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ゴルディアスの結び目

 ジーランディアの馬上で一星北斗は口角を上げた。

 ()()()()()()

 最初にレースのペースを決める権利を持つのは先頭の馬。つまり逃げ馬だ。

 たとえば先週の秋華賞。スティレットが大逃げを演出しペースを狂わせた。あれがなければ今回の菊花賞で大きく逃げる選択肢もあっただろう。分の悪い相手に勝ちにいくなら悪くない手だ。しかし、長距離の菊花賞では大逃げのリスクは必然大きい。

 長距離はスタミナが物を言うからだ。

 ここでいうスタミナはなにも肉体的な持久力や心肺機能だけを指すものではない。精神的なもの。即ち精神力や忍耐力といったものも含まれる。

 肉体的に長距離に向いていても気性面での折り合いがつかなければ長距離を走り切ることはできないし、逆もまた然り。血統から見れば長距離を走れる馬が、その気性ゆえに短距離を走らざるをえない例は珍しくない。

 肉体と精神、その両方の柱が並び立った時に長距離というあまりに過酷な試練を克服することができる。菊花賞が行われる三歳の秋。その柱は盤石なものではない。

 だから、()()()()()()()()()

 逃げ馬が逃げなければ当然ペースは遅くなる。

 単純にスローに持ち込むだけでは前方脚質の馬に利するだけになるが、それはあくまで肉体的なスタミナの話だ。この密集した馬群。これが徐々に、だが着実に馬の精神に負荷をかける。精神の疲労は肉体に。肉体の疲労は精神に。決して解けることのない糾える縄のように身体を縛り付ける。

 それに懸念点がなかったわけではない。

 まず、こちらが後続の馬からつつかれ、ペースを乱される可能性。

 だが三歳馬にとってはほぼ初となる長距離戦。距離不安があるなかで積極的に仕掛けるリスクとリターンが釣り合わない。それに、そのリスクを承知してつついてきても、それで掛かってくれれば当初の目的は達成する。 

 そしてもうひとつ、ジーランディア以外の逃げ馬が普通に逃げた場合だ。そうなればこちらの策は水泡に帰す。アフィラドール。そして、ダービーで逃げたコスモナビゲーターが逃げ候補だった。が、後者は秋の初戦で後方に控えたのでその可能性はほぼ消えた。撒き餌の可能性もあったが、素直に菊花賞に備えたと考えるべきだろう。

 つまり、このレース警戒すべきはアフィラドールだけだったが、

「やっぱり兄弟。考えることは同じやね」

 アフィラドールもまた逃げなかった。兄弟は思考回路まで似るのか。それともこちらの様子を見て作戦を察したのか。どちらにしても二頭は逃げずに並んだ。これではまるで八百長みたいだ。

 苦笑い。横目で陸を見ると、申し合わせたように目が合った。思わず吹き出す。陸は仏頂面で正面に向き直った。

「さあさあ、我慢比べや。君はお利口に走れるかな、アレクサンダーくん」

 仕切り直すように北斗も前を向き呟いた。


 

『一〇〇〇メートルを通過しました。タイムは――六十三秒八。やや遅いペースです。先頭はジーランディアとアフィラドールが並び、そのすぐ後ろで各馬控えます』

「面白くなったわね」

 レース中継を見ながら愛は満足気に顎を引いた。

「これ、もしかして二人ともわざと逃げてないってこと?」

 たぶんね、と愛は頷く。

「ジーランディアとアフィラドール。あの二頭を操る一星兄弟がレースを我慢比べに持ち込んだのよ。逃げてないってわけじゃない。二番手以下を大きく引き離す逃げが大逃げだとしたら、あれは差を殆どつけない『逃げない逃げ』とでも言えばいいかしら。

 あの『逃げない逃げ』で馬群全体にストレスをかけている。偶然かどうかはわからないけど、狙ってるなら普通の逃げより随分と難しいことをやってるわね。自分の馬を制御できなければそもそも簡単に破綻するプランだもの。なかなかどうして自信家なのね」

「凄いね、二人とも」 

 アレクサンダーが圧倒的な実力を持つレース。だからこそ純粋な地力の勝負ではなく心理戦に持ち込んだということだ。

「でも苦しいレースになるわよ。三〇〇〇メートルの距離を走るだけでも苦しいのに」

 馬群は大きなひとつの塊のまま一コーナーを過ぎ二コーナーへ。レースは折り返し地点に入る。膠着が続く。それは今にも噴火しそうな火山のようだ。少しのきっかけがあれば忽ち炎を噴き上げるだろ。

