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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第五章 夏、少女は駆け巡る
83/92

五月蝿い

 耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。

 第三コーナーから先頭に変わったタンブルウィードの首筋に愛はしがみつく。

 今年六歳のタンブルウィードにとって抽選の末にようやく掴み取った重賞の舞台。逃げて逃げて逃げて逃げ続けて二十五戦。積み重ねた勝利は三勝。同期の馬たちが次々と引退していくなかで、大きな怪我もなく走り続けてきた。

 何人もの騎手を乗せてきた背中に、今日私が乗ったのは偶然だろうか必然だろうか。

 競馬において〈逃げ〉は有利な戦法だとされている。

 だが、時にそれはなかなか勝てなかった馬を勝たせてくれる特効薬になりうる一方で、時にその身体をその精神を蝕む猛毒になる。甘美な毒は馬や騎手を狂わせ、いつしか取り繕った外面を熔かし否が応でも騎手の実力を骨の髄まで浮き彫りにさせる。スティレットと走ったあの桜花賞のように。

 ひとつひとつのレースで経験を積み重ねてきても、私にはまだまだ足りないものばかりだ。

「そろそろきついんちゃうかー? 交代したるで」

 愛のすぐ後ろにぴったりとくっついたビッグフォールの背中の上から小豆畑が煽る。愛はそれを無視して淡々とペースを刻んだ。

 一度張り詰めた緊張の糸が切れてしまえば、タンブルウィードはたちまちペースを乱し暴走してしまうだろう。スタミナと馬の気力が持つ限界ぎりぎり。そこを見極め保てなければ勝機はない。

 針の穴を通すようなことだ。だが、不可能なことではない。だったらやる価値はある。いや、やる価値しかない。

 私は、強くならなければいけないのだから。

 弱音を吐く暇などない。

 先頭、タンブルウィードは第四コーナーに入った。

 

 

 クラッシュオンユーが一頭、また一頭と抜いていく。

 春とはまた違ったリズムで。より雄大なリズムで。 

  皐月賞での追突による落鉄。復帰してからの調教での違和感。調教に乗り、その映像を何度も繰り返し見ることでようやくひとつに繋がった。

 今思えばあの追突はクラッシュオンユーが次の段階へと進むことを告げる福音だったといえるだろう。

 あの追突は完歩が伸びたことによるものだった。

 完歩は馬の歩幅。馬を含め四足動物は四つの脚を使って走るが、その四つの脚が一順するまでを一として数える。ピッチ走法、ストライド走法など馬の走り方でその歩幅は違ってくるが、一流の馬の一完歩はおよそ七メートルといわれている。

 完歩が大きくなれば、同じ距離でも必要な完歩の数が少なくなる。つまり、理論上速く走れるというわけだ。

 馬の推進力は()()――腰部、臀部、後肢の総称――の筋肉によって生み出される。腰部と臀部で後肢を持ち上げ、そこから振り下ろされて地面を蹴り上げる力が推進力に変わるのだ。そしてその力は、振り下げる速度が速いほどに、振り上げる高さが高いほどに大きくなる。

 クラッシュオンユーは後肢で自らの耳裏を掻けるほどの柔軟性を持った馬だ。大きな可動域は大きな力を生む。それが彼のストライド走法の要でもあった。

 皐月賞から長い休養に入ったことで、この札幌記念までじっくりと調教をつけることができ、ひと夏を超えたクラッシュオンユーの馬体はより力強さを得た。一方で、彼の持つ天性の柔軟性が喪われることはなかった。それが結実した姿が今だ。

 クラッシュオンユーは強くなっている。

 父であるノッキンオンハートに負けないくらいに。もう少しで追い抜けるくらいに。

 私は、あの日観客席から彼に見た夢の続きを、今君の背中で見ている。

 クラッシュオンユーがまた一頭追い抜いた。

 第四コーナーが、もうすぐ終わる。 



 周りの馬たちが俄に速度を上げる。

 リアルビューティもまた速度を上げた。その滑らかな加速ひとつとっても彼女の能力の高さが窺える。

『さあ、第四コーナー回りまして最後の直線に入ります。先頭逃げますタンブルウィード。ビッグフォールが続く――』

 目標は少し先を往く那須のエンシエロ。

 二頭の逃げ馬が作ったこのハイペースで前につけた馬は最後の直線に残しておくべき余力が削がれている。元々揃った面子で見てもリアルビューティは頭ひとつ抜けていた。それが展開の利まで受ければ負けはないに等しい。

