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Le Conte Bleu

『青い帽子メリーメイカー一着でゴールイン! このレースから乗り替わり、鳶島が一発回答を見せてくれました! メリーメイカーはこれが待望の重賞初勝利です!』

 東京競馬場のスタンドがわっと弾ける。

 鳶島を鞍上に迎えたメリーメイカーのG2アルゼンチン共和国杯。乗り替わりが好材料と大洋を背にしたメリーメイカーは前走札幌記念に続いて一番人気に推された。その期待に見事に応える大洋の騎乗。数少ないハンデ重賞でこれまでの結果を鑑みたら少々見込まれた高ハンデを背負いながらの三馬身差完勝だった。

 京都競馬場にあるジョッキールームの食堂で、僕はその映像を無言で見ることしかできない。どうにもいたたまれなくなり徐ろに卓上のリモコンに手を伸ばすと、

「おいおい、見とるんやからチャンネル回さんでくれよ」

 先輩騎手の小豆畑(あずはた)が頬杖をつきのんびりとした調子で言った。

「あっ、すみません」

 慌てて手を引っ込める。

「自分が乗ってきた馬があんな簡単に勝たれちまうと悔しいわなあ」

「……え? いや、そういうわけじゃ」

 小豆畑が独り言のように呟いたので返答が少し遅れる。小豆畑は手に持つ握り飯を頬張った。

「なにも恥じるこたあねえ。ありゃあいい馬だわな。メリー……なんやったっけ? クリスマス?」

「メリーメイカーです」

「そやそや、メリーメイカーな。あれを逃がしたとあっちゃあ俺やったら夜も眠れんで昼に寝なあかんくなるわ」

 どこまで本気なのか小豆畑は大きく口を開けて欠伸した。口元についた米粒をひょいと摘み口に運ぶと、上目遣いでこちらを覗く。

「でもなあ、そんなんこの世界じゃ当たり前や。『こら走る馬や! ダービーだって狙えるで!』って馬が次のレースでは自分より上手い騎手を乗せてるなんてことはごまんとあった。鳶島にも取られたし、もちろん、お前にも取られた」

 小豆畑はにっと笑う。

「別に僕は小豆畑さんより上手いわけじゃ……」

「謙遜すんなや。まあ、とにかく、や。いつまでも振られちまった女に未練たらたらな男より情けないもんはない。そう思わんか? 今のお前はそれや。まったく、ダサくてあかん」

 膝の上で行き場なく組んだ指を見つめる。

「そんなことわかってますよ、僕だって」

 小豆畑が立ち上がり、僕の肩に静かに手を置いた。

「勘違いせんでほしいけど、俺は諦めろゆうてるんやないで。振り向かせたいならもっとやり方があるんやないか、ってことを言いたいんや」

「……馬を奪われないくらいに僕が上手くなればいいってことですか。あの、大洋みたいに」

 テレビでは勝利騎手インタビューに応える大洋が大写しになった。汗を拭い、額に張りついた髪を掻き上げる。澄んだ瞳がカメラ越しに僕を捉えた。

 インタビュアーが画面端からマイクを構えた。

『勝利おめでとうございます。メリーメイカーにとって、そしてファンにとっても待望の重賞戦勝利となりましたが――』

 インタビューはつつがなく進行する。大洋も慣れたものだった。暫くすると、

『あー、ちょっといいですか? それ』

 返事を待たずに大洋はインタビュアーからマイクを奪い取った。あー、あー、と調声した後に話しだす。なにを言い出すのか。心がざわついた。虫のしらせのようなものかもしれない。

『孝介』

 目を瞠る。画面の向こうにいる大洋と確かに目が合った。東京競馬場にいる大洋もカメラの向こうに僕を見ているに違いない。何万、いや何十万という視線が集まる舞台で、僕と大洋だけに与えられた時間。

『悔しかったらこいつ、俺から奪ってみろよ』

 大洋が挑発するように笑う。

 言い終えると満足したのか、大洋はけろっとした表情で、ありがとう、とマイクを返した。しばし呆けていたインタビュアーが我に返り、慌てて大洋にマイクを向ける。 

『それでは最後に、生まれたばかりのお子さんになにか一言頂いてもいいですか?』

 インタビュアーに促され、虚を突かれたのか大洋は照れくさそうに鼻を掻いた。

『えっと、それじゃあ』

 大洋は意を決したように視線をカメラに向ける。

『おーい! 青! 見てるかー! 父さん勝ったぞ! 次も絶対勝つからなー!』

 そこで映像が切り替わり、見覚えのあるスマホゲームのコマーシャルが流れる。背後で小豆畑の笑い声がした。

「おもろい同期やなあ。あんなんがいたらたまらんわ」

 ぽんぽんと肩を二度叩くと、小豆畑は食堂の外に姿を消した。暫く誰もいない空間をぼんやりと見つめる。

 たまらない、か。

 その通りだ。大洋が同期にいたことで数え切れないほど屈辱を味わってきた。だが、大洋がいたから僕はたぶん競馬というものにこれだけ向き合い打ち込めているのだろう。

 事実、僕を煽る大洋のあの言葉にどうしようもなく胸がざわついた。

「……まったくですよ」

 頬が緩む。まったく、厄介な同期を持ったものだ。

 目の前に置かれたコップの水を一気に飲み干し、僕は立ち上がった。


 次の週から直接厩舎を回り乗鞍を増やしていった。

 中央競馬の開催は毎週末。障害競走を除けば土日でそれぞれ最大十レース程乗れる計算になる。数を増やせば上達するかといえばそうではない。だが、数をこなさなければこれより先に進めないのだからやるしかなかった。