「我慢できなくなったのがここらで動きそうだけど、誰が火中の栗を拾うかしら」

 愛の言葉を上の空で聞き、青は取り憑かれたように画面を見つめる。あの馬群から抜け出す一頭。そこに確信めいたものがあった。

 きっと、()()()が出てくるはずだ。

 馬群に紛れる赤色の帽子。由比。そして、アレクサンダー。向正面に入り、動いた。

 ――来た。

『痺れを切らしたか、ここでアレクサンダー抜け出します! 先頭アレクサンダー! アレクサンダー逃げます!』

 スタンドの観衆がどよめく。

「アレクサンダー……!」

 愛が瞠目する。青は生唾を飲んだ。

 アレクサンダーが先頭に立つ。

 デビュー七戦目にして初めて逃げる形の競馬。断トツの一番人気。当然後続馬十七頭の目標となり、ここで潰そうと激しく競りかけられることだろう。いくら天才と持て囃される由比といえど、いつもと違うこの状況で冷静にレースを運べるのか。

 青は身体の横で拳を強く握った。



 来た来た来た。

 抜け出したアレクサンダーを見て北斗がほくそ笑む。 

 ――潰したるでアレクサンダー。

 ジーランディアに鞭を入れる。アフィラドールにも同じく鞭が入った。

 楽なペースなど刻ませない。馬も騎手もレースが嫌になるまでつつく。北斗は意気揚々とアレクサンダーを追った。――が、そこで北斗は怪訝に眉を寄せた。

 おかしい。

 差が縮まらない。速度は落としていない。むしろ上げたくらいなのに。それどころか徐々に離れていく。差はまたたく間に一馬身、二馬身と開いていく。

「……! 嘘やろ……?」

 向正面の直線を過ぎて淀の上り坂。アレクサンダーはペースを上げ続ける。前半とはまったく異なるペースを刻んでいた。さながら()()()()()()()()()()()()()()()()()

 じっとりと汗が滲む。動揺を吐き出すように北斗は一度大きく息を吐いた。

 落ち着け。暴走だ。いくら前半スローで流れたからといってこんなペースで持つわけがない。

 すぐ横を成海のジュラシックジャズが通り過ぎる。淀の坂、その頂上を迎え各馬速度を上げる。

 ジーランディアもペースを上げた。

『四コーナー抜けて最後の直線! 最初に駆けて来たのは皐月賞馬アレクサンダー! それを追ってジュラシックジャズ、ジーランディア、アフィラドールと続きます!』

 大地を割らんばかりの馬蹄の音。地を駆ける雷。喚声を裂く閃光。アレクサンダーは雷霆の如く直線を駆ける。差は縮まらなず広がっていく。力の差が歴然とした隔たりとして可視化される。

 智略。策略。謀略。王の喉笛を掻き切ろうと藻掻く民の浅知恵を羽虫を踏み潰すように蹂躙する圧倒的な力。その無慈悲さこそがまさしく偉大なる王の血の証明であった。

『一着アレクサンダー! 皐月と合わせてこれで二冠達成! 父イスカンダルに恥じない圧倒的な力をデビューの地で見せつけました! 二着――』

 アレクサンダーの後ろ姿を遠くに見て、ジーランディアの速度をゆっくりと落とす。

 作戦は上手くいった。しかし、相手が悪かった。

 肉体と精神ともに充実した三歳馬に不釣り合いなスケール感。跨るジーランディアの背中がひどく萎びて見えた。

「……同じ馬か、あれが。反則やろあんなの」

 隣に来た陸は馬上で呆然と呟いた。 

「まったく。おもんない馬や」

 陸の言葉に肯き、北斗はゆっくりと天を仰ぐ。

 晴れ渡っていた秋空を暗い雲が覆う。雲が一瞬白く光り、空が低く唸った。



 喚声に沸く中継映像を見ながら愛と青の二人は無言で立ち尽くす。言葉にできない。いや、最早言葉にするまでもない。

 七馬身差という数字以上の強さ。

 さっきまでアレクサンダーに襲いかかるように見えた群れ。それはさながらアレクサンダーを将とした勇猛たる行軍に今は思えた。

 押し出されたわけでも、掛かったわけでもない。逃げたのではなく、中間地点から捲った。あれは超ロングスパートだ。まるでクラッシュオンユーが勝った札幌記念の意趣返し。

 無謀にも思える走り。だが、アレクサンダーは、由比は、強靭な力で艱難を断ち切り、突き抜けた。

 皐月賞で感じたあの恐ろしさ。画面越しにも関わらずそれを凌駕するほどだ。もし、クラッシュオンユーがこのレースを走っていたら、アレクサンダーを捕らえることはできただろうか。影を踏むことすら叶わなかったのではないか。そんな考えが浮かび、脳裡にこびりつく。

「……だめだ」

「え? なに、青」

 今のままじゃ勝てない。どうしたら私は彼らに勝つことができる。

 テレビの中でインタビューに答える由比が大写しになる。青は目に焼き付けるようにいつまでもその姿を睨みつけた。

次回は1月13日(火)更新予定です。

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