四本目の矢
「案外根性座っとるんやな嬢ちゃん」
札幌記念終わり、検量室を出たところで愛の背後から小豆畑は声をかけた。その流れで愛の肩を叩こうとしたが、おっと、と言って慌てて引っ込める。
「別に肩触られたくらいでセクハラなんて言いませんよ。小豆畑さん」
その言葉に小豆畑は豪快に笑う。
「そうか。なら触っとくんやったなあ」
「その発言はセクハラですけどね。――それで、それってどう意味でしょうか」
「ん?」
「案外根性座っとる、って」
ああ、と言って小豆畑は、
「いやな、桜花賞で逃げてあんな大失敗したもんだから当分まともに逃げれんと思っとったんだが……。なかなかどうして良い逃げっぷりやったからおっちゃん驚いたんや」
ありがとうございます、と愛は素直に頭を下げた後、
「でも私としては逆ですかね。あんな醜態晒したから吹っ切れたというか。あれ以上の酷い走りはそうそうできないので。だったら思いっ切りやろうって」
小豆畑は片眉を上げて顎を撫でる。
「ほーん、ええな。気に入ったわ。騎手やる子はそんぐらいじゃなきゃあかん。ま、そのまま頑張ってや。今度は俺の出ないレースで派手に逃げてな」
高らかに笑い、右手をひらひらと振って小豆畑は去っていく。その背中に愛は、
「せっかくですからアドバイスのひとつくらいいただきたいですわ。逃げの名手の小豆畑さんに」
少し冗談めかして訊ねた。
「……んー、そうやなー」
振り向いた小豆畑は逡巡した後、
「びこーずいっつぜあー」
ともったいぶった口調で呪文のような言葉を発した。
「……なんですかそれ」
眉をひそめた愛だが、言いながらその言葉の意味に思い至った。
「『Because it's there』……ですか、もしかして。たしか海外の有名な登山家の言葉ですよね。日本だと『そこに山があるから』って訳されてる」
小豆畑は嬉しそうに声を上げた。
「おお、博識やな。そう。イギリスの登山家ジョージ・マロリーや。いい言葉やと思わんか。登山だけやない。競馬でもそう。難しい理由もアドバイスもいらん。結局、なにかを成し遂げるにはごちゃごちゃ考えたらあかんってことを教えてくれとる」
なるほど。
しかし、たしかそのジョージ何某はそんな哲学的な意味でその言葉を言ったのではなく、文字通りの意味以上のものではなかったらしいけれど。今ここでそれを指摘するのは野暮というものだろう。
それに、
「目の前のことに夢中で取り組んどったらいつの間にか頂上に辿り着いとる。人生そういうもんや」
そういう行き違いも悪くない。
そこに競馬があるから、私は今も騎手として走っている。この道が続く場所はまだわからないけれど、そんなことは歩みを止める理由にはならない。
「いい言葉ですね」
「おお、いつでも使ってええで。嬢ちゃんだけ特別や」
愛は呆れたようにはにかんで顔を上げた。
「ありがとうございます」
「ええってことよ。恩は売れるときに売っとかんとな」
小豆畑は可可と笑い、満足そうに頷いて人混みに消えた。
※
淀の上り坂。
駆け上がるスコーピオングラスに影が差した。鞍上の玲はその圧に振り向く。
パリスグリーン。
今レースの一番人気、牝馬三冠を狙うパリスグリーンが猛然と速度を上げた。後方集団にいた彼女はまたたく間にスコーピオングラスに並びかける。パリスグリーンの鞍上、ルピもまたここで勝負を掛けてきた。
スティレットはすでに坂を終えて四コーナーに消えた。文字通り、ここからその姿は見えない。
頂上を迎え、一転、四コーナー入口までの下り坂。
このままのスピードでいけば四コーナーで大きく膨れる。だが、一方でスティレットに追いつき、追い越すためには一切の猶予はない。このままのスピードで突入していいのか。先程固く誓ったはずの決心が揺らぐ。
その時、手綱がぐいっと強く引かれた。
まるで、ぼんやりしてないでもっと追えと言っているように。
再びあの日のロカの姿が頭によぎる。
「……大丈夫、びびってないよ。グラス」
ありがとう、ロカ。
スコーピオングラスは速度を上げ、パリスグリーンのすぐ後を追って第四コーナーへと駆け下りていく。
『第四コーナー抜けて、一頭駆けていくのはスティレット! 二十馬身ほどの差がありましょうか! 後方集団差を詰める! 三冠を目指すパリスグリーン、続いてスコーピオングラスが上がってきます!』
スタンド正面の直線に入り、大きくなる喚声。その中にスティレットと愛は飛び込んでいく。
その姿を眼下に、馬主席には異様な空気が漂っていた。それもそのはず、二三番手の馬が勝とうというならまだしも、十六番人気の伏兵、大穴が大差をつけて先頭を走っているのだ。パリスグリーンのオーナーブリーダーであり、愛の父でもある四王天嵩は腕を組み、黙してレースの行方を見守っている。
「行けっ!」
居ても立ってもいられない居られなくなったのは愛の双子の弟である勇だ。
眼下で逃げる愛の姿をその目に焼き付けようと、バルコニーの柵からその身を乗り出さんばかりに前のめりになる。そして、ここからではあまりにも小さいその姿に向かってあらん限りの声で叫んだ。
「行けっ、愛! お前ならできる! 勝てる、勝てるぞ! 逃げ切れる! 勝て! パリスグリーンなんかに負けるな!」
