二年目、三人
空白となったリアルビューティの鞍上が由比に決まった。
札幌記念直前のことである。
日本ダービー前まで、アレクサンダーの勢いそのまま競馬界の名門・由比家の名に恥じない活躍を見せていたが、日本ダービーの敗戦後はどうも精彩を欠いていた。それが若さ故のものなのか、本来の実力なのかはわからない。ただ彼がその勢いを失ってしまったのはたしかだった。春を過ぎ夏を迎え、若き天才騎手はただの若手騎手になろうとしていた。当然、この乗り替わりに対する周囲の反応はいささか懐疑的なものだった。
新発田もその一人である。
取材休憩の合間、関係者エリアに設けられた喫煙所に入る。馴染みの顔に軽く頭を下げ、電子タバコに火をつけた。
「……最終追い切りも間に合わずにぶっつけ本番か」
新発田は手元のスマホからネットニュースに目を通す。
「乗れるのかねえ。由比調教師の倅に」
新発田の呟きを、歳近い他紙の記者が拾った。煙を吐き、得意げに話を続ける。
「俺は元々あれの腕には懐疑的だったんだ。日本ダービーだってありゃあ勝てたレースだろ。那須とかルピが乗ってたら間違いなく勝ってた。そしたらアレクサンダーは今頃二冠馬。菊花賞での三冠挑戦で話題は持ちきりだったはずだ。名伯楽の由比調教師といえど我が子可愛さには勝てなかったってわけだ」
だんだんと熱を帯びる。そんなんだからトレセン関係者に煙たがれるんじゃないかと思うが、そんなことはおくびにも出さず適当に話を合わせた。
「だいたい――」
「いいね。記者さんは好き勝手言えて」
長椅子に腰掛けていた男が、深く被っていたキャップを脱いだ。まだ幼さの残る顔に見据えられ、記者の男は言葉を詰まらせた。
「事実を言ったまでだよ」
「別に攻めてるわけじゃない。俺も見たまんまを言ったまでだ」
記者はバツが悪そうに喫煙所から逃げるように出ていった。喫煙所には新発田と男の二人きりになる。手に持つ電子タバコをくるりと回す。
「……君はどう見てるの? 由比騎手の腕を。リアルビューティの担当厩務員としての意見が聞きたいな」
厩務員の男は相好を崩し、癖のある茶髪を掻き毟った。
「さあてね。でもリアルビューティは札幌記念、このメンツ相手に勝つには文句がないレベルには仕上げましたよ。調子が悪い若造でもちゃんと勝たせてあげます」
「なるほど。君の本音はよくわかったよ」
厩務員の男は二本目の煙草に火を点ける。
「じゃあ今度は俺が訊いてもいいですか」
「いいよ」
「記者の目から見てリアルビューティを脅かす馬がいるのかどうか。そこのところ聞いてみたいですね」
「うーん、そうだな……」
札幌記念に出走する十六頭に思いを巡らせる。
「クラッシュオンユー。あれは強い馬だよ」
「へえ、クラッシュオンユー。たしかに三歳のなかだったら強いかもしれないですね。でも怪我明けですよ?」
「怪我明けで勝つ馬だっているさ。それこそ父であるノッキンオンハートがそうだった」
「たしかに、怪我明けであのイスカンダルに有馬で勝ったんですもんね。油断してたら足元すくわれちゃうか」
煙草の火を消し、厩務員の男が立ち上がる。喫煙所の扉が開くと、爽やかな風が流れ込んできた。
「ま、うちの子は負けませんけどね」
キャップを斜めに被り厩務員の男は笑った。
暗闇に啼き声がひとつ現れる。
それは漂うことなく、溶けて消える。聴いたことのない鳴き声だ。なんという名の鳥だろうか。
早い足音。遅い足音。嘶き。高い声。低い声。蹄鉄が硬い地面を打つ。会話。笑い声。地面を靴が擦り上げる。遠くを走る車のエンジン音。僕の周りには音が溢れていた。
人間は聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の五感で世界を知覚している。しかし、そのどれかを失った時、その分だけ世界が欠けるのかといえばそういうわけではない。失った感覚を補うように他の感覚が鋭敏になっていく。これはオカルトでもなんでもなく、決して珍しい話でもない。事実、こうしてただ目を閉じるだけでも世界は耳から「見えてくる」。
足音が近づいてくる。目の前で止まった。
「なにしてんの、道のまんなかで」
由比が目を開けると、青が怪訝な顔を向けていた。
札幌競馬場は晴れているが、遠くの空には暗い雲が見える。本州を直撃した台風の影響は甚大で連日トップニュースを飾っていた。しかし、北海道まではその魔の手は伸びていない。
灰色がかった空に白い点がひとつ。鳥。目を開けていても、その名前は分からない。
「……音を聞いていたんだ」
「音?」
青は眉間の皺をさらに深く刻み、首を傾げる。そして、耳の横に手を広げた。
