騎手と指揮者
時は少し遡って八月上旬。
大阪市北区にあるザ・シンフォニーホールに由比一駿はいた。今日は本来ならレースに乗っているはずの日曜日だが、先月のレースでの注意義務違反で今週まで騎乗停止処分が下っていた。
白い長方形の箱に黒い台形の帽子をちょこんとのせたような外観。日本初のクラシック専用ホールであるエントランスにはすでに多くの人で賑わっていた。
群衆から少し離れたところでチケットを取り出す。そこには関西を拠点にする交響楽団の名前が書かれている。指揮者の名は――兵主景介。
クラシックにまったく縁のない由比が今日ここに訪れたのは、自らが主戦騎手を務めるアレクサンダーの馬主である兵主から直々の誘いがあったからだった。
ホールに入り、中段真ん中あたりの席に腰を下ろす。座席はあっという間にいっぱいになった。会場内のあちらこちらで囁く声からも公演に対する人々の期待のほどが窺える。普段は衆目に晒される側であるのに、こうして見る側――多くの目のうちのひとつになる――というのは不思議な感覚だった。
ステージ背面を覆うように設置されたパイプオルガンが客席を睥睨し、整然と並べられたまだ演奏者のいない椅子はうずくまり祈りを捧げる信徒のようにも見えた。
暫くすると演奏者が続々とステージに上がる。それを迎える拍手が静寂を破った。入念な音合わせ。荒涼としていたステージが熱を帯びていく。再び静寂。静まり返った壇上へ、コツ、コツ、と足音を鳴らして白銀の髪を靡かせ兵主が上がった。
一段高くなった指揮台に立つ。兵主は微動だにしない。
喉を鳴らす音さえ聞こえるほどの静寂。底の見えない深淵。宇宙が生まれる前の無。観客の意識が、演奏者の意識が、世界が、その一点に吸い込まれていく。
兵主が手を振り上げた。
指揮棒がキラリと光る。
瞬間、ステージから荒れ狂うように音が襲いかかる。荒々しく、艶やかで、跳ねるような、踊るような。音は目まぐるしくその表情を変えていく。しかし、それは決して無秩序になることはない。奏でられる音は彼の手によって束ねられ音楽となる。
由比は暫し呆然とステージを見つめていた。終演。長い沈黙のあと、拍手がひとつ起こる。それは万雷の拍手となってホールを埋めた。由比も少し遅れて拍手に加わる。
ライトに照らされたステージに立つ兵主の姿が、皐月賞での自分の姿に重なった。
「来てくれてありがとう」
公演を終えた兵主が指揮者室で由比を待っていた。兵主がにこやかに差し出した手を握る。
「今日は呼んでいただきありがとうございました。素晴らしい公演でした」
「それはよかったよ。君が春に頑張ってくれたお礼だったからね。喜んでくれてなによりだ。――じゃあ、せっかくだから感想を聞きたいな。もっと率直なやつを。ぜひね」
そう言って兵主はソファへ腰を下ろした。目線で由比を相対するソファへと促す。由比は少し戸惑いつつ浅く腰を下ろした。
「でも僕はあまりクラシック音楽は詳しくないので」
「それでいいさ。僕だって君に比べたら馬のことなんてまったく詳しくないよ。それでも、レースの話を延々としてしまうことなんてしょっちゅうだ」
兵主は組んでいた指を解き、右手の人差し指で由比の胸を指した。
「そう畏まるな。僕は君の頭に訊いてるんじゃない。ここに訊いているんだよ」
そう言うとソファに深く沈み込む。ゆったりとした姿勢でクラシックに耳を澄ませるように瞼を閉じた。
「……それじゃあ、競馬に喩えてもいいですか?」
兵主の眉がぴくりと上がる。口角が上がった。
「いいね。ぜひ」
由比は顎を引き訥々と話し始めた。
「競馬において難しいこと。それはいろいろありますけど、僕は馬の力を引き出すことだと思うんです。どれだけ凄い馬でも力を発揮できなかったら競馬場を去らなければいけない」
「その通り。まったく勝負の世界は非情だね」
言葉に反してその口ぶりはどこか愉しそうだ。
「騎手にとっての馬が指揮者にとってのオーケストラだとすれば、貴方の指揮はその力を最大限にまで引き出していた。僕は音楽に詳しくないし、ちゃんと見たのも今回が初めてです。でもたしかにそう感じました」
