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Être Fleur Bleue

『フラッシュナイン鳶島(とびしま)大洋(たいよう)、今ゴールイン! 七番フラッシュナイン一着です!

 一番人気メリーメイカーは馬群に飲まれました』

 喚声の中、揺れる馬上で肺から大きく空気を吐き出す。

 快晴の札幌競馬場で行われたG2札幌記念。万全の状態で臨んだレース――のはずだった。

 ――また勝てなかった。

 足下のメリーメイカーがゆっくりと減速していく。そっとそのうなじを撫でた。

 その血統と馬格の良さ、そしてデビュー戦での圧倒的な走りから二歳の新馬の頃から期待をかけられていたこの馬はクラシックに出走するまでは絵に描いたように順調だった。が、そこから大一番で勝ちきれないレースが続き、四歳の夏を終えようとしている今に至っても重賞を勝てずにいた。

 能力があるはずなのに勝てない。

 当然、その批判の矢面に立つのはデビューから一貫して主戦騎手を務める僕である。

「いつまで乗ってるんだよ下手くそ!」

「なんなら勝てるんだよ!」

「馬鹿野郎! 金返せ!」

 勝者を称える喚声に僅かな罵声が混じる。意識しなければ聞こえることもない僅かな罵声が。だが意識すればするほどに、それはどんな鋭利な刃物よりも鋭く、そして深く突き刺さっていく。

 喚声に押し潰されぬように大きく息を吸った。

 検量室での後検量を終えて短い取材を受ける。今日の騎乗予定のレースもすべて終わり、調整ルームのほうへと戻ろうと重い足取りで歩いていると不意に背後から肩を組まれた。

「一緒に行こうぜ孝介」

 能天気な声。緩慢に組まれた腕を払う。

「一人で行きなよ」

「寂しいこと言うなって」

 肩を組んできた男は僕の背中を叩き、豪快に笑った。

 鳶島大洋。

 競馬学校の同期で、中央の騎手になってからも切磋琢磨してきた仲だ。だが、現在の互いの立ち位置は随分と違ってしまった。

 彼は今やJRAで三本の指に入る実力者であり、僕は有象無象の半端者だ。

 このレースで一着になった馬も大洋の騎乗した馬であった。

「なあ、メリーメイカーは次どこで走るんだよ」

「知らないよ。今日も負けたからね。順調だったら大きいレースを狙っただろうけど」

 無邪気に訊ねてくる大洋へぶっきらぼうに返した。苛立ちが収まらずに言葉を続ける。

「だいたいなんで大洋がメリーメイカーの次走なんて気にするんだよ。今日勝った馬の次走でも考えてればいいだろ」

「いい馬のことは気になるもんだろ、騎手としてさ。あれはこんなところで終わる馬じゃないぜ」

 それは僕の腕が足りないってことかよ。

「じゃあ、君が乗ればいいだろ。僕は降りるから」

 大洋が歩みを止める。

 残ったのは僕の足音だけだ。はっとして立ち止まり、後ろを振り向く。そこでは大洋が仁王立ちし険しい顔をしている。

 ――ああ。

 余計なことを言った、と後悔が襲った。小さく舌打ちする。大洋は据わった目をして低い声で言った。

「なんだよその言い方。メリーメイカーは()()の馬だろ? そんな中途半端な気持ちで馬に乗ってんのかよ」

「悪かったよ。そんなつもりじゃない。言葉のあやだ」

 しかし、一度スイッチが入った大洋が止まるわけがない。

「だいたいさっきのレースはなんだよ。――いや、さっきのレースだけじゃない。今日最初のレースからだ。あんな忙しない騎乗フォームで乗って。お前の持ち味は馬上でぶれない綺麗な騎乗フォームだろ? なんでそれを変えたんだよ」

「……別にいいだろ」

「よくない」

 頑として大洋は言い切る。なにか言わなければいつまでも蛇に睨まれた蛙状態でいなければいけないだろう。胸に溜まっていた重苦しい空気を吐き出し、話を切り出した。

「……勝つためだよ。どうしても勝ちたかったんだ、この馬で」

「だからあんな乗り方をしたって?」

 怪訝な顔の大洋に対して無言で頷く。

 しかし、あんな乗り方、か。

 自分では鳶島大洋のヨーロピアンスタイルに近い独特な騎乗フォームを真似たつもりだったのだが。それもとんだ猿真似だったということか。なるほど大洋からしてみれば、馬にしがみつく哀れなお猿さんに見えたのかもしれない。

