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L'heure Bleue

 淡々とレースが進行していく。

 正午を前にした第四レース、二歳未勝利戦が始まろうとしていた。第五レースの騎乗を控え、パドック横の控室で周回する競走馬を横目にベンチに腰を下ろす。晴天のパドックに立錐の余地もない人が詰めかけていた。

 口の前で冷え切った両手を広げ息を吹きかけた。右手の甲を擦り、続いて左手の甲を擦る。そして両の掌を入念に擦り合わせた。あちこちで焚かれた石油ストーブのおかげで控室はじっとしていると汗が滲むほどだったが、一度寒風に晒された身体はなかなか温まらなかった。

 再び手に息を吹きかける。

「いやあ、冷えるなあ」

 小走りで入ってきた小豆畑が隣にどかっと腰を下ろす。僕は笑って、そうですね、と返した。

「残念やったな、メリーメイカーは」

 掌に息を吐きながら小豆畑はこちらに目配せする。

「やれることはやったので」

「そか」

 慰めるでもなく小豆畑はさっぱりと言って、それ以上は訊いてこなかった。それが有り難かった。

「……小豆畑さんの馬はどうなんですか? 有馬記念」

「ええ仕上がりやで。こりゃ今年の有馬記念はもらいやな」

 豪快に笑って小豆畑は胸を張り鼻を鳴らす。

「はは、でもメリーメイカーも負けてないで――」 

 ぎぃ。

 床を椅子が引き摺る不快な音。続けてヘルメットが床に落ちて軽い音を立てた。

「なんや?」

 小豆畑は顔を上げ、怪訝に眉を顰める。

 落ちた真っ赤なヘルメットから視線を上げると若い騎手が一人立ち上がっていた。その視線は高いところに置かれたテレビに向いている。その顔は強張り、尋常な様子ではない。

 一体どうし――。

()()()!」

 空気を切り裂くような悲痛な声。慌ててテレビの方へ視線を向けた。

『――第三コーナーで落馬発生。大丈夫でしょうか。……えー、せ、先頭は』

 アナウンサーが後ろ髪を引かれながら実況を再開する。

 室内の視線がすべて画面に注がれていた。空気が張り詰める。先程までグランプリに浮き足立ち、ざわついていた室内が水を打ったように静まり返る。

 落馬が発生した第三コーナーからはすでに映像が切り替わっている。まるでなにもなかったかのように馬が競っていた。そうだ。きっと空耳。なにかの間違いだ。

「……おい、大丈夫かよ」

 誰かが呟く。それが合図だった。堰を切ったように口という口から言葉が溢れ出す。

 現実だ。空耳なんかじゃない。

 不安。恐怖。哀しみ。怒り。憤り。行き交い、ぶつかり合う言葉の濁流に呑まれ、僕は焦れるような気持ちで画面を見つめた。ごうごうと唸るストーブ。不快な熱気で衣服が肌に張りつく。 

「大洋……」

 テレビ画面はゴール前の直線を映している。落馬地点の様子はここからはまるでわからない。一着がどの馬なんてどうでもいい。そんなことより大洋は無事なのか?

 画面に映る騎手に大洋の姿はない。見間違えてはいないかと何度も何度も繰り返し画面の中にその姿を探すが見つからない。血の気がすっと引いていく。

 それが意味することはひとつだった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 無事に走り終えた馬がゴールする。ようやく映像が第三コーナーに切り替わった。しかし、スタンドからのカメラではその様子ははっきりと窺い知ることができない。すでにコースに待機していた救急車、馬運車が駆けつけている。スタッフや救急隊員が動くのみで、その足元に辛うじて映る黒い影もまるでそこだけ時を止めてしまったかのように微動だにしなかった。慌ただしく真っ黒なシートが掲げられ視界が遮られる。そこで画面が切り替わり動揺した様子のキャスターが映った。

 僕は堪らず外へと駆け出す。通路の人波を荒々しく掻き分けぶつかりながら進んだ。

 邪魔だ。どけ、どけよ!

「早く追いついてこいよ。孝介」

 最後に大洋が発した言葉が頭のなかで何度も繰り返される。

 待て。待ってくれ大洋。 

「おい、止まれ。那須」

 怒声にハッとして振り返るとそこに咲島が立っていた。しかし、驚きも束の間。すぐに止められたことへの怒りがふつふつと沸いた。舌打ちして前に向き直る。しかし、

「止まれ」

 咲島がこちらの腕を強引に掴んだ。 

「離せよ!」

 掴まれた腕を振りほどき咲島に相対した。肩が激しく上下する。短く不規則に吐かれた息が宛もなく白く漂った。

「次のレースがあるだろ。どこに行く気だ」

「決まってるでしょ。大洋のところですよ」

 声が荒く。大きくなる。

「馬鹿なことするんじゃねえ。戻れ」

 かっと頭が熱くなる。思わず咲島の襟元を両手で強く掴んだ。咲島はそれに怯むことなくこちらを射竦める。

「戻れ」

 咲島は同じ言葉を静かに繰り返した。怒りの感情ではなく、冷静な言葉を向けられたことで身体のなかで際限なく膨らんでいた得体のしれないどす黒い怪物がみるみる萎んでいく。

