騎手強かに、馬強くあれ
「長距離は騎手で買え」
競馬界に数ある格言のなかでも有名な格言のひとつだ。
賑わいをみせる京都競馬場の真新しい記者室の一角。新発田が何気なく呟いた言葉に、末崎が得意気に言葉を継いだ。
「知ってますよ、それ。あとは、『菊花賞は最も強い馬が勝つ』とか」
新発田はキーボードを叩きながら、
「二つの格言から導かれる事実。それはつまり、強さを求められるのは馬だけじゃない。その強さは騎手にも求められる、ってことだ。この場合、強さじゃなくて強かさといったほうがいいかもしれないがな」
中央競馬において施行されるレースは、短いものは一〇〇〇メートルから長いもので三六〇〇メートル。賞金によるレースレベル以前にその距離の時点でレースの質というものは大きく変わってくる。
ペース配分。位置取り。折り合いのつけ方。それらひとつの僅かな誤差がゴール手前に大きな差になって現れる。距離が伸びるほどに。
「百十三秒。これは昨秋に行われた短距離G1のスプリンターズステークスと長距離G1である菊花賞、その一着馬のタイム差だ。およそ二分。レース中騎手は馬の背中でただ掴まってるだけじゃない。当然、騎手の介在する余地がそこにはたっぷりとある」
隣の席で末崎は腕を組んで唸った。身体を預けた椅子の背もたれが僅かに軋んだ音を立てる。
「アレクサンダーに乗る由比くんはどうなんですかね。G1ジョッキーですけど、よくよく考えたらいくら上手くても二年目の騎手が長距離をこなせるかなんて未知数ですもんね。
――ちなみに他の……たとえば北斗騎手とかはどうですか?」
思いついたように末崎は付け加える。新発田は画面を見つめたまま表情を変えず、
「知らん」
「……そうですか」
「別に悪い印象があるわけじゃない」
手元のノートパソコンの画面を末崎の方へ向ける。末崎は目を瞠き、それを興味深そうに前屈みになって覗いた。この中には個人的にまとめたレースや調教、インタビュー内容などの諸々のデータが収められている。
今表示されているのは、距離別、競馬場別の施行回数を整理したシンプルなデータだ。
「一般的に長距離とされる二五〇〇メートル以上のレースの開催自体がそもそも少ないんだ。割合で言うと去年は芝のレース全体の二パーセント程度。ダートに至っては二五〇〇が最長で、それもたった三レースあっただけ。これはざっと〇・〇一パーセントだな」
「たったそれだけ」
「人馬ともに長距離の経験を積むことすら難しいのが現状だ。若けりゃなおさらだ。――それでも一流どころは長距離も卒なくこなすのが多いけど」
「那須さんとかルピさんとかですね。たしかに長距離は騎手で買え、ってその通りかも」
末崎が自らのメモとモニタを交互に見ながら言った。
「まあ、馬にスプリンターとステイヤーがいるように、いくら上手くても長距離がぱっとしない騎手はいるけどな」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
そう言って新発田はキーボードの上で指を走らせて違うファイルを開いた。
「たとえばほら」
成海の豪快なくしゃみがパドックに響いた。
居合わせた視線が人馬関係なく一斉に集まる。それをひと睨みすると、視線は慌てて四方へ散った。
「風邪?」
成海と歳近い厩務員の男が、ジュラシックジャズの曳き綱を操りながら訊ねる。
「花粉症だよ。ブタクサ」
成海は鼻を啜った。
「心配しなくてもレースには影響ねえから安心してくれ」
「別にそれは心配してないよ。意識し過ぎてるのは君だけだし」
「ふん」
成海は顔を顰め鼻を鳴らす。厩務員の手を借りずに一気にジュラシックジャズに跨った。
地方競馬で鳴らした成海の腕も、長距離レースになるとからっきしであった。地方競馬がダート短距離マイルレースが圧倒的に多かったのも影響しているかもしれない。
厳格で格式張ったクラシックと即興で奏でられるジャズが、同じ音楽という庭において根を張っていてもまったく違った花をつけるように。どうにもリズムが合わなかった。同じ競馬なのに、距離が違うだけなのに。――いや、同じところがあり過ぎるがゆえに僅かな差異が精密な動きの歯車を狂わせているのか。
「気楽にいきなよ。肩肘張ってちゃジャズの良さが死ぬ」
「わかってるよ」
