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Girls, Run away!

 十月中旬。

 菊花賞の前週。秋華賞の日が訪れた。

 一頭、また一頭と馬が本馬場に入場する度に歓声が沸く。

 紫紺地に白文字のゼッケン。牡牝の三冠競走六レースにおいて唯一、黄文字ではなく白文字の綴られるゼッケン。空の青に、雲の白。今日の晴れ渡る秋空を象徴するようなその色に、思わず空を見上げる。

 たなびく雲が風に揺れた。

『今日ここで桜花賞の雪辱を。七番スティレット。四百六十キロ。マイナス二キロ。四王天愛、五十五キロ』

 場内アナウンスと時を同じくしてスティレットが本馬場に入る。

 厩務員が引き綱を外すと、スティレットは頸を何度か上下させたあと軽やかに駆け出した。駈歩(かけあし)の速さを徐々に上げ芝の具合を確かめる。文句無しの良馬場。歩調に合わせ、吹き付ける風が強くなる。

 四枠七番での出走。鮮やかな黄色の帽子はさながら黄葉を思わせる。愛は左手に壁のように聳えるスタンドを見やった。

 十八頭中十六番人気。

 私達を見つめる詰めかけた観衆の目に宿るのは期待ではなく、好奇だろう。だが、やっとのことで帰ってきたこの舞台、賑やかしで終わるつもりは毛頭ない。

 桜花賞のような走りは、二度としない。


 

 ゲートに十八頭が揃う。

 正装に身を包んだスターターが右手を掲げる。秋風に手元の旗がはためく。牝馬三冠レースの最後、秋華賞。

 そのゲートが、開いた。

『今――スタートしました! 全馬揃ったスタートになります! 牝馬三冠最後のレース秋華賞、その女王の座を掴むのはどの馬になるでしょうか』

 暫く横並びだった十八頭から一頭が抜け出す。

 その馬は、

『抜け出したのは()()()()()()。桜花賞のリベンジと言わんばかりに先頭を往きます』

「……スティレット……!?」

 隣の末崎が怪訝に顔を上げ身を乗り出した。

 スティレットはずんずんと進み、後続とは大きく離れる。七馬身、八馬身……止まらない。大逃げ――いや、これでは桜花賞の暴走の再現だ。

「大丈夫ですか、あれ」

 スティレットはあの桜花賞以来、出走した三レースはすべて先行策。陣営も競馬を教え直すために徹底して逃げをさせず、我慢を覚えさせたはずだ。その苦労が水泡に帰しかねない。

 新発田はスティレット、そしてその鞍上である愛を見つめる。

 同期の由比一駿や日鷹青の活躍にばかり目がいきがちだが、彼女は下級条件でもG2、G3といった重賞戦でも新人離れした結果を残し、重賞初勝利も一年目のうちに飾っている。もし卒業が一年早かったり遅かったりしたら文句無しの一番手であっただろうことは想像に難くない。だがG1――桜花賞然り、大舞台では幼さが出るということなのか。

 ――さもありなん。

 それほど異質な戦場。それが頂点の馬を決する戦いG1なのだ。老いも若きも欲も出れば、ミスもする。

「……ダメかもな」

 そう呟き、新発田は早くも第一コーナーに入ったスティレットの後ろ姿を見送った。

「いや」

 末崎が柵を握る手に力を込める。

「きっと大丈夫です」

 なにを根拠に言い切るのかと呆れたが、自分の言い分も似たようなものだと思い、言葉を呑み込んだ。レースはまだ始まったばかりだ。

 第二コーナーを回り、スティレットが向正面へと入っていく。


 

 スティレットが大きく集団を離して先頭。ぽつりぽつりと四五頭の小島が連なるが、その島の間隔は二馬身と離れない。

 中程の小島でスコーピオングラスと玲は息を潜める。

 桜花賞三着。オークス二着。

 二冠馬パリスグリーンの好敵手として真っ先に挙げられる馬。それがスコーピオングラスだ。

 春にはパリスグリーンに阻まれ届かなかった栄光。秋への巻き返しを誓った初戦の紫苑ステークスで、しかしスコーピオングラスは十一着とまさかの大敗を喫した。二冠牝馬パリスグリーンの急先鋒として期待されていた彼女にとっては出鼻を挫かれた形になり、その結果にファンたちは鼻白んだ。それよりなによりその結果に青褪めたのはスコーピオングラス陣営だった。

 三歳は競走馬にとってまだ成長期。身体も心もまだ発展途上にあたる。人と同じように成長の段階は様々だ。夏を越えて伸びる馬もいれば、ここで歩みを止める馬もいる。

 刀坂(とうさか)(あきら)は眼下のスコーピオングラスに目を移した。

 ――君もここで終わってしまうのかい?

