秋高くして塞馬肥ゆ
秋の始まりは電撃が告げる。
中山競馬場はスプリンターズステークスに大挙した観客で揺れた。距離は千二百メートル。九十秒にも満たない電撃戦。だが、それはG1を待ち焦がれた観客の脳髄を貫き、脳みそを痺れさせるには十分だった。
秋のG1戦線。ワンセッションでその最初の勝利を飾った成海竜児がお立ち台に立つ。インタビューをひと通り終えたあと、成海は辺りをぐるっと見渡した。右手の人差し指を天に伸ばす。
「待たせたなお前ら。忘れられねえ、秋にしてやるよ」
満員の中山競馬場。これ以上大きくならないだろうと思われた喚声がまた一段と大きくなった。
ここまで順調に歩みを進めた三歳中距離牡馬の進む道は秋に大きく二つに分かれる。
一つは京都競馬場で行われるクラシックの最終戦・菊花賞。菊花賞は三歳馬限定の世代戦であり、三千メートルの長距離戦である。もう一つは東京競馬場で行われる秋の天皇賞。こちらは古馬混合戦であり、二千メートルの中距離戦だ。
二〇〇〇年代に入った辺りまでは古馬との戦いということもあり、天皇賞(秋)へと進む馬もまだ限られ、三歳馬の勝ち馬自体が珍しかった。だが、調教技術の進化や馬の早熟化、そして世界的に長距離戦よりも中距離戦を重視する傾向になったことで菊花賞を回避して参戦する三歳馬も今では少なくない。クラシック三冠がかかっていなければ、皐月賞馬、ダービー馬が出走しないこともざらだ。事実、昨年三冠をかけて臨んだデザートストームの出走は、ダービー馬としては二年ぶり、皐月賞馬としては実に四年ぶりであった。
かつて「最も強い馬」を決する戦いであった菊花賞は、時代のうつろいと共にその姿を変えようとしている。
ダービー馬のアマクニが早々に天皇賞(秋)への出走を発表した今、必然ダービーの栄冠を逃した皐月賞馬アレクサンダーの動向に注目が集まっていた。
「やっぱり秋天じゃないですか?」
会社からほど近い馴染みの蕎麦屋。向かいに座る末崎が夏季限定の特製冷かけ蕎麦をずずっと啜りながら言った。スプリングステークス明けの週、九月も終わるというのに今日も都内は三十度超え。夏季限定メニューの張り紙も未だ健在だ。
「なんでそう思う?」
鴨せいろのつけ汁から湯気が立つ。好物の鴨南蛮にしようか迷ったが、冷房が効いているとはいえ、かけ蕎麦には手が出なかった。顎に手を当て考えこむ末崎から視線を外し、汗をかいたコップから水を飲む。
コップを置くとそれを待っていたように、それはですね、と末崎が切り出した。
「時代ですよ時代。強い馬がわざわざ長距離を走る時代じゃなくなったんですよ。欧州じゃ随分前からマイルから|インターミディエイト《INTERMEDIATE》の距離が主流ですからね」
「……SMILE区分か。少しは勉強してるみたいだな」
末崎は得意気に鼻の穴を膨らませる。
SMILE区分。競馬における国際的な距離区分のひとつで、SPRINT(千から千三百メートル)、MILE(千三百一から千八百九十九メートル)、INTERMEDIATE(千九百メートルから二千百メートル)、LONG(二千百一から二千七百メートル)、EXTENDED(二千七百一メートル以上)の頭文字をとってそう呼ばれている。
近年、競馬の高速化によってロング以上のレースは忌避され、その距離区分のレースに勝利しても種牡馬価値が上がらず、欧州においては障害競走用の種牡馬に回されてしまう。それはダービーなどに代表されるクラシックディスタンスと呼ばれる二千四百メートルのレースの勝ち馬も同様だ。スピードとスタミナを併せ持った中距離馬。その王者を決めるチャンピオンディスタンスは今や二千四百メートルではなく二千メートルとされている。
「で、先輩はどっちだと思います? アレクサンダーは菊か秋天か」
「俺は菊花賞に出て欲しいけどな。なんだかんだ言っても競馬で面白いのはやっぱり長距離だよ」
「ふーん。まあ、それは否定しませんけどね。面白いかどうかでアレクサンダー陣営はレースを選ばないでしょう? 今更菊花賞を狙う価値ありますかね。だったら三歳で秋天を取るほうがよっぽど――」
「たしかに三歳秋に古馬を相手にして天皇賞を勝つ馬は希少だな。勝てればな。まさか忘れてるわけじゃないだろ?」
「……あっ」
末崎は間の抜けた声を出して蕎麦を持ち上げる手を止めた。そして、
「トルバドゥールかあ……」
溜息を吐き出すようにその馬の名前を出した。手を再び動かし、力なく蕎麦を啜る。
史上初となる春古馬三冠を達成したトルバドゥールは、秋は、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の秋古馬三冠ローテを走ることを大々的に掲げていた。もちろん目指すは史上初の古馬王道路線六レースの完全制覇、グランドスラムだ。天皇賞(秋)を走るということは、必然トルバドゥールと戦うことを意味していた。
アレクサンダーは世代では抜けた強さを持つ馬であるが、三歳秋の今戦うには些か荷が重いだろう。
「じゃあ菊花賞ですかねえ」
末崎は視線を落とし、いたずらに器の中で箸を回す。
「さあな。アマクニは距離適性もあって秋天に出るし、アレクサンダーもトルバドゥールなんか構わず出てくるかもしれん。それはわからん。まあ」
どっちに転んでも面白くなりそうだ。
そう言って新発田は蕎麦を啜る。いらっしゃいませえ、と昼時の店内に威勢のいい声が響いた。