声は喚声に掻き消え届くはずもない。だが、その言葉に答えるようにスティレットと愛はただひたすら先頭を往く。
それを追ってパリスグリーン、スコーピオングラスが迫った。
『スティレットまだ粘っている! ゴールまで残り三〇〇メートルを切った! パリスグリーン、ここから三冠の栄光に手は届くのか!』
二番手パリスグリーンはまだ遥か後ろ。
強烈な末脚をもってしても、絶望的に差が開いている。
「勝てっ! 愛!」
勇は紅潮した顔で何度も叫び続けた。
スティレットは先頭を往く。
その視界の先にはどこまでも道が広がっていた。
あの取り残された桜花賞とは違う。今、前には誰もいない。なにもない。
『ゴールまであと僅か! パリスグリーン猛追! パリスグリーン猛追!』
近づいてくる馬蹄の音。振り向いてはいけない。
この景色から目を逸らすな。
この景色を見ることができるのは一番前を走る馬だけだから。
由比くん。青。少し遅れたけれど、必ず貴方達を追い抜いて私が一番の景色を見る。
だからまずは、今日。ここで勝ってみせるわ。
「絶対に……!」
『パリスグリーン猛追! スコーピオングラスも懸命に迫る!』
そこで実況アナウンサーは息を継いだ。
『――し、しかし、しかし……! スティレットには届かないっ! 今、ゴールイーンッ!!』
この日一番の喚声が京都競馬場の馬場に降り注ぐ。
『大波乱となりました! 二冠の女王パリスグリーンの喉元に刃を突き立てたのは、なんと十六番人気スティレット! 桜花賞での雪辱を晴らし、今日ここで見事な花を咲かせたのはスティレットです!』
秋空にハズレ馬券が舞う中、スティレットが最初にゴール板を通過した。
「勝ったー!」
両手を突き上げて隣の末崎が歓びを爆発させる。相変わらず喧しいやつだが、それはこの場面にいたってはまったく大袈裟なものではない。それほど見事な大逃げだった。
ひと頻り歓んだ後、末崎は新発田を振り向きざま、
「四本目ですね!」
唐突にそう言った。
「あ?」
四本目?
「ほら、桜花賞の時先輩が言ってたじゃないですか。三本の矢じゃなくて四本目の矢が本命だって。パリスグリーンでもスコーピオングラスでもワンセッションでもない、四本目。それがスティレットだったんですよ」
ああ。そんな話もしたかもしれない。しかし、あんな他愛もない話をよく覚えていたもんだ。
「……そうだな」
四本目の矢、か。
なるほど春に射られた矢は夏を越えてようやく届いたというわけだ。一度、いや何度となく折れても挑戦し続けてきた矢。折れないものが強者なのではない。何度折れても、目標へ向かって飛び続けることができるもの、それが強者なのだろう。
秋に大きく実った華。
まさに、彼女は秋華賞の名を冠するに相応しい。
「いい記事が書けそうだな」
新発田はスティレットの姿を見て頬を緩めた。
「四王天さん! よくやってくれた!」
「はい、やりました数原先生!」
検量室前で数原厩舎の面々と愛が歓びを分かち合う。そこへ、
「愛!」
「……勇?」
勇が息を切らして駆け寄ってきた。そして、勢いよく愛に抱きついた。
「おめでとう!」
「はあ!? ちょ、ちょっと! やめてよ、こんなところで! バカじゃないの!?」
愛は顔を真っ赤にして勇なんとか引き離そうとしたが、カメラマンはここぞとばかりに二人の姿をカメラに収める。勇は抵抗を受けながらも負けじと、
「いいじゃないか。こんなめでたいことはないんだから」
目を潤ませて言い張った。
「だからってなんであんたと抱き合わなきゃいけないのよ!」
「別に恥ずかしがることじゃないだろ」
「あんたね――」
「やめなさい。みっともない」
低く通る声。視線が声の主――四王天嵩に集まる。
「……お父さん」
勇がゆっくりと愛から離れる。
人垣が割れ、愛と父を繋ぐように自然と道ができた。
愛はゆっくりと父の方へ一歩前へ進んだ。辺りの人も固唾を呑んで二人を見守る。暫くの沈黙。
ようやく四王天嵩が口を開こうとした時、
「私、四王天ファームの娘で良かった」
それを遮って愛は言い切った。
四王天嵩は愛を見つめ、続く言葉を待つ。
「この名前のおかげで苦労することもなかったわけじゃないけど」
でも、と愛は言葉を区切る。揺らぐ父の目をまっすぐとした視線で捉えた。
「だからこそ、今私はここにこうして立ててると思うの。
――それに、ほら、馬も強くなれば斤量が重くなるものだから、これくらいのプレッシャーがあるのは当然でしょう?」
そう愛は照れ隠しにおどけて笑った。
「……ずいぶん気が早いんだな。まだ一勝しただけだろうに」
四王天嵩が口元を綻ばせる。
「四王天愛はこれからもっと勝つわ。お父さん、競馬界で『四王天』の名はそんな生半可なものじゃないのよ。知ってた?」
愛の言葉に小さく鼻を鳴らす。
「それは私が一番よく知っているよ」
「……それもそうね。――じゃあ、そろそろ行かないと」
愛が目線を切る。
「おめでとう、愛」
不意に投げかけられた言葉に愛は目を瞠き、慌てて振り向く。
父はすでにこちらに背を向け、それ以上なにも言わない。二人の間を人々が行き交い、喧騒にその姿が消えた。
下唇を強く噛む。目には涙が浮かび、溢れた一筋が頬を伝う。
「……うん」
愛は声を絞り出す。汗で湿った袖で涙を拭った。
次回は12月23日(火)更新予定です。




