後継者
「今日はありがとう。悪いね三人とも時間合わせてもらって」
「気にせんでください。その代わり、仰山ええこと書いてくださいよ」
調教の合間、栗東トレセンの調教スタンド一階の食堂での取材。顔の前で手を合わせた恰幅のいい四十絡みの記者に、一星北斗は軽口を叩く。
「はは、もちろんだよ。それじゃあ、また」
北斗は男の後ろ姿を見送った。その姿が見えなくなると大きく溜息をつき、背もたれにぐったりと身体を預ける。すっかり冷めたコーヒーを啜った。
「そんな疲れるんなら、あんな愛想よく対応しなきゃええのに」
左隣に座る弟の海里が呆れた様子で笑う。北斗は海里を睨みつけた。
「イメージ戦略やイメージ戦略。一星三兄弟のスタイリッシュなイメージは俺が支えてるんや。感謝せんかい」
「はいはい。でも、そんなんに騙されとるの北斗兄のファンの女の子くらいやない?」
海里は顔をにじり寄せた北斗を軽くあしらった。北斗の右隣に座る陸が立ち上がる。
「なんや、もう行くん、兄ちゃん?」
海里の問いかけに、
「取材はもう終わりやろ。調教残っとるし」
短く刈り上げた黒髪の後ろ頭を撫でて、飄々と陸は答える。
「せっかく三人揃ったのにドライやなあ。ええやん、もうちょい話そうや」
「今更兄弟であらためて話すこともないやろ」
「兄貴の言う通りやな」
陸の言葉に北斗が同意して立ち上がる。
「話題ならあるやん。菊花賞の話題が」
不貞腐れたように海里は下唇を突き出した。
今日、ここで三人が揃って取材を受けた理由。それがまさに菊花賞だった。
この菊花賞で三兄弟が初めて同一G1で騎乗する機会を得たのだ。菊花賞主役がアレクサンダーであることは揺るぎようもなかったが、その物珍しさに取材依頼が少なくない数あり、三人一緒での取材が今日だった。
「三人の中だったら、どの馬が一番強いん? 兄ちゃんのアフィラドール? 北斗兄のジーランディア? ま、俺の馬はちょい厳しいかもやけど」
「俺のジーランディアに決まっとるやろ」
北斗は即答する。
ジーランディア。
春のクラシックでは出番がなかったが、一勝クラスから順調に三連勝を飾って菊花賞へと出走を決めた。いわゆる夏の上がり馬である。そしてなにより――
「ちゃうな。アフィラドールや」
陸は言葉を続けようとした北斗を遮って断じた。
アフィラドールは春のクラシックにも参戦した。菊花賞の前哨戦であるG2神戸新聞杯ではアレクサンダーの二着とたしかな実力を持つ。強がってみたはいいものの、格でいえば僅かにアフィラドールに軍配が上がるだろう。
ふーん、と海里はにやにやとした顔で二人の顔を交互に見る。
「二人とも秋華賞見たやろ? やっぱりあんな感じで逃げるん? ばーって」
大袈裟な身振り手振りを繰り広げる海里。アフィラドールとジーランディア。二頭はなんの因果か逃げ馬だった。北斗は顔をしかめる。
「アホか。二週連続で大逃げが成功するわけないやろ。しかも、あの馬と違ってこっちの馬はそこそこの人気を背負っとるんや。警戒されて楽逃げできんわ」
「……まあ、厳しいやろな」
陸も北斗を横目で見てから、渋々同意した。
「そうなんや」
海里は些か失望したように肩を落とす。
「――でもさあ」
「ん?」
ぽつりと呟いた言葉に二人は反応する。
緩いパーマのかかった前髪から、こちらを試すように爛々と光った瞳が覗いた。昔から変わらない、こちらを挑発しつつ、期待をぶつけてくる瞳。その独特な色。
嫌な予感に胸がざわついた。
「それでアレクサンダーに勝てるん?」
弟の純粋で生意気な発言ほど、兄の矜持を逆撫でするものはない。
「戦う前から諦めてどうすんねん。別に大逃げだけが作戦やないからな」
陸は努めて冷静に海里をあしらう。海里はつまらなそうに北斗に視線を向けた。
「北斗は?」
遂には呼び捨てである。こいつはどうも次男である俺を舐めている節がある。陸なら兄らしく威厳を含めて返すのだろうが、
「下手くそに言うだけ無駄や」
自らのこめかみ辺りをとんとんと指で叩き、なるべく厭味ったらしく海里へ言い返した。海里は気色ばんで立ち上がる。
「誰が下手くそや! 陸兄ちゃんには勝てんけど、北斗の百倍は俺のほうが上手いわ!」
「きゃんきゃんきゃんきゃん……、弱い犬はよう吠えるいうけどホンマやな」
「なんやと!」
「やめえやアホ」
今にも掴みかからんばかりの二人の間に陸が身体を割り込む。
「そういう血気はレースまでとっとき。せっかく三兄弟が揃うんや。こんなアホなことで怪我でもしたらおもんないやろ」
陸が長男らしく場をまとめる。
海里はしらけたように椅子に勢いよく座り込む。北斗も気障ったらしく肩をすくめた。
「まったく」
「……あのー」
背の高い若い男が申し訳なさそうに体を丸めて声を掛けてくる。
