逃げの名手
雲を掻き混ぜたような灰色の空の下。
第十一レース、札幌記念がスタートした。
馬群から勇んで飛び出したのは二頭。小豆畑の乗るビッグフォールと四王天の乗るタンブルウィード。先陣を切ったのはビッグフォールだ。熟練の手綱捌きで内枠からぐいと伸びて内ラチに張り付いた。タンブルウィードが二馬身離れて続き、その後ろに十四頭が控える。那須の乗る昨年の札幌記念優勝馬エンシエロは先行、由比の乗ったリアルビューティは自慢の末脚を活かすために後方へ。最後尾に青の乗るクラッシュオンユーが位置した。
『ハナ争いを制したのはビッグフォール。得意の逃げで小豆畑が先頭に立ちました』
小豆畑は涼しい顔で鼻歌交じりにリズムを刻む。
競馬において最も有利な戦法が〈逃げ〉だ。
それは脚質毎の勝率という点でも表れている。
逃げの利点を挙げていけばきりがない。内ラチ沿いの最短距離を走ることができ、ペースを決めることができる。馬群に揉まれたり、キックバックの影響も少なく、気性面が不安な馬にも向いている。時々人気薄の逃げ馬が逃げ勝ってしまうのも、こういった恩恵を余すことなく享受できるからだ。
常に正解を選択し、間違いを排除していく。合理性の追求は逃げの基本であり、競馬の基本でもある。
しかし、ここで勘違いしてはいけない。逃げは有利な戦法であっても無敵の戦法ではない。屈強なギリシアの英雄アキレウスがその腱を矢で射られ命を落としたように、山のような大男である弁慶が向こう脛を叩かれれば大粒の涙を流すように、神話や歴史のなかにさえ無敵な人もモノも存在しない。「無敵」が存在するのは辞書の中だけだ。
逃げの恩恵を受けることができるのはただ一頭のみ。一頭、また一頭と逃げ馬が増える毎に、その強さはたちまち色褪せる。逃げ馬は孤独の中でしか強く生きることはできない。
運良く逃げ続けてきた馬であっても、その強さには遠くないうちに翳りが差す。レースレベルが上がる毎に逃げ馬の勝率は如実に下がっていくことからも明らかだ。
圧倒的に切れる脚。純然たる速さ。技術では埋められない天性のスペック差。才能の前に、堅実に積み上げられた努力の時になんと無力なことか。
だからこそ、そんななかで勝ち星を重ねる馬は名馬と呼ばれ、それを操る騎手は名手と呼ばれる。
小豆畑十三も「逃げの名手」と呼ばれる騎手の一人だ。
精密機械のようなペースを刻んだかと思えば、次のレースでは超スローペースを演出する。緩急自在、千変万化。数多のレースを勝ち、歴史に名を刻む名馬たちの背に乗ってきた。いつかの雑誌で組まれた逃げ馬についての特集のインタビューにおいて、逃げへのこだわりを訊かれた小豆畑はこう答えている。
「なんで逃げるかって? そりゃ俺が弱いからやな」
そうおどけて言った小豆畑にインタビュアーは愛想笑いを返し、特段話を広げることもなく次の質問に移った。拾い上げられることのなかった雑誌のインク染みにもならなかった他愛のない言葉。
――俺が弱いから。
だが、その言葉こそが小豆畑の真意だった。才能ひしめく競馬界において、弱者たる小豆畑が選んだ生き残る術、それが逃げだった。できるだけの手札を抱え、効果的な場面で切る。ちいさな正解を積み重ねていく競馬。そうして小豆畑は現役騎手で七位となる通算勝利数も積み重ねてきた。逃げに一番真摯に向き合った彼が逃げの名手と呼ばれるようになったのは必然だったのかもしれない。
そしていつしかその名は肥大し、実力以上に膨れ上がる。虚像。だが、それもまた逃げの名手をさらなる名手たらしめていった。
逃げの名手による逃げは小豆畑にとってだけでなく、他の騎手にとっても最早〈正解〉だった。いや、もっと正確にいえば正解に見えた。すでに目の前に正解がある。そこからどうして新しい正解を導き出そうとするだろうか。そうして楽に逃げた小豆畑がまた勝ち、〈正解〉はより強固になっていく。
だが時々――
『あっと、再び競りかけます! タンブルウィード、四王天!』