ジュラシックジャズのこととはわかっていても、頭の中を覗いたような発言に成海は苛立ち舌打ちする。厩務員の男はそれをまったく意に介さず笑った。
「それじゃ、ジャズを頼んだよ。チャレンジャー」
「誰がチャレンジャーだ。俺は南関の王。キングだぞ」
声を張り上げるかわりに、成海は馬上で堂々胸を張った。
「なんで青がそわそわしてるのよ」
乗るわけじゃないのに、と柔軟中の愛が付け加えた。前屈で身体を床にピッタリとつけ、顔だけが青に向いている。菊花賞の舞台である京都競馬場から遥か東の東京競馬場。そのジョッキールームのストレッチスペースで青がそわそわと歩き回る。
二人とも今日の昨日予定はすべて消化していた。
青が振り向く。
「だからだよ。私が乗るんだったらそっちに集中できるけどさ」
話しながらもちらちらと見つめるその視線の先、据え付けられたテレビには菊花賞の出走馬が次々と馬場入りする姿が映っている。体勢を変え、仰向けで腰を捻って伸ばしながら、愛は呆れたように、
「普通逆だと思うわ、それ」
「しょうがないじゃん。そうなんだもん」
「だいたいそんな心配することないじゃない」
愛は仰向けの状態から両膝を胸部へと引きつけたと思うと、勢いよく立ち上がった。青と愛の目線の高さが揃う。
「由比くんが私たちのなかで一番上手かったんだから。むしろ勝ってもらわないとね。違うかしら?」
逡巡の後、青は強く唇を結んで頷く。
「そうだね」
何度も。
「たしかにその通りだ。あんなに強かったんだもん。万全なアレクサンダーで負けるわけない」
愛は表情を緩める。
「……まったく。忙しないわね」
テレビからファンファーレが流れる。
その音に自然と二人の視線が吸い寄せられる。
スイッチングされる映像。スターター。輪乗り。観客席。俯瞰した京都競馬場。
そして、アナウンサーの朗々とした声。
『春は桜に見惚れ、秋は菊に心奪われる。阪神競馬場の桜花賞から始まったクラシック競走は、今日ここ京都競馬場の菊花賞で終わりを迎えます。圧倒の桜花賞。豪雨の皐月賞。圧巻のオークス。激闘の日本ダービー。そして、波乱の秋華賞から一週。三〇〇〇メートルという長い長い旅路の果てに、最後の栄光をその脚で勝ち取らんと、十八頭は今菊花賞のゲートに並び立ちます』
誘導に従い、次々に馬が発馬機に収まっていく。最後の一頭、十八番のゼッケンをつけた鹿毛の馬が枠に入った。
『今日という晴れの日に、いざ菊花の如く大輪と咲いてもらいましょう』
ゲートが開く。喚声。
スタンドから遠く向こう側、屈強な牡馬たちが淀の坂を勢いよく駆け上がっていく。先頭は一星陸の乗るアフィラドールと一星北斗の乗るジーランディアの二頭。
「一星ブラザーズね」
いつの間にか横に立つ愛が呟き、
「大逃げでも見せてくれないかしら」
悪戯に笑った。
坂を下り、四コーナー。先頭の馬がスタンド正面へと顔を出す。直線。ここから逃げ馬はエンジンがかかってくる頃合いだ。だが、
「……逃げないね」
「逃げないわね」
青と愛が顔を見合わせる。
先頭は依然としてアフィラドールとジーランディア。しかし、後続との差はほぼない。すぐ後ろにはアレクサンダー、ジュラシックジャズといった上位人気の馬。固まった馬群は画面越しにさえ息苦しさを覚える。
「なんでだろう?」
独り言のように呟き、口元に手を当てた。
菊花賞フルゲート十八頭のうち、想定されていた逃げ馬がアフィラドールとジーランディアだ。しかし二頭はハナ争いもそこそこに馬群へ蓋をした。
愛も小首を傾げる。
「出遅れてはなかったし、初めての長距離だから抑えたのかもね、二頭とも。――でも」
「でも?」
愛は意味深に目配せした。
「暴走に見えた大逃げに意味があったように、逃げ損ねたように見えるこれにももしかしたら意味があるかもね」
「愛が言うと説得力が違うね」
青は冗談めかしたように言ったが、その顔はいたって真剣なままだった。先週、愛の大逃げの意図を計りかねたように、この逃げについても意図が読めない。もし、こういった騎手のひとつひとつの動き、その意図にいち早く気付くことができたのなら私はもうひとつ先に進めるのだろうか。
画面にはアレクサンダーが映っている。
由比は読めているのだろうか。このレースの行く末を。このレースの形を。
馬群はいまだスタンド正面の直線。一〇〇〇メートルにも達していない。
次回は1月6日(火)更新予定です。