「あの、もう大丈夫ですか? 取材お願いしてた末崎です」
北斗は壁に掛かった時計に視線を向ける。
ああ、もうそんな時間か。すっかり忘れていた。北斗は末崎に向かって口角を上げた。
「おお、待っとったで。悪いけど、移動しながらでもええかな?」
食堂から厩舎への道中、
「わざわざ俺の取材なんて必要ないやろ?」
北斗は薄ら笑いを浮かべて末崎に訊ねる。
「そんなことは」
北斗は間髪入れずに、
「あー、お目当ては俺やなくてジーランディアやったわ」
「ジーランディアの鞍上に取材に来たんだから目当ては北斗騎手ですよ」
「ええて別に。ジーランディアに比べりゃ、俺にそんなバリューはないもんね。もう一頭のイスカンダル産駒であるジーランディアに比べりゃ、ね」
現三歳世代はこの世を去ったイスカンダルのラストクロップにあたる。僅か十頭しかいない産駒。そのうちの一頭がジーランディアだ。
「そんな捻くれた言い方しなくても――」
「なあ、ディアドコイ戦争って知っとる?」
「え? ディア……? なんです、それ?」
「紀元前四世紀の終わり頃にイスカンダル――アレクサンドロス三世の死後に起こった後継者争いのことや。偉大な大王の後継者の座を巡って血で血を洗ったらしいで」
末崎は眉間に皺を寄せ顎を触る。
「……つまり、菊花賞はアレクサンダーとジーランディア、イスカンダル産駒の後継種牡馬になりうる二頭の争いだと、そう見てるってわけですか?」
アレクサンダーの活躍に隠れているが、古馬のイスカンダル産駒はどれもぱっとしていない。そのサイアーラインを守るためには現三歳世代が頼みの綱である。そう考えてみれば、この菊花賞は今は亡きイスカンダルにとって重要な意味を持つのかもしれない。
「全然」
「は?」
人を食ったような返答に末崎は間の抜けた声を出す。
「前取材来た記者の受け売りや。大変やね記者さんも。いろんなネタ捻り出さんとあかんのやから。俺、勉強苦手やからさ。尊敬するわ」
「……それはどうも」
からかわれたようで、末崎は仏頂面で返事をした。それを意に介さず北斗は話し続ける。
「末崎さん、やっけ? あんた、ホンマにジーランディアがアレクサンダーに勝てると思うとる?」
「そりゃ、あのパリスグリーンが負けることだってあるんですから絶対なんてないですよ」
北斗は大きく何度か頷く。
「そやね。絶対はないし、奇跡はある。でも奇跡は滅多に起きないから奇跡なんやで。この前の秋華賞で奇跡はソールドアウトや」
「……それを起こすのが騎手なんじゃないですか?」
末崎はむっとして返すと、
「勘弁してや。騎手はヒーローでもスーパーマンでもないんやから」
「僕は」
末崎が北斗を見据え、食い気味に言葉を発する。
「僕は騎手はスーパーマンだと思ってますよ」
その時、北斗から表情が消える。しかし、それも一瞬。すぐに余裕のある表情で、
「ま、そら中にはおるよ。スーパーマンも。でも、大半はしがない博奕の駒や。俺含めて、な。――おっ、そんな話しとったら、おるやん。あんなところにスーパーマンが」
北斗が手で庇を作り見やった先。とある厩舎の前。そこには涼しい顔をしてなにやら調教師と話し込んでいる由比がいた。
「あいつは自分が負けるなんてこれっぽっちも思っとらんのやろなあ。俺に取材するんやったらあっちに行ったほうが有意義なんやないかな」
競馬界において、同じ競馬一家でも由比家に比べれば一星家は数段劣る。月とスッポン。提灯に釣鐘。俺に同じイスカンダル産駒であってもアレクサンダーと比べるのが憚られるジーランディアが回ってきたのも考えてみればなんとも皮肉なものかもしれない。
顔の横に視線を感じる。
「なに? 顔になんかついとる?」
「僕には北斗さんがそれを本心で言ってるとは思えないですけどね」
一瞬、この記者の顔に恋太郎の顔が重なった。まったく、どいつもこいつも。
「……あんた、ギャンブルで大負けするタイプやね。自分の妄想を信じすぎるタイプ。気い付けたほうがええで」
「でも、大勝ちするのも僕みたいなタイプですよ」
得意気に末崎は口元に笑みを浮かべる。気付かれないほどの大きさで舌打ちし、厩舎の前で北斗は歩みを止めた。
突き放すように、
「ごめんやけどやらなあかんこと思い出したわ。やっぱり今日の取材なしでええ? 穴埋めはまたするわ」
そんな機会があればやけど。
「じゃあ、意気込みだけでも一言ください。それくらいはいいですよね」
意気込み、ね。
金髪を靡かせて、北斗は振り向く。印象的な切れ長の目が末崎を捉えた。
「今度の菊花賞。一星北斗、一世一代の逃げを見せたるよ。楽しみにしときや」
北斗は端正な顔に胡乱な笑みを浮かべ、目を細めた。
次回は12月30日(火)更新予定です。




