りたくないと思ったのは。
ゴールが目前に迫る。
「走れ! クラッシュ!」
背後から迫る声にはっとして顔を上げる。振り返ると目が合った。圧倒的な力の差。それを見せつけられながらもその瞳に宿った炎の色が褪せることはない。
クラッシュオンユー。そして日鷹青。
その姿が近づいてくる。
次回は1/27(火)更新予定です。