 メリーメイカーはすでに年末に行われる有馬記念の出走が決まっている。想定騎手は前走で結果を出した大洋だ。僅かな可能性に賭けるには時間はいくらあっても足りない。

「よお」

 そんな厩舎巡りをしているある日、咲島に声をかけられた。思わず身を引く。先日の田知花厩舎での一件以来、どうにも気まずくて避けていたのだ。

 ギョロっと目が動きこちらを睨めつけた。

「……お疲れ様です」

「なんか最近トレセンのなかあちこち回ってるらしいな」

「ええ。まあ、ちょっと色々あって」 

「今度はどこで乗るんだよ。栗東だけじゃなくて美浦の馬もどうだ? ん?」

「え?」

 それって――。

「しょうがねえから馬集めるの手伝ってやるよ。お前より俺のほうがトレセンの奴らのことは詳しいからな。なかなか勝てない良い馬も知ってるし、ふんぞり返ってる調教師連中の弱み――交渉材料だって知ってる。報酬は……そうだなあ、今度酒でも奢ってくれりゃいい。今回は特別にな」 

「……ありがとうございます」

 声を詰まらせて頭を下げた。唇を噛む。再び顔を上げ、咲島と向き合った。覚悟を決め、ぐっと腹に力を込める。

「僕、絶対メリーメイカーにもう一度乗ってみせます!」

「当ったり前だ。バカ野郎。俺がここまでしてやるんだからな。ほら、紹介してやるからさっさと行くぞ」

 はい、と勢い込んで僕は一歩踏み出した。


 有馬記念当日を迎えた。

 昨日までの曇り空から一転し、真っ青な空が広がっている。日差しは強い。しかし、吹き付ける風は肌を切り裂くように冷たかった。吐いた息が一瞬白く染まり、風にさらわれる。

 レース前、芝の状態を確認するためにコースを歩いていると大洋が後ろから駆け寄ってきた。

「レース前にそんな体力使っちゃっていいの?」

「こんなんで疲れるかよ」

 大洋は息を弾ませて笑い飛ばした。

 今日の有馬記念、メリーメイカーの鞍上は僕ではなく大洋のままだ。悔しくない、といえば嘘になる。だが、ここまでの一カ月強やれることはやってきた。それに、今日こうやって中山競馬場に降り立ってみると不思議と清々しささえ感じた。

「頑張れよ。今日の有馬記念」

「もちろん。ちゃんと応援してくれよ。応援してくれる人は多ければ多いほどいいからな」

「今日は家族は来ないの?」

「ああ。まだ生まれたばっかだし、こんな人がいっぱいいるとこ来たらびっくりしちゃうだろ? だからお留守番。テレビの前で応援してるってさ」

 そう言って大洋は遠くを見やった。

 その横顔に、大洋がどこか遠くへと行ってしまうような錯覚が襲う。

「ん? なんだよ、変な顔して」

 大洋が目を眇める。なんでもないよ、と僕は慌てて首を振った。 

「いつか大洋に追いつけるかなと思ってさ。今はまだ無理だけど、何年後かには」

 大洋がまじまじと僕の顔を覗いた。気圧され一歩後退る。    

「おいおい。そんな悠長なこと言ってると俺もお前もあっという間にジジイだぞ。俺はジジイになってまで馬に乗るのはゴメンだぜ。五十、――いや四十手前にはやめて、嫁や子供といろんな国に旅行に行ったり、減量なんて気にしないでうまいもんたらふく食うんだからさ。そして」

 大洋は超満員のスタンドを指差して目を細める。

「将来、自分の子どもたちがレースを走ってるのをあそこで座って見るんだ。昼間からビールでも飲んで、差せ、差せ! とか、もっと追えよ! なーんて言ったりしてさ。きっと楽しいぜ。

 だからさ、俺はお前をのんびり待つつもりなんてこれっぽちもない」

 大洋はそこで言葉を切って振り向く。抜ける青空のように澄んだ瞳が僕を捉えた。

「早く追いついてこいよ。孝介」

 わかったよ、だったか、大きなお世話だ、だったか。なにか言葉にしようと口を開いたその時、冷たい風が僕と大洋を分かつように吹き荒んだ。大洋が身を縮める。

「寒っ。戻ろうぜ孝介。レース前に風邪引いちまうよ」

 僕は、ああ、と応えて、濃紺のウィンドブレーカーを着て背を丸める大洋を追った。

 

 この日、彼の言葉に曖昧に返してしまったことを僕はいまでも後悔している。

次回は10月21日(火)更新予定です。

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