 その背中にロキの姿を重ねる。

 ロキ。昨年の桜花賞をともに勝ち取った盟友。しかし、彼女もまた桜花賞のあとは精彩を欠いた。

 桜花賞の冠を引っ提げて意気揚々と挑んだ三歳限定の牡牝混合マイルG1・NHKマイルカップではまったく良いところなしの大敗。短い休養を経て、夏には短距離・マイル路線に進んだが、掲示板にも載らず、徐々に母譲りの気性の悪さが出てきた。そして、この春ついには放牧中に故障を発生し、引退。繁殖入りとなった。

 私はロキを導くことができなかった。あそこで終わるような馬ではなかったのに。

 一度目を閉じ、纏わりつく影を振り払う。再び目を瞠くと、スコーピオングラスのよく手入れされた鬣が風に靡いていた。

 スコーピオングラスは操縦性の高い素直な馬だ。だが紫苑ステークスではいくら押しても進まなかった。レース後検査を受けたが身体に異常は見られず原因は分からない。

 ――精神的なものが原因かもしれんね。

 そう呟いた獣医の言葉が耳にこびりつく。

 レースは辛く過酷なものだ。競走馬は一レース一レース文字通り命を削って走っている。だから厩舎スタッフは肉体的にも精神的にも十二分なケアを行い、万全の状態でレースを走ってもらえるように日々尽力している。

 一度レースを嫌になった馬、走らなくなった馬を再び走らせることは容易ではないからだ。

 一〇〇〇メートルを通過する。

『一〇〇〇メートル通過。タイムは――六十秒一』

 スタンドがどよめく。目の前で繰り広げられるレースと告げられたタイムの齟齬に。そして、少し遅れて玲もまた異変に気付いた。背中に冷たいものが走る。

 ――()()

 先頭を往くスティレットは遠く遥か。あれだけの大逃げをしているのなら当然ハイペースになる筈だ。だが、そうはなっていない。このペース、大逃げしているにも関わらずスティレットはしっかり息を入れることができている。

 つまり――最後までスタミナが切れることはない。そしてそれは、控えている十七頭が最後の直線だけでこの差を埋めることができないことを意味している。

 桜花賞でのあの暴走があって、その光景が焼き付いている騎手たちは揃って控えた。当然だ。実際桜花賞でスティレットは惨敗を喫した。逃げ馬に惑わされペースを乱してしまっては勝てるレースも勝てなくなる。

 今回はスティレットの暴走が偶然いい方向に嵌っているだけ――、

「……まさか」

 玲が愛を睨みつけるように見やる。

 偶然――本当にそうだろうか。

 この暴走に見えた大逃げも、それに見合わぬスローペースも、()()()()()()()()()()()()()()()()

 残されたのは半分。早く捲っていかなければ追いつけなくなる。だが、第三コーナー。ここで待ち構えるのは――淀の坂だ。

 平坦と言っていい京都競馬場において唯一高低差のある場所、それが第三コーナーに聳える淀の坂だ。一〇〇〇メートル付近で上り始め、六〇〇メートル付近で下り切る。古くから「淀の坂はゆっくり上り、ゆっくり下る」と言われるように、京都競馬場を語るうえで外すことのできない名所であり難所だ。

 だが近年はその格言に反して、下りの勢いを使ってスパートをかける馬も増えている。が、速度が上がれば第四コーナーにかけての遠心力がきつくなるのは勿論のこと、そこでスパートを切れば息を入れるタイミングを逸すことになる。高低差四・三メートルの上り下りを終えてもまだ残り六〇〇メートル、息を入れずに最後まで脚が持つだろうか。できる馬がいるからといって、それはすべての馬ができることを意味しない。

 ――手遅れ。

 辺りの馬蹄の轟きを掻き消すように、心臓が脈打つ。それを更に掻き消すように大きく息を吐きだした。

「……迷う必要ないか」

 そう、なにも迷う必要はない。 

 このまま乗っても掲示板、複勝圏内には残るかもしれない。しかし、それではここに来た意味がない。

 一位以外は同じだ。

 私は――刀坂玲は――騎手として、スコーピオングラスを勝たせるために京都に来たのだから。賞金ではなく、一生に一度の栄誉を勝ち取りに来たのだから。

「行こう」

 君ならできる。歩みを止めるのは少し早いよ。

 玲は鞭を入れた。

  

 

『スティレット、淀の坂を越えていまだ一人旅! 後続は遥か後ろです! こ、これは大番狂わせが待っているかもしれません!』

 愛はスティレットの首筋に埋もれるようにしがみつき、ただ前だけを見る。スタンドが近付き、喚声が大きくなる。

 桜花賞のような走りは二度としない。

 後ろは振り向かない。絶対に、逃げ切ってみせる。

次回は12月16日(火)更新予定です。

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