「随分買い被られてしまったな。しかし、嬉しいことを言ってくれる」
ほんのりと熱を帯びた由比の答えに、兵主は微笑みを浮かべる。
「だが僕に言わせてもらえば、指揮者にとっての馬は楽譜かな」
「楽譜?」
兵主は頷き、脚を組む。
「そう。五線譜に記されているのは音符や演奏記号だけじゃない。作曲者の意図が――魂が――そこに息づいている。これが馬だ。
オーケストラはそうだな、どちらかといえば騎手にとっての鞭や手綱や鐙であり、己の手足――つまり肉体に近いものだ。五十人余りの今日のオーケストラはさながら巨人。しかし、その掌を以てしてもその魂のすべてを掬い上げることは難しい。
しかし、君が僕たちの演奏に感動したということは、多少はその魂を掬い上げることができたということだろう。よかったよ」
謙遜――いや、そうではない。
自らの仕事に対する矜持。長年トップに立ち続けてきた者からしか発せられない空気がそこにあった。
「……どうやったら貴方みたいになれますか?」
質問に兵主は低く唸って宙を見る。
「指揮者に、ってことかい? ――はは、冗談だよ。でもね、君が考えるほど僕はたいそれた人間じゃないよ」
目の前に座る老人が悩みへの答えを得る手掛かりになればと縋る思いだった。この公演への招待自体が神からの啓示のように思われた。
少しの沈黙の後、兵主は右手の人差し指を耳に当てた。
「――〝耳〟を傾けるんだ」
「耳……ですか?」
「そう。そうすれば自ずと君は今よりも良い騎手になれるだろう。きっとね」
そこで、時間だ、と兵主は呟きソファから立ち上がった。去り際、落ち窪んだ影の奥で瞳が怪しく光る。
「それじゃあ由比くん。秋も期待しているよ」
「北海道は週末まで晴れそうでよかったですね」
北海道の大きく開けた青空を仰ぎ見て末崎は新発田に訊ねる。
「本州は台風の影響でずっと雨だったみたいだし。週末も来るんでしたっけ?」
「みたいだな」
八月の終わり。今週末の札幌記念に合わせて新発田と末崎は北海道に乗り込んでいた。札幌記念が終われば函館競馬場から始まった二カ月あまりの北海道開催もまた終わる。この夏幾度となく取材に訪れた函館競馬場の厩舎地区の景色に寂寥の思いが去来した。
九月に入ればスプリンターにとっての秋の大一番であるスプリンターズステークスを皮切りに、G1レースが次々に執り行われていく。
「はあ!? ルピが乗れないってのはどういう事だ!?」
じりじりと暑い日差しが照りつける函館競馬場の厩舎地区に怒号が響いた。声のほうを見やると数人の人影がある。
「あー、また遠野先生ですね」
手で庇を作った末崎が目を細めて苦笑いを浮かべる。
遠野通教調教師。齢五十余り。調教師として今まさに脂が乗り、その実績は申し分なく、現在の美浦トレセンを取り仕切っているといっていい大物だ。もちろん彼はその実力や功績だけでその地位まで上り詰めたわけではない。その野武士のような風貌と違わない苛烈なまでの生来の気性でひと癖もふた癖もあるホースマンたちを捻じ伏せまとめてきた。その結果が今だ。西の田知花、東の遠野と聞けば、その恐ろしさに鬼も裸足で逃げ出すほどである。田知花の恐ろしさが氷のような冷たさにあるならば、遠野のそれは雷や炎のような激しさにあった。
「よお、新発田くん。いいところに来たね」
顔馴染みの調教助手が新発田に声をかけた。皮肉交じりに片側の口角を上げる。
「今度はどうしたんです?」
調教助手は肩を竦める。
「ルピが今週末の札幌記念乗れないんだとさ。それでさっきからカンカンだよ」
「ルピが?」
視線の先で遠野は固太りした身体で肩を怒らせている。暑苦しい顔をスラッとした細身の男にぐいっと近づけると、男は気圧されたようにくの字に身を引いた。
男は身振り手振りを交え慌ただしく口を動かす。
「で、ですから先程も説明したようにですね。日本に接近している台風の影響で日本行きの便が欠航してるんですよ」
「どこの国を経由してもいい! アメリカでも中国でもブラジルでも経由して連れて来い! 金なら出す! それとも手を出されたいのか? ん? 儂はそれでもいいんだぞ!」
