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 十月最終週の水曜日。

 栗東トレセン。週末のレースに向けた最終追い切りも終わり、日も高く上っていた。いつまでも残ったあの夏を忘れたように、空気はすっかりと冷え込んでいる。

 妻鹿(めが)調教師は薄手のナイロンの上着を羽織って、 

井能(いのう)さん。じゃあ、あとはよろしく頼みます」

 馬房の寝藁を交換していた井能に声を掛けた。妻鹿は午後から外で用事があり、このあとの仕事は調教助手であり妻鹿厩舎の古株である井能に一任されていた。

 井能は顎をぐいっと持ち上げて、角張った顔を向ける。

「はい。任せてください」

 暫く妻鹿の背中を見送っていると、背中を何度かつつかれる。井能は振り返りその栗毛の額を撫でた。

「ああ、ごめんな。そう急かすなよ」

 トルバドゥールは気持ちよさそうに目を細める。春古馬三冠を達成し、この頃は世間で「魔王」などと呼ばれるようになった圧倒的な力を持つ馬。開業したばかりの妻鹿調教師には出来過ぎた馬だという声もあるが、それは担当を務める凡百の調教助手にすぎない俺にとって使われるべき言葉だ。

 トルバドゥールはじゃれつくように鼻先を擦り付ける。馬房でリラックスしている彼には現役最強馬たるその面影すらない。

 今週末には秋初戦となる天皇賞(秋)を控えている。

 ここからトルバドゥールは秋古馬三冠、つまり春と合わせて古馬芝中長距離G1六レースの完全制覇――グランドスラム――を目指すことになる。

 ――トルバドゥールは負けない。

 確信があった。

 この馬が入厩した時から見てきたのだから絶対とは言わないが、疑うつもりもない。

 だが――、

「忘れ物かい? 猿江君」

 少し離れたところでトルバドゥールをじっと見る猿江に声を掛ける。猿江は曖昧に頷いた。

「……すみません。追い切りだけじゃ、まだはっきりとわからなかったんで」

 菊花賞以来コンビを組んでいた岸が突然トルバドゥールから下りた。その代打が猿江だ。

 今日の最終追い切りはもちろん、トルバドゥールへの乗り替わりが決まってからというもの、猿江は一次的に美浦から栗東に拠点を移し追い切りをこなしていた。

「ならもっとこっちに来なよ。観光客じゃないんだからさ。そこからじゃ綺麗なところしか見えないよ」

 その言葉に、猿江は井能の隣まで近付く。歩幅ひとつ分の距離でトルバドゥールと見つめ合った。沈黙。

「ほい」

「え?」

 張り詰めた空気を破り、井能は猿江にステーブルフォークを半ば押しつけるように手渡す。猿江は困惑の表情を浮かべる。

「この子のことをちゃんと知りたいなら、もっと汚いところや嫌なところを見なくちゃ駄目だ。自分の都合のいいことだけ見ようとしたら馬は振り向いてくれないよ」

 猿江は困惑のなか生返事で馬房の手入れを手伝う。言われるまま言葉を交わすこともなくトルバドゥールの馬房を終えると、ついでとばかりに他の馬房の掃除まで手伝わされた。

 ひと通りの作業を終えると、すっかり額に汗が滲んでいた。

「不安かい、やっぱり」

 不意に井能が独り言のように呟く。口籠った後、猿江はゆっくりと言葉を吐き出した。

「……そりゃ、去年の菊花賞からG1を五連勝してる馬の代打ですからね」

「へえ。意外だなあ。妻鹿先生は、君に騎乗を頼んだら自信たっぷりだったって言ってたけどね」

「どっちも本音ですよ。負ける不安はある。でも勝つ自信もある。この世に百パーセントのことなんてないですよ」

「でも今回は百パーセントかもしれないよ」

「ないです」

「百パーセント?」

 堂々巡りとなった会話を楽しむように井能は笑い、改めて訊ねた。

「君のその不安や自信はどこから来るの? 不安は騎手から、自信は馬から?」

 妙に韻を踏んだ言い方が鼻につき、猿江は唇を窄める。

「それは俺の本音じゃなくて井能さんの本音なんじゃないですか? トルバドゥールに自信はあるけど、井能さんにしてみれば急遽乗ることになった俺だけが不安要素。違います?」