 この札幌記念の勝利を手に秋へと向かう。アレクサンダーに相応しい騎手として。

 その時、外側を黒い影が横切った。

『――馬群の外、捲って上がってきたのはクラッシュオンユー! みるみる速度を上げます』 

 クラッシュオンユー。

 そして――日鷹青。

 君はいつも立ち塞がる。由比がリアルビューティに鞭を入れた。

『さあ、リアルビューティ! ここで主役の登場とばかりに駆け上がります』 

 勝負の世界で現状に満足することは死を意味する。

 その世界で溺れないように彼らはどうにか足掻き続ける。その歩みはさまざまだ。足し算のように着実に努力を積み重ねていく者もいれば、掛け算のように飛躍的に伸びていく者もいる。

 しかし――

『タンブルウィード、ビッグフォール失速! 代わって先頭に立ったのは昨年の覇者エンシエロ』

 ――足したり掛けたり増やしていくことだけが成長ではない。引き算のように減らし、余分なものを削ぎ落とすこともまた成長である。

 由比は一瞬目を閉じ、暗闇に耳を澄ませる。

 熱狂するスタンド。十六頭が紡ぎ出す呼吸、蹄音。騎手の声、鞭がしなる音。掠れた実況。止め処ない音の群れ。

「……五月蝿(うるさ)い」

 どうしようもないほどに。

 ――耳を傾ける。

 あの日、兵主の言った言葉。それは、レースにおけるすべての音を聴けという意味だと思っていた。だが、いくらレースを重ねても彼が掴んでいるであろう感覚に辿り着けなかった。

 実力が足りないのか。それとも、――()()()()()()()()()()()

 そして、兵主の言葉を何度となく思い返した。

 ――耳を傾けるんだ。

 ――騎手にとっての馬は楽譜かな。

 ――オーケストラは鞭や手綱や鐙であり、己の手足――つまり肉体に近いもの。

 馬は楽譜。オーケストラは馬具であり、肉体。

 では、他の馬はどうだ。他の騎手は。レースを見守るスタンドの観客は。記者は。関係者は。それらは〈なに〉になるのか。

 オーケストラの奏でる音楽、それを引き立てるために必要なもの。それは――静寂だ。

 あの静寂の中でこそ、音楽はその力を存分に発揮することができる。すべてを聴くためには、すべてを聴いてはいけない。ただ自分が乗る馬、その一頭に耳を澄ませる。どれほど素晴らしい音楽であっても、吹き荒ぶ嵐のなかでは輝かないのだから。

 リアルビューティに耳を傾ける。嵐は止んだ。

 ――お前は私に相応しいのか?

 再び彼女は問いかけてくる。

 その問いに答える代わりに鞭を振った。リアルビューティは再び速度を上げる。

 どんな馬も輝かせるような魔法使いになる必要はない。

 最高の馬に最高の結果を与える。その筋肉の、骨の、腱の――肉体のすべてで奏でる交響曲。それを導く指揮者に、僕はなる。 

『クラッシュオンユー今先頭に立ちます! 猛追するのはリアルビューティ!』

 由比が青の背中を捉える。 

 抜ける。

 リアルビューティは競りかけて負ける馬じゃない。その身体から発せられる音は見事な調和を奏でている。クラッシュオンユーに並び、――抜く。ゴールまであと一ハロン(二百メートル)。

 完璧な交響。一糸乱れぬ旋律。


 ――それが、切り裂かれた。


 その音は背後からリアルビューティを喰らわんと荒れ狂う。そう、まるで嵐のように。

「どけっ!!」

 青の雄叫びに合わせ、クラッシュオンユーがもう一度リアルビューティを抜き返す。けたたましい命の音。

 ゴール板を超えた。

『一着クラッシュオンユー! 皐月賞からの復帰初戦、昨年のオークス馬リアルビューティを僅かに躱して重賞二勝目! 並みいる古馬を蹴散らしました』

 青が拳を突き上げる。

 空を薄く覆っていた雲が晴れ、晴れ間がのぞいた。リアルビューティの速度をゆっくり落としていく。

 リアルビューティは海外帰り初戦。秋の本番に向けて仕上がりは八、九割程度だった。しかし、それは言い訳にならない。この仕上がりでも勝てる。そのくらいの力を持った馬だった筈だ。それは、このレースに自信満々で送り込んだ遠野調教師を筆頭とした関係者一同の総意だった。

 だが、負けた。

 あの時のように、またハナ差で。

 まだだ。まだ掴めていない。僕にはまだ、彼らを導く力がない。由比は苦々しく下唇を噛む。すると、不意に前方を往く青と目が合った。頬を上気させて笑う青と。

 思わず苦笑が漏れる。手強い敵が随分近くにいたものだ。

 手を差し出す。青もそれを見て手を差し出した。乾いた音が札幌競馬場に響く。

 

 ターフの熱気を、吹き込んだ冷たい風が浚う。

 夏の終わり。夏競馬の終わり。若人はそれぞれの想いを胸に秋へと向かう。

 さらなる試練の待つ季節へ。

次回は11月25日(火)更新予定です。

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