同日、夜。
「由比先生はどちらがいいと思う?」
兵主はのんびりした調子で杯を傾ける。
神戸にある小料理屋。奥にある座敷の部屋で兵主と由比父子が顔を突き合わせていた。兵主はこの間のコンサートの時とは打って代わりラフな服装。大きめの黒縁眼鏡の奥に見える眼が鋭く光っている。由比調教師が逡巡してから言葉を発した。
「……菊花賞ですかね」
「それはどうして?」
「これから言うことを悪い意味で受け取って欲しくはないですし、気を悪くしないで欲しいんですが」
「もちろんだよ。僕と君の仲じゃないか」
兵主は鷹揚に頷く。由比は苦々しく続けた。
「……天皇賞にはトルバドゥールが出るからです」
「なるほど。アレクサンダーはトルバドゥールには勝てないというわけかな」
「それは――」
兵主は首を振って笑う。
「悪い悪い。意地の悪いことを言った。君の言う通りだね。アレクサンダーは強い。だがまだ三歳のひよっこなのもまた事実。トルバドゥールと相見えるのは今じゃない。物事には順序があると、そういうことだ。
――じゃあ君はどっちがいいと思う? 秋の天皇賞か、菊花賞か」
兵主はもう一人の由比、騎手の由比一駿のほうに視線を向ける。由比はその視線をまっすぐに受け背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「菊花賞です」
「……なるほど。親子で同じ答えというわけか。わかった。ここはプロの意見に従おう。次走は菊花賞で――」
「でも父とは理由が違います」
兵主がぴくりと眉を動かす。
「……ほう」
「一駿」
咎めるように口を挟んだ由比調教師を兵主が手で制した。
「まあ、訊こうじゃないか」
兵主は小さくにやりと笑う。どう違うんだい、と先を促した。
「ダービーは僕の騎乗が未熟だから負けました。アレクサンダーは本当は三冠馬になれた馬です。だから、菊花賞に勝ってそれを証明させて欲しいんです」
「……なるほど。勝てないから菊花賞を走るというよりは随分前向きな理由だ。それに、菊花賞は今年の三歳世代最後の世代限定戦。最後の砦として立ちはだかる強者がいなきゃ他の馬たちは張り合いがないかもね。でも」
兵主はそこで言葉を切る。
「ダービーで勝たせることができなかった君が、はたして菊花賞を勝たせることができるのかい?」
緩和していた空気が再び張り詰めた。由比調教師が横目で息子の様子を窺う。由比は躊躇うことなく、はい、と力強く頷いた。
「ようやくアレクサンダーの音が掴めてきました。負けません」
「……音?」
由比調教師が怪訝に眉を寄せた。暫し由比を見つめた後、兵主は哄笑する。呆然と見つめる由比調教師をよそに、一頻り笑った後、兵主は満足そうに顎を撫でた。そして、
「じゃあ、決まりだ」
とひとつ手を叩く。
「アレクサンダーの次走は菊花賞。圧倒してもらおうじゃないか、世代の王者として。さあ、景気づけの一杯といこう」
兵主は杯を高々と掲げる。なみなみと注がれた清酒が淡い照明を受けて光った。
「次は天皇賞だってよ、クラッシュ」
青がクラッシュオンユーに相対して言った。
昼下がりの栗東トレーニングセンター。先週久しぶりに北海道から帰ってきたクラッシュオンユーは馬房でのんびりと寛いでいる。
青の声に一度は顔を向けたが、その声の主がわかると、やれやれまたお前か、とでも言わんばかりにそっぽを向いた。パタパタと尻尾が揺れる。
「あんたのその脚を生かせる東京競馬場を走らせたいって」
青は構わず続けた。
五百二十五メートルという主要四場で一番長い直線を持つ東京競馬場。競走馬が最高速度が出るのはもちろん直線だ。追い込みを得意とし、爆発的な末脚を持つクラッシュオンユーにとっては絶好の舞台といえるだろう。そして、日本ダービーを走ることのできなかったクラッシュオンユーにとっては未踏の地でもあった。
東京競馬場での結果如何で将来的なローテーションの組み方も変わってくるだろう。早いうちに試しておくに越したことはなかった。
「出てくるのはアマクニ、マリアブレス、そして、――トルバドゥール。強い馬ばっかりだ」
クラッシュオンユーが振り返る。ゆっくりと柵の方へ近づいてくる。どこまでも深い黒色の瞳が青を射抜いた。
だから、と青は力強く言った。
「だから、勝とう。こんなもんじゃないもんね、クラッシュの強さは」
頸を差し出したクラッシュオンユーの頬を撫でる。満更でもなさそうに鼻を鳴らした。
「そりゃあ本当かよ!」
突然の大声に思わず手を引っ込める。
「なに?」
野太い声のした方に顔を出すと、記者風の男がなにやら電話で話し込んでいた。よほど興奮しているのか、辺りのことなど構わず男は話を続ける。
「間違いないんだろうな。岸が天皇賞でトルバドゥールに乗らないってのは」
「はあ!?」
思わず声が出る。男が青に気づき、罰が悪そうに口元を手で覆った。携帯を切って、どこかへ去っていく。
しかし、男の行方など青にとってどうでもよかった。
――岸が秋の天皇賞で乗らない?
岸は菊花賞からトルバドゥールの主戦騎手を務めている。ここまでのG1五連勝の功績は馬の力だけでなく岸の力も多分にあるだろう。それにも関わらずなぜ次のレースで、ここにきてグランドスラムを狙うトルバドゥールから下りるのか。
「……どうなってんの?」
青は呆然と呟くことしかできなかった。
次回は12月2日(火)更新予定です。