 井能は口元を緩めた。

「これはちょっと意地悪だったかもね」

「だいぶ意地悪ですよ」

 まったく、と溢して猿江は遠くを見た。

「そういう厭味なら俺じゃなくて岸さんにしてやったらどうなんです? 他の有力馬や義理のある馬に乗るならまだしも、府中で乗りたくないなんて理由、怒る権利十分あるでしょ」

 話しているうちに岸に対する怒りが沸々と沸き上がったのか、猿江の言葉が崩れる。

「でも彼の気持ちもわからないでもないよ。俺も昔は騎手だったからね。走りたくない競馬場のひとつやふたつあるもんさ。俺もあるよ。――君はないの?」

「残念ながら」

「そうか。それはいいことだね」

 さっきまでの問答とは異なり柔らかい声色で、そこにはまったく皮肉の色はなかった。

「トルバドゥールはいつも通りだよ。心配もいらない。君も気負わずいつも通り乗ればいいだけだ。それに箸にも棒にもかからない騎手を妻鹿君が選んだわけがない」

「俺に声を掛けたのはだいぶ後だったっぽいですけどね」

「運がいいね。君の番まで当たり籤が残ってたわけだから」

 猿江は露骨に顔を顰めた。

「あのー、すみません」

 猿江の背後から聞こえる声に井能は微かに動揺を見せた。猿江は声に振り返っており気付かない。

 日鷹青が立っていた。

「勝負服受け取りに来たんですけど……。あれ、猿江先輩。お疲れ様です」

「……お疲れ」

 バツの悪い顔で猿江はこめかみを掻いた。井能は素知らぬ顔で、

「誰かいなかった?」

 青に訊いた。

「はい。何度か外から声掛けたんですけど」

「……休憩行っちゃったかな。待ってて取ってくるから。ブライトモリーだったよね。今週乗る馬」 

 青は肯く。井能は右足を引き摺るように厩舎の方へ向かった。轍のように伸びる跡に青の視線が引き寄せられる。

「大丈夫ですか? 脚。あの、迷惑じゃなかったら待ちますよ」

「気にしないで。……古傷だから」

 井能は下を向きながら歯切れ悪く答えた。脚を引き摺ったまま建物の蔭に隠れ姿が見えなくなった。

 馬房に二人取り残される。



 青はトルバドゥールをじっと見る。猿江がその姿を横目で見ていると、不意に顔を上げた青と目が合った。

「そんな睨まなくてもトルバドゥールは取らないから安心してくださいね」

 こちらを覗き込み、からかうように青の口の端が上がる。

「そんな心配してねえよ。睨んでもない」

「そうですかねー。睨んでたと思いますけど」

「しつこいぞ。お前は自分の心配だけしてろ」 

「でも――」

「随分とお喋りだな今日は」

 懲りずに話し続ける青に、猿江はたしなめるように言った。青は慌てて口を噤む。

 変わらないな。緊張や不安があると饒舌になる。根っこのところはデビュー戦の頃から変わっていない。しかし、その腕前はあれから一年半ほどで見違えるようだ。恐るべき速さで騎手としてのステージを駆け上がっている。

 その姿はすぐ後ろに、いや、もしかしたらもう――、

 猿江先輩、と青が言った。目が合う。

「私が勝ちます」

 その言葉は力強く揺るぎない。どこからその自信が湧いて出るのか。怖いものなどないというようにまっすぐと立つ姿。その空のように透き通った眼に自分の姿が映る。こちらの心を見透かすようなその眼に、心の裡で燃え上がった感情が静かな言葉となって猿江の口をつく。

「俺が勝つ」

 秋の天皇賞。この舞台で俺は俺の実力を証明する。

 青が嬉しそうに笑みを浮かべた。思わず猿江は目を逸らす。どうにも青と話していると調子が狂ってしまう。

 そこで、背筋に冷たいものが走った。

 先程まで穏やかな表情を浮かべていたトルバドゥール。その顔に闇のように深く底の見えない蔭が落ちる。その瞳だけが燃えるように赤く光っていた。

次回は1月20日(火)更新予定です。

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