「……でも、大洋が……。あそこに大洋がいるんです」

 声が震えた。

 首元を掴んでいた両手の力が抜け、だらんと落ちる。

「わかってる。事故にあった仲間を心配するのも、会いたいと思うのも普通のことだ。間違っちゃいない。――だがな、騎手として生きてくなら、たとえ親兄弟が死んでも馬に乗らなくちゃいけない時だってある。なにより、この仕事をしてて()()になんか生きていけない」

「……そんなの、おかしいです。たかが、……たかが競馬じゃないですか」

 そんなものが人の生き死により重要なはずがない。

「そうだよ。たかが競馬だ。だが、この世界に足を踏み入れた時点で俺たちはそれで飯を食って生きていく覚悟を決めたはずだ」

 咲島とこうして話している間にも通路を人々が行き交った。擦れ違う顔はどれも険しい。

「さっきの落馬事故で次のレースから騎手の調整が必要になってくる。手の空いているお前にも乗ってもらわなくちゃいけない。いま乗れる騎手全員で今日のレースを乗り切るんだ」

 納得などできなかった。

 僕が今ここで大洋のことをどんなに心配しても、どんなにその無事を祈っても無力なことはわかっている。だが、だからといって今レースを走ることがはたして正しいことなのか。

 立ち尽くす僕の思考を断ち切るように咲島は言った。 

「お前は馬に乗れるんだ。乗れ」


 第五レースが終わった。

 青く晴れ渡っているはずの空が急に色褪せて見える。スタンドに詰め込まれた観客の蠢きもまた異様に映った。まるでそこからいまにも不気味な化け物が生まれ、羽撃かんとしているようであった。

 先程の落馬事故で今日騎乗することができなくなった騎手は七名。その騎手たちが乗るはずだった馬の乗り替わりが次々と発表されていく。

 鞍上未定の馬も残り少なくなった。だが、メリーメイカーの鞍上は未だ決まっていない。検量室前で厩舎スタッフたちと話し合っている田知花が目に入った。

「先生」

 そう呼びかけて田知花に駆け寄る。田知花はこちらの姿を認めると険しい顔をした。

「俺の預かってる馬でお前を乗せる馬はいない」

 その言葉に僕は食い下がる。

「メリーメイカーの鞍上がまだ決まってないですよね。大洋に乗り替わるまでは僕が乗ってました。僕が適任だと思います。いつでも乗る準備はできてます」

「……お前、なにか勘違いしてないか?」

 どすの利いた低い声で田知花はにじり寄る。

「俺は『鳶島を乗せる』前に、『那須(お前)を下ろす』判断をしたんだ。お前にあの馬は相応しくなかったからだ。それなのになんでお前をメリーメイカーに乗せなくちゃいけないんだ?」

 なぜ僕がメリーメイカーに乗らなくてはいけないのか。

 田知花の言葉は僕の心に重くのしかかった。

 これまでメリーメイカーに乗ってきたから? 大洋が乗れなくなったから? ――それだけなのか? 本当に?

 僕が乗ることに意味はあるのか? たかが競馬じゃないか。今日一鞍乗れないことなんてたいしたことじゃない。

 だが――。

 だが、あいつはそれに人生をかけてきた。じゃあ、僕はどうだ? 僕もそうじゃないのか? それとも、中途半端な気持ちであいつに追いつこうとしたのか?

「……違う」

 自然と声が漏れた。地面に落ちていた視線を上げ、田知花を睨み返す。 

「追いつけなくなるからです」

「あ?」

 眉間に深く刻まれる皺。眼鏡の奥から覗く冷たい目。 

「ここで立ち止まったら、大洋に二度と追いつけなくなる。わがままなのはわかってます。でも、僕に乗せてください。お願いします」

「自分がなに言ってるのかわかってるのか?」

「はい」

 間髪入れずに応える。そして、できる限り肺に息を吸い込んでこう宣誓した。

「僕がメリーメイカーを勝たせます」

「ふざけたことを――」

「俺からもお願いします」

 咲島が話に割って入った。田知花の血走った目が咲島に向けられる。

「咲島さん……」

「てめえもか咲島」

 田知花が声を荒げると、咲島は腰を折り曲げて深々と頭を下げた。思わぬ行動に僕と田知花は目を瞠いた。

「この間は生意気言って申し訳ありませんでした。二度と先生には逆らいません。――だから、メリーメイカーにこいつを乗せてやってください。これが最後のわがままです」 

 咲島は澱みなくそう言うと、 

「お願いします」

 念を押すように言葉を添えた。

 それは普段の咲島からは考えられない姿だった。数秒おいて僕も慌ててそれに倣う。

「お、お願いします!」 

 地面を見つめ、田知花の言葉をただじっと待った。

 ああ、僕はなんて無力なんだろうか。僕一人では馬一頭好きに乗ることができない。だが、そんな無力な僕のために頭を下げてくれる人がいる。

 目頭が熱くなる。身体から溢れ出るものを零さないように唇を噛んだ。


 第十一レース有馬記念。

 少し色の薄くなった青空。もうすぐ日が落ちようとしていた。ファンファーレが先程の不幸な出来事を振り払わんとばかりに雄大に中山競馬場を吹き抜ける。四人が乗り替わった輪乗りでは、誰もが神妙な面持ちをしていた。色とりどりの帽子を被った騎手が奇数番、偶数番の順に枠に収まる。