「ありえねえ」

 今度は大洋が溜息を吐く番だった。

「なんであんな綺麗に乗れるのにフォームを変える必要があんだよ」

「は?」

 意外な言葉だった。

 お世辞には聞こえないし、そもそも大洋はそんなことを言う男でもない。だが、

「……綺麗だろうがなんだろうが勝てなきゃなんの意味もないだろ」 

「あんな綺麗なフォームなのにそれが意味ないなんてことあるわけないだろ。今は勝ててないかもしれないけど絶対勝てる」

 大洋は言い切った。

 無責任だ。そんなものは根拠でもなんでもない。大洋の能天気な顔が癪に障った。

「……じゃあ、いつ勝てるんだよ」

 声を振り絞り、精一杯大洋のことを睨みつける。逃げるようにその場を後にした。


 大洋がいるはずの調整ルームに戻る気にもなれず、導かれるように競馬場横に設けられた西厩舎地区へ向かった。東西の厩舎地区は緩やかなアーチを描く〈のぞみ橋〉で繋がっており、道路一本隔てた西地区は競馬場の喧噪も聞こえることがない。

 まるでレースなんてなかったような錯覚すら覚え――。

「おい、那須! てめえみっともねえ負け方したくせになに呆けてやがる」

 そんな感傷を吹き飛ばす耳馴染みのある怒声。技術調教師の咲島(さくしま)達治(たつじ)だ。歳は一回り程上。今年の春に調教師試験に合格し、田知花厩舎所属ではなくなったので他の厩舎や馬主を目まぐるしく回っているが、時間が空けば田知花厩舎所属の馬の面倒をこうして見ていた。お互い田知花厩舎所属だった頃からの付き合いなので早七、八年の付き合いになる。

「咲島さん。傷口に塩塗り込むようなこと言わないでくださいよ」

「生意気なこと言ってんじゃねえ。手ぇ空いてんならメリーメイカーの洗浄なり給餌なり手伝え。おら」

 咲島は有無を言わさずこちらの腕を掴み引き摺っていく。

 ちょうど洗い場ではメリーメイカーが繋がれていた。担当厩務員から道具を借り受け、一緒にメリーメイカーの馬体を洗っていく。その大きな身体を洗うのは大仕事だ。必然、次第に無心になり先程までのもやもやがすーっと消えていく。

