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空白の鞍上

「俺がトルバドゥールにですか?」

 口をついた言葉が僅かに裏返る。

 からかっているのか?

 猿江は半信半疑で目の前に立つ土気色の顔をした男を見た。調教終えてからの急な厩舎への呼び出し。誰か隠れてこちらの反応を楽しんでいるのではないかと思わず辺りを見回す。

 男――トルバドゥールを管理する妻鹿(めが)調教師――が力なく頷いた。

 妻鹿の経歴はじつに華やかだ。二十代で難関の調教師試験に合格。その後、技術調教師として名だたる調教師の下で学び、三十四歳の若さで自らの厩舎を開業した。それから僅か四年。管理馬であるトルバドゥールで菊花賞を勝利し、調教師として初のG1タイトルを獲得した。

 まさにトントン拍子。これ以上ないほどの順風満帆。誰もが羨むホースマン人生に、最初は我が世の春とばかりに歓んでいた妻鹿もしかし、一勝、また一勝とトルバドゥールがG1の勝利を重ねていく毎にその顔からは笑顔が消えていった。

 史上最強と持て囃される馬を預かり、単勝オッズは今年に入ってから一・一倍を下回らず、最早負けなど許される雰囲気ではない。心労が祟ったのか、髪には白髪が目立ち、女好きのするその容姿はいまや見る影もなく、実年齢からひと回りは老けて見えるほどだ。

 妻鹿は視線を落としたままもう一度頭を下げる。

「頼む。とりあえずは天皇賞だけになるが」

「……なんで岸さんを下ろすんですか? ここまでトルバドゥールに乗って負けなしですよね。他の馬の騎乗だって特段手落ちはないし、制裁も受けてないのに」

 妻鹿の落ち窪んだ目が翳の中でかっと光り、猿江に食ってかかった。

「下ろしたんじゃない。()()()()()

 言葉遊びのようなその返答に猿江は一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐにその言葉の意味に気付き、今度は耳を疑った。

「下りた……? 下ろしたんじゃなくて……? じゃ、じゃあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ってことですか? そんな」

 そんな馬鹿な。ありえない。あれほどの馬から下りる? それも、自分から申し出て? あまりのことに猿江は絶句した。

「……な、なんで下りるんですか?」

 冗談だと言ってくれとばかりに猿江は妻鹿に訊ねる。妻鹿は眉間に寄った皺を一層深め、少し口籠った後に観念したようにこう言った。

「府中だからだ」

「え?」

「次のレース、秋の天皇賞の舞台が府中だから乗らないと言ってきた」

 府中――東京競馬場の所在地であり、淀が京都競馬場、仁川が阪神競馬場を指すように、東京競馬場そのものを指すときにも用いられる。だが――

「そんなことで……? ……もしかして()()()は本当だったんですか?」

 妻鹿は苦々しく口を真一文字に結ぶ。

 あの噂――岸が東京競馬場での騎乗依頼をすべて断っている、という噂だ。実際、岸はある時期を境にしてここ数年東京競馬場では一切騎乗していない。しかし、どんな信条、理由があれ、トルバドゥールほどの馬の騎乗依頼すら断るとはとても正気の沙汰ではない。

 そもそも天皇賞(秋)の優勝賞金は三億円。優勝騎手はその五パーセント――千五百万円もの大金を一夜に得ることができるのである。そして、それよりもなによりも、トルバドゥールという史上最強といってもいい馬に乗る名誉、それをあっさりと放棄するなど猿江にとってみれば信じられなかった。

 困惑の表情を浮かべる猿江を見て、妻鹿は皮肉に口を歪める。

「なんで岸を説得しなかったんだ、とでも言いたげな顔だな? したよ。当然。宝塚が終わった六月からずっとね。当たり前だ。俺だけじゃない。関係者総出で、だ。――だが結局、岸は首を縦に振らなかった」

 ――僕は府中では乗りません。

 こちらがなにを言おうが、岸はそう繰り返すばかりだった。そう言って、妻鹿は項垂れた。

「もうタイムリミットだ。いや、タイムオーバーか。他の有力騎手はとっくに取られて埋まっちまった」

「それで俺に白羽の矢が立ったってわけですか」

 天皇賞(秋)で乗り馬がいない俺に。仕方なく。

「今頼める騎手ではお前が最善だ。乗ってくれるならある程度の我儘は聞こう」

 猿江は少し考えた後、だったら、と切り出した。

「今回乗ったらそれ以降も俺をトルバドゥールに乗せてもらえますか?」

「……それは約束できない」

「東京競馬場で乗れないなら天皇賞の次、ジャパンカップにも乗れないはずですよね。ここで結果を出せたら考えてくれませんか?」

「今回お前に頼むのは天皇賞の騎乗だけだ」

 妻鹿はあらためて強調した。

「……ジャパンカップにはまた別の当てでもあるんですか? たとえば、――俺よりも上手い騎手の当てとか」

「今お前がそれを知る必要はない。天皇賞で乗ってくれるのか、くれないのか。その答えだけを聞かせてくれ」

 そう言って妻鹿は黙り込む。もうこれ以上はなにも答えるつもりはない、というようにむっつりと口を噤んだ。厩舎にはただ沈黙が流れる。

 どれだけ時間が経っただろうか。その沈黙を破ったのは猿江だった。

「わかりました。トルバドゥールに乗せてもらいます」

 妻鹿が肩の荷が下りたようにほっと息を吐く。

「……ありがとう。助かる」

 そして、よろしく頼むよ、と右手を差し出した。すると、猿江はその手を殊更強く握り、

「ここで勝って、ジャパンカップでも俺を乗せたいと思わせてみせますよ。必ず」

 低い声でそう言って、妻鹿を力強い目で刺した。妻鹿は苦痛に表情を歪め、猿江を睨め上げる。

「……レース後に気持ちが変わらないといいね」

 妻鹿は意味深に呟き、皮肉に片頬を歪めた。

 