「……なんか聴こえる? なにも聴こえないけど。――もしかして私のことからかってる?」
由比はかぶりを振った。
「いや、いいんだ。気にしないでくれ」
「ふーん。変なの」
青は由比に言われるまでもなく興味を失ったようだ。しかし、青はなにか言いたそうに動かない。
「……日鷹こそ僕になにか用でもあるの?」
「札幌記念のライバルが今どんな顔してるか見ておこうと思ってさ」
青は真剣な表情で由比を見据えた。
「日鷹にはどう見えるの?」
由比の質問に口に手を当てて少し唸る。
「つまんなそう。せっかくリアルビューティに乗れるってのに」
「急だったから。気持ちの整理がついてないだけだよ」
しかし、青はどうも腹落ちしない様子だ。
「日鷹のほうは楽しそうだね。クラッシュオンユーの復帰戦だから?」
「そう。札幌記念は絶対勝つから」
青は大きく頷き胸を叩いた。うらやましいほどにまっすぐな目をして。そこで話を切り上げようとしたその時、
「この私を置いて盛り上がるなんて気に入らないわね」
不意の声に、青が振り向き声を上げる。
「愛! いつ着いたの?」
そこには同期の一人、四王天愛が立っていた。肩口まで伸びた髪が風に踊る。それを絡め取るように毛先を撫でる。
「さっきよ、さっき。やっぱりこっちは涼しくていいわね」
愛は腰に手を当て二人を交互に見る。
「ちょうど良かったわ三人で会えて。三人で重賞を走るのは初めてだもんね。宣戦布告のひとつでもしとかないと」
「三人?」
「四王天も札幌記念に乗るのか」
二人の困惑した様子に、愛が色をなした。
「失礼ね。昨日の抽選結果見てないわけ?」
札幌記念のフルゲート十六頭に対して登録が二十頭。残り一枠を収得賞金額が同じ馬で抽選となっていた。それは知っていたが、馬がどれか騎手が誰かといったところまでは詳しく調べていなかった。実績からいって、レースに出る十六頭のうち十六番目の能力の馬なのだからしょうがない話でもある。特に故障もなく強い馬であるならここに来るまでに相応の賞金を稼いでいるのが当然だ。
だが、愛はそんなことを微塵も気にしていないかのように表情を変え、今度は不敵な笑み浮かべた。
「――まあ、いいわ。別に仲良しこよしするために札幌まで来たわけじゃないし。でも、そうやって油断してると負けるわよ。ダービーの時みたいに」
由比は顔を強張らせ、冷たい目で愛を睨みつけた。
「油断したつもりはないよ。あのレースだけじゃない。今まで乗ってきたレース全部、手を抜いたレースなんてひとつもない」
「あら、軽い冗談じゃない。怖い顔しないでよ」
愛は鼻を鳴らし、肩を竦めた。
「季節が巡れば主役も巡る。いつまでも主役でいられると思わないでよね。明後日のレース、楽しみにしてて」
「小豆畑さん。珍しいですね。こんな時間にここにいるなんて」
「ん? なんだ、那須ちゃんか」
すっかり日が落ちた札幌競馬場。その調整ルームのリビングのソファで小豆畑は新聞を読んでいた。うわの空に言った小豆畑は新聞に目を落としたままだ。那須は向かいのソファに腰を下ろす。
「そんなに熱心に見て、なにか面白いことでも書いてあるんですか?」
小豆畑は新聞越しに上目遣いで那須を見る。手に持つスポーツ新聞を差し出した。
「見てみいや。ほれ」
小豆畑が見ていた記事。見出しには、
「『札幌の地で二年目騎手が激突』。えーっと……由比くんと四王天さんと青ちゃんの三人のことですか。へえ、面白そうですね」
「見出しだけならな。本文じゃ三人とも随分大口叩いとるわ」
本文を斜め読みして思わず笑いが出る。小豆畑の言う通りだった。
「ますます面白いですね」
「なんもおもろないわ」
小豆畑は呆れ声で那須から新聞をひったくった。
「G1馬といえど海外帰りの一戦目、鞍上乗り替わりのリアルビューティ。怪我明け初戦のクラッシュオンユー。抽選を通過して辛うじて出てこれた七歳のタンブルウィード。これで大口叩くとは若いってのは怖いもんを知らん」
「そういうもんでしょ若いってことは。いいじゃないですかこれくらい。僕の若い頃よりよっぽど肝が据わってますよ」
「わかっとらんなあ。これは舐められとるんや。先輩連中も大した事ない、ってな」
小豆畑が、どん、と新聞ごと机を強く叩く。水の入ったグラスが揺れた。
「見せてやろうや。おっさんの恐ろしさってやつを」
小豆畑の顔に影が差した。開かれた目がぎらりと光る。
「……。その〝おっさん〟って、もしかして僕も入ってますか?」
「当たり前や。お前もおっさんやろうが」
小豆畑が那須の背中を叩く。心はまだ、若いつもりなんですがね。そんなことを心の中で呟いて、那須はため息をひとつついた。
次回は11月11日(火)更新予定です。