――間違いを恐れない、愚かだが勇気ある者が現れる。ビッグフォールの影を踏んだ馬はタンブルウィード。それを駆る騎手の名は――四王天愛。
「怖いもの知らずやなあ」
これじゃ共倒れやで。苦笑する小豆畑に愛は吠えた。
「邪魔です。どいてもらってもいいですか?」
「ひどいこと言うわあ。俺が先にいたんやで。それにな、そういう時はかわいくお願いするもんや。それが嫌やったら――」
前を向き一定のペースを刻んでいた小豆畑が目だけを愛へ向ける。
「自分で奪ってみい。お嬢ちゃん」
「上等よ」
愛が白い歯を見せて笑った。頬を伝う汗がきらりと光る。
桜花賞の惨敗は愛の騎手人生にとって大きな岐路になった。どこか綺麗に行儀よく馬に乗っていた彼女はもういない。その瞳には勝ちへの貪欲さが宿っていた。
小豆畑が短く口笛を吹いた。
レースは中盤へ入る。
先頭での激しいハナ争いにつられて、後続の馬たちも速度を上げた。向正面に入り、千メートル通過。タイムは――五十八秒二。
スタートからペースは緩まず、息を入れる隙もない。クラッシュオンユーにとって願ってもない流れになった。しかし、札幌競馬場の最後の直線は短い。勝負は直線ではない。このレース、勝敗を別ける分岐点はもっと前にある。
青は揺れる馬上で四馬身ほど先を往くリアルビューティを窺う。このレースにおける最大の難敵を。
札幌記念はG2では珍しい定量戦。すなわちレース成績の如何によらず、馬齢と性別によってのみ斤量が設定される。三歳馬は五十五キログラムで、四歳馬以上は五十八キログラム。牝馬はセックスアローワンスによってそれぞれ二キログラム減となる。斤量は馬齢と性別による能力差を埋める目的で設定されている数値であり、これに当てはめればクラッシュオンユーは五十五キログラム、リアルビューティは五十六キログラムの斤量を背負うことになる。
一キログラム。時間にして約〇・二秒。距離にしておよそ一馬身。
それがクラッシュオンユーに与えられた差だ。
クラッシュオンユーは皐月賞以来およそ四か月ぶりとなる復帰戦。ここでどこまで本領を発揮できるだろうか。北海道での滞在調教において、最後まで納得のいく追い切りはできなかった。クラッシュオンユーの調教での不真面目さは相変わらずだ。春を過ぎ夏を越えようとしていたが、身体は成長しても心はまだまだそれに追いついていない。
――では、私はどうだろうか。
皐月賞から、日本ダービーから、由比との差は縮まっただろうか。由比だけじゃない。クラッシュオンユーにも私にも、乗り越えなければいけない多くの壁がある。多くの強敵がいる。早く、早く追いつかないと。
第三コーナーにかかる。
青は左手に持った鞭を入れた。
『先頭、タンブルウィードとビッグフォールはいまだ並んで逃げます。このまま最後まで持つのでしょうか。そこに続くのは、――おっと、もう後方から上がってきたクラッシュオンユー、順位を上げていきます。早仕掛けとなりました。レースは消耗戦の様相を呈します』
緩やかに、だが着実に先頭へ向けて進行を開始する。ゴールまで残り八百メートルの大捲り。
やり遂げてみせる。
誰に言われるまでもない。
このレース、絶対に勝つ。どんなに遠くにいても追いついてみせる。
強い馬の背中は似ている。
リアルビューティの背中で由比は静かに時を待った。温く湿った風が顔を撫でる。
まだ二年にも満たない騎手人生でアレクサンダーに乗れていることはこれ以上ないほどの幸運だった。騎手人生において、いや、競馬に関わる人生において一頭出会うかどうかという馬。それがアレクサンダーだ。そして、今。リアルビューティに乗った今、彼のことを思い出す。
体格も馬齢も血統も性別も気性もなにもかも違う。だが、たしかに似ているのだ。
強い馬に乗るとき、時々馬を導いているのではなく、馬に導かれるような錯覚に襲われる。自分の未熟な部分を容赦なく抉ってくるのだ。
彼らは騎手に問いかける。
お前は私に相応しいのか――と。
僕はただ、その聲に耳を澄ませる。レースの中に答えを探しながら。
次回は11月18日(火)更新予定です。