 ちらりと咲島を盗み見る。言葉は乱暴だが、昔からなにかと気にかけてくれているのは間違いない。もう少し優しくしてくれればこっちも素直に感謝できるというのに。

「なんだよ」

「いえ。なんでも」

 馬体洗浄を終え、メリーメイカーが馬房で餌を食べるのを見ていると、

「おい」

 咲島がこちらへコーヒー缶を放ってきた。ふんわりとした放物線を描いて手の中に収まる。

 ひんやりと汗をかいたブラックコーヒー。その冷たさが気持ちいい。 

 咲島はプルタブを持ち上げるのに少し手こずった後、ようやく開いたコーヒーを一口啜ると話を切り出した。 

「さっさと勝たせろよ。来年になりゃ俺は厩舎を開業するんだぞ。心残りがあっちゃ仕事に集中できねえじゃねえか」

「僕だって勝たせたいですよ」

 プルタブを起こす。

「当たり前だバカ。みんなそうだ。どう勝たせるかってことに頭を捻れよ」

「捻ったって出ないもんは出ないんですよ」

「情けねえこと言うな。メリーメイカーにお前を乗せるように進言したのは俺だぞ。もっと自信を持て自信を」

 咲島に返事をする代わりにコーヒーを飲み下す。眉間に寄せた皺が深くなる。

 やっぱり、ブラックコーヒーは少し苦手だ。  


「おーい」

 田知花厩舎の年若い厩務員の男がこちらに手を振り駆け寄ってくる。九月に入った栗東トレセン。つい先日までの暑さが嘘のように肌寒い日だった。

「どうかしたんですか?」

「先生が呼んでるんですよ。すぐ来い、って」

 ――ついに来た。

 生唾を飲み込む。その音がやけに大きく頭に響いた。 

「乗り替わり……ですか」

「そうだ」

 田知花は淡々と告げる。 

 拳を握る。騎手としての死刑宣告。僕は彼を表舞台で輝かせることはできなかった。

 サイズの合わないガラスの靴ではシンデレラストーリーは進むはずもないのだ。――まあ、そもそも僕は彼女を成功へと導くガラスの靴ですらないのかもしれないが。

「わかりました。……あの、最後に教えてもらってもいいですか?」

「なんだ」

「メリーメイカーには誰が乗るんですか?」

「鳶島だよ」

 目を瞠った。その名前を頭の中で反芻する。暗い感情が胸のあたりをざわざわと浸食していった。下唇を噛む。

 歯痒さと悔しさ。しかし、同時に安堵した自分もいるのがたまらなく嫌だった。

「鳶島を乗せるんだったら別に那須のままでいいでしょ」

 口を挟んできたのは田知花厩舎に顔を出していた咲島だった。田知花が咲島に鋭い視線を向ける。

「お前はもううちの所属じゃないだろ。口を出すな」

「メリーメイカーは俺が面倒見てきた馬です。口を出す権利はあるでしょ」

「黙れ」 

「やだね」

 咲島はぐいっと顎を突き出し田知花に相対する。田知花は目を眇め、覆い被さるように咲島を見下した。

「こいつが乗り続けることで何億損失が出ると思ってんだ。あ? レースの賞金の話だけをしてるんじゃないぞ。引退して種牡馬として稼ぐはずだった金だって失うかもしれないんだ。それをわかって俺に口答えしてるのか?」

 田知花は冷たい顔で睨めつける。しかし、それでも咲島は一歩も引かない。

「もちろんですよ。でも言わせてもらいますけどね、ここであいつを降ろしたらどうなると思います? あんたの言い分に乗っかれば、将来あいつが乗る馬が稼ぐはずだった何十億を失うことになるかもしれない。それだけ今強い馬にこいつを乗せることには意味があるんですよ。レースで育つのはなにも馬だけじゃない。

 あんたの考えは少し近視眼過ぎるんじゃないですかね? 老眼だけじゃ物足りないんですか?」

 田知花は銀縁眼鏡を持ち上げた。

「よくもそんなペラペラと。相変わらず口だけは達者だな」

「なんと言って貰っても結構ですよ。那須も次のレース――」

「こんないい馬に乗っておいて『次のレースで頑張ります』なんて通用しねえんだよ、クソガキ」

「だから『次のレースで結果出す』って話をしてんだよ、クソジジイ」

 声を荒げ両者睨み合う。

「やめてください」

 二人の視線が刺さる。そこから逃げるように視線を逸らした。

「もういいんです、咲島さん。――田知花先生、メリーメイカーには那須を乗せてください。そのほうが――メリーメイカーのためになる」

 沈黙が流れた。

 恐る恐る視線を上げると、ぞっとするように冷たい目をした田知花と目が合う。田知花は睥睨した後、咲島に向き直った。

「――咲島。これから調教師として生きていくつもりなら入れ込む奴を少しは考えて選べ。首吊りたくないならな」

 そう吐き捨てると、こちらには一切目もくれずに田知花は去っていった。咲島はその後ろ姿を黙って見つめる。

「咲島さ――」

「別に俺はお前を買ってるつもりなんてねえ」

 咲島はぽつりと言う。

「馬乗りとしての腕なら鳶島のがお前よりも一枚も二枚も上手なんてのは言われるまでもなくわかってる。――だがよお」

 咲島は振り返り、いきなり襟元に掴みかかってきた。息が苦しい。

 そこでハッとした。咲島の目が潤んでいる。

「お前は悔しくねえのか? なあ? 悔しくねえのかよ、このあほんだらが!」

 咲島の声に視界が滲んだ。 

「悔しいですよ!」

 獣のような叫び声がトレセンにこだました。

「悔しいに、決まってるじゃないですか……。でも、僕じゃあいつを勝たせられないんですよ。……ちくしょう……。……僕はどうしたらよかったんですか。あいつを――メリーメイカーを勝たせられない僕は。教えてくださいよ、咲島さん」

 嗚咽が漏れ、咲島に縋り付く。それ以降口から出たのは、もう言葉にすらなっていなかった。

 

 メリーメイカーの次走は十一月初旬に東京競馬場で行われるG2アルゼンチン共和国杯に決まった。競馬新聞に載ったメリーメイカーの馬柱。そこに、デビューから十一戦乗った僕の名前はない。 

次回は10月14日(火)更新予定です。

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