「無茶言わないでくださいよ。到着地の日本の天候が原因なんですから間にどんな国を挟んでも一緒ですって。私は神様でもなんでもないんですからどうしようもないです」
細身の男は弱々しく遠野を宥めすかす。よくよく見ればそれはルピのエージェントである實川だった。いつも几帳面な七三分けをしたいけ好かない態度の男であるが、その姿はさすがに気の毒に映った。
夏競馬の期間、日本では大きいレースもないのでルピは毎年二週間ほど休暇を取り、故郷のイタリアへと帰っている。たしか今週末の札幌記念のリアルビューティーの騎乗に合わせて帰国予定だったはずだ。予定を少し前倒しすれば帰って来れただろうについていない男だ。
絶え間なく雷を落とす遠野のこめかみには今にもはち切れんばかりの青筋が走っている。
「お前と話しても埒が明かん! 儂が直接話す! 電話を貸せ!」
實川は逡巡した後、もうどうにでもなれとでもいうように力なく携帯を操作して遠野へと差し出した。
枕元に置かれたスマートフォンが鳴る。
ルピは音のするほうへ手を伸ばし、少しの間探ると硬い物に当たった。引き寄せて画面を見る。〈サネカワ〉からだ。朝には連絡を入れてくれるなと言っているのだが。もしかして時差を知らないのか? 今度教えて上げなければいけないかもしれない。
そんなことを考えながら着信音を無視したが、音は一向に鳴り止まない。仕方なく応答した。
「……〈おはよう〉」
『なにがボンジョルノだ! 早く日本に帰って来い! 馬鹿者が!』
キーンと耳鳴りがした。思わずスマホを耳から遠ざける。この声はサネカワではない。〈カミナリ親父〉――トオノだ。日本には「名は体を表す」という言葉があるそうだが、まさに〈雷鳴〉のような男である。まったく、このモーニングコールは考えうるだけでも最悪の部類だ。
ベッドから身体を起こし、ひとつ鼻を鳴らして再びスマホに耳を当てる。
「……ゴキゲンヨウ、トオノ先生。僕も帰りたいんだけどネ。神様がそれを許してくれないみたいなんダ。残念だヨ。本当にネ」
実を言えば本来予定していた便に乗ればぎりぎり欠航が決まる前に帰ることができた。帰国の前の晩に少しはしゃいで飲みすぎたために(二日酔いで)航空券を翌日に振り替えざるをえず、欠航に巻き込まれたのだ。……まあ、これは黙っておこう。火に油を注ぐ馬鹿はいない。
ルピはまだ酔いが残る頭を掻いた。
『リアルビューティはどうするつもりだ! お前が乗るからこのレースに仕上げたんだ』
「ああ、彼女には悪いことをしたヨ。帰ったら彼女の好きな花束を持って謝りに行こうと思う。――でも、リアルビューティは日本復帰初戦だし、目標とするレースは秋でショ? 今回仕上げは良くて九十パーセントくらいだろうシ……。今回は僕じゃなくてもいいじゃないかナ。秋にはちゃんと乗るヨ。それに」
ルピはそこで少し含んで笑う。流暢な日本語でこう続けた。
「ちょうど空いている騎手がいたはずでしょう? 彼に頼めばいい」
『なにを勝手なことを――』
そう言って早口で捲し立てるトオノを無視して通話を切り、スマホをベッドに放った。ルピは大きく欠伸をして立ち上がり、緩慢な足取りでキッチンへと向かう。冷蔵庫から取り出した牛乳をグラスに注ぎ一息に飲み干した。細胞ひとつひとつに冷たさが染み渡る。
もう一度牛乳を注ぎ、ベッドルームへと戻った。スマートフォンからはむなしく着信音が鳴り響く。朝のBGMには少々似つかわしくないがそのうち静かになるだろう。
淡い緑のドレープカーテンを開ける。朝の光に目を細めた。鳴き声に視線を落とすと、フラワーボックスで二匹の小鳥が踊るようにステップを踏んでいる。日本での悪天候など想像もできないほどイタリアは穏やかな陽気だ。
牛乳を一口啜る。
リアルビューティに乗れないのを残念に思っているのはトオノたちだけじゃない。だが、これも神の思し召しということだろう。それに、今彼女を必要としているのは僕ではない。これで少しは彼も良い方向に向かえばいいが。
「〈まったく、ゆっくり待つのは性に合わないな〉」
ルピは大きな欠伸をひとつする。
鳴き声だけ残し、いつの間にか二羽の鳥の姿は見えなくなった。
次回は11月4日(火)更新予定です。