 菊花賞と天皇賞(秋)の趨勢が日に日に定まっていくなかで、もうひとつの大きなレースにも人々の静かな注目が集まっていた。

 秋華(しゅうか)賞。

 桜花賞、オークスと並ぶ牝馬三冠競走最後の一冠だ。創設は一九九六年。それまで三歳牝馬限定競走であったエリザベス女王杯が古馬に解放されるにあたって新設された比較的歴史の浅いレースだ。故にクラシック競走ではない。舞台は京都競馬場右回り二〇〇〇メートル。

 そして、今回の秋華賞には史上九頭目となる牝馬三冠を狙う馬がいる。

「パリスグリーンは流石の仕上がりでしたね」

 末崎はこめかみにボールペンの尻を押し当てて、手元のメモに視線を落としている。

「ああ、そうだな」

 十月初旬。午前中にパリスグリーンは秋華賞の一週前追い切り終えた。茨城県にある美浦トレーニングセンターに詰めかけたトラックマン、報道陣の前で抜群の時計を叩き出し、誰もが三冠牝馬の誕生を確信していた。

 新発田は腕時計に目を走らせる。秋華賞に向けた美浦トレセンの合同会見まであと三十分余り。会見場までの道すがら、自然と人々の話題はパリスグリーンのことになる。

「見出しはなにがいいかな? パリスが派手に勝ってくれるといいんだけどさあ。三冠とってもしょっぱいレースなんてごめんだぜ」

「違いない」

 少し離れたところで談笑する記者たちがそう言って笑うのが聞こえた。末崎はそちらを見て眉をひそめる。

「気が早くないですか? まだ勝てるかなんてわかんないのに」

「……まあ気持ちはわからんでもないけどな」

「え?」

「確率の話だ。三冠目が秋華賞になって以降、桜花賞、オークスを勝って秋華賞に挑戦した二冠馬は八頭いた。そのなかで負けた馬は二頭だけだ。つまり勝率は驚異の七十五パーセント。二冠で菊花賞を迎えた牡馬よりも圧倒的に勝ってる。その負けた二頭も馬券圏内の惜敗だったしな。そりゃ、ああいうことを言いたくもなる」

 目を開いて驚く末崎に、なにもおかしな話じゃない、と新発田が続けた。

「牡馬の三冠レースが二〇〇〇、二四〇〇、三〇〇〇と距離がどんどん延長していくのに対し、牝馬の三冠レースは一六〇〇、二四〇〇ときてまた二〇〇〇と短くなる。府中の二四〇〇を勝った馬が淀の三千メートルを走るスタミナを持ってるか、っていうのは未知数だ――だからこそ天皇賞(秋)に向かう馬がいるともいえる――が、阪神一六〇〇を勝てるスピードと府中二四〇〇を走れるスタミナを持った馬が京都二〇〇〇を勝てない道理がないってだけだ」

「たしかに……そうですね」

「牡馬三冠の格言に倣うなら、桜花賞が『最速(fastest)』の馬を、オークスが『最強(strongest)』の馬を決め、秋華賞が総合力の高い『最良(best)』の馬を決める戦い、とでも言えばいいかな。だから秋華賞の栄光に一番近い馬は今現在最も完成されているパリスグリーンであるのは疑う余地がない」

 末崎は唸りながら腕を組む。

「春のライバル――パリスグリーンと共に三本の矢と呼ばれたワンセッションは夏から本格的に短距離に路線を変えて、残ったスコーピオングラスは秋の初戦になった紫苑ステークスでまさかの大敗。三本の矢は夏を越えたいまや見る影もない、か」

「まあ、ワンセッションのほうは古馬や牡馬を相手にスプリンターズステークスを勝ったんだからよくやりすぎてるくらいだけどな。だが」

 だからこそこのレース、どこか盛り上がりに欠けるのかもしれない。秋華賞の舞台、観客が無意識に求めているのは、三冠を阻止するかもしれないライバル、その出現にほかならない。

「数原先生、急いでください! 遅れますよ!」

「ちょっと……待ってよ……!」

 聞き覚えのある声に後ろを振り返ると、

「四王天騎手ですね」

 末崎が目を眇めて言った。その姿のさらに奥で丸々としたシルエット――数原調教師――が息を切らせて走っている。まあ、歩くのと変わらないのではないかという速度であったが。

「そういえば秋華賞で乗るんだったな。たしか――」

「スティレットですよ。スティレット。桜花賞で大逃げした」

 大逃げした、とは聞こえがいいが、あれはただの暴走だ。しかし、馬も騎手もあそこからよく持ち直したものだ。

 スティレットは桜花賞の後、ローカルの条件戦をいくつか走って賞金を積み重ね、秋華賞には収得賞金のボーダーをクリアして出走の権利を得た。厳しい夏を戦い春よりも強くなったのだろう。――が、そうはいっても現状十把一絡げの馬であることに変わりない。

 スティレットが強くなったように、他の三歳馬たちも強くなったのだから。いわんやパリスグリーンをや、だ。

 そんなことを考えているうちに二人が脇を通り過ぎる。

 去りゆく背中を見て、歩く速度を少し上げた。

次回は12月9日(火)更新予定です。

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