 青いカバーを被せたヘルメットを直し、メリーメイカーの首筋を撫でた。目を細める。

 熱い。

 凍えるような空気のなかでそこだけがたしかな輪郭を持っていた。

 少しの時間借りるよ。とりあえず今日だけだ。次はこんな形じゃなくて、僕の実力で僕をメリーメイカーに乗せてみたいと思わせてみせる。だから――だから早く戻ってこいよ。大洋。

 鐙を踏む。

 手綱を握る。

 ゲートが、開いた。

 

 この日起きた競走馬七頭が巻き込まれた凄惨な落馬事故。原因とみられる斜行を行った騎手一名が、開催四日間の騎乗停止処分が下った翌週に独身寮で自殺を図る騒ぎにまでなった。事態を重くみた中央競馬会は会見を開き、今後の安全対策についての指針を発表。連日報道は過熱し海外まで燃え広がったが、いつまでも燃え続ける火はないようにそれはひと月も待たずに鎮まった。後味の悪さだけがこびりついた煤のように人々の記憶に残った。

 この事故で七頭のうち三頭が骨折等による予後不良。二頭が腱の断裂による競走能力喪失で引退。騎手四名が重傷。のちに一名がこの事故の後遺症で引退。

 そして、一名が死亡した。

  

 ※


 ぽつり、と一粒の雨が白い墓石を打った。

 後を追うようにひとつふたつとぽつぽつ雨が続き景色が掠れる。

「少し喋りすぎたね」

 那須は空を見上げるとそう呟いた。頭上に雲はない。天気雨だった。

「大洋が亡くなったあの日の有馬記念、僕はメリーメイカーに乗って勝った。僕は自分が魔術師だなんてまったく思ってないし、魔法なんて都合のいいものはないと思ってる。――でも、あのレースではたしかにそれを感じた。そして騎手をやってきてあれを超えるレースを今日に至るまでできたことはない。あの時、きっと大洋が力を貸してくれたんだろう。今日の僕があるのは君のお父さんのおかげだ」

 那須はなにかつかえが取れたように息を吐いた。

「ようやく話せた」

 肩の力が抜けたその表情は普段と違い年相応に老けて見えた。 

「お父さ――父の話をするために私をここに連れてきたんですか?」

 那須は頷く。

「そうだよ。ごめんね、嘘ついて。どうしてもここに連れて来たかったんだけど、どうにも決心がつかなくてね。情けない限りだ」

「そんなことないですよ」

 この胸騒ぎはなんだろう。

 那須は父との昔話をするためだけにここまで自分を連れてきたのだろうか。特段おかしいということはない。そういうこともあるだろう。だが、その纏う雰囲気が胸の裡をざわつかせた。

 那須はじっと遠くを見つめ、なにかを決心したように瞼を閉じる。それをゆっくり開くと青に視線をやった。とらえどころのない、それでいてすべてを包み込むような霞のような瞳。

()()()()()()退()()()

「……え?」

 ……引退する?

 引退。その言葉に現実味がない。動揺する青を尻目に那須の表情は穏やかだ。那須は言葉を続けた。

「三十年近く馬に乗ってもう身体もぼろぼろだからね。肉体も衰えて、五年前のレースで起きた事故の後遺症で思うように乗れないことも増えた。本当はその時に引退しようと思ってたんだ。でも、今日まで続けてきた。君のおかげでね」

「私の……?」

「ああ。昔、君のお母さんに相談されてね。騎手になることをどうしたら諦めさせることができるのかってね。あの事故があって君のお母さんが君を競馬から遠ざけようとした気持ちも痛いほどわかる。でもね、君が騎手の道に進むと知った時は凄く嬉しかった。そして、どうしても君につい大洋の――みんなが憧れたあの天才騎手の――姿を重ねてしまう。やっとまたここで戦えるんだ、って、そう思えた」

 那須は目を細める。 

「せめて大洋のささやかな願いを叶えてあげたいんだ。でも僕が納得できる状態で青ちゃんと戦えるのは残念だけど今年いっぱいだろう。だから」

 那須が微笑む。 

「早く追いついてきてね。僕のところまで」

 冷たい風が肌を撫でた。降り注いだ雨粒が日の光を乱反射する。遠くから大きな体で傘を抱える度会が駆けてきた。

 雨が少し強くなった。

次回は10月28日(火)更新予定です。

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