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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第五章 夏、少女は駆け巡る
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Merrymaker

 日曜、札幌競馬場でのレースを終え最寄りのホテルで一泊し、翌朝早く札幌駅で那須と合流した。お盆の時期ということもあるのか多くの人で賑わっている。空は薄曇りで、北海道本来の夏といったような肌寒さすらあった。

 那須はダークグレーのジャケットを羽織り、手には種々の花が纏められた小振りな花束を持っている。

「ああこれ? 綺麗でしょ? とっておきのを選んでもらったからね」 

 手元の視線に気づいたのか、那須はどこかはぐらかすように微笑んだ。

「じゃあ、行こうか。乗り遅れたらずいぶん待たなくちゃいけなくなる」

 二人は会話もそこそこにバスターミナルへ向かい、「浦河ターミナル」という行き先が表示されている高速バスに乗り込んだ。

 市街地を抜けると高い建物は姿を消し、どこまでも続いていきそうな山と大地が広がる。バスは東、北海道の顎先へ向かって進んでいった。苫小牧を越えると、右手には深い藍色を湛えた雄大な太平洋が見えてくる。青はそれを頬杖をついて窓外の景色に目をやる那須の横顔越しに見る。

 朝早いということもあってなのか、那須は言葉少ない。車内もひっそりとしておりバスの排気音と風を切る音だけが満ちていた。

 那須の膝上に慈しむように乗せられた花束がバスに合わせて揺れる。微かに漂う爽やかな香りが鼻を掠めた。


 浦河町役場でバスを降りる。

 札幌駅から実に四時間近く。長距離移動で凝り固まった身体を伸ばしていると、女性が一人駆け寄ってきた。那須がその姿に気付き声を張る。

「おはようございます。度会(わたらい)さん。すみません、わざわざ迎えに来て頂いて」

「いいのいいの。水臭いこと言わないでよ」

 度会はふくよかな身体を揺らして笑う。歳は五十半ば。Tシャツとジーンズの動きやすそうな服装、明るい色の髪は顎先の高さで整えられている。

 一頻り会話が盛り上がったあと、度会が、あら、と青に視線をやった。

「娘さん? 孝介くん独身だったわよね? もしかして隠し子とか?」

「まさか。違いますよ。この子は騎手をやってる青ちゃん。――大洋の一人娘ですよ」

 突然、度会の目が丸く見開いた。まじまじと青を見つめる。そして、

「まあ、あなたが青ちゃんなのね!」

 ぐいっと距離を詰めた。 

「ごめんなさい。テレビで見るのとは印象が違ったから気づかなかったわ。普通の可愛らしい女の子じゃないのお」

 騎手らしくないということだろうか、と青は一瞬怪訝に眉を寄せる。そんなことはお構いなしとばかりに、度会が思いっきり青に抱きついた。

「こんなに立派に育って……」 

 柔らかい感触。強く抱きしめられ若干苦しいが、それも含めてどこか心地良い。日を浴びた干し草のようなあたたかな匂いがした。

 暫く抱きしめた後、度会は青の両肩を掴んで少し距離を取り、再び味わうように青を見る。そして、溜息を漏らすように言った。

「目元が大洋くん――お父さんそっくりね。いい目をしてるわ」

「……あ……ありがとうございます」

 唐突に褒められて返す言葉も覚束ない。

「度会さん、青ちゃんが困ってるじゃないですか」

「まあ。あら、ごめんなさいね。つい」

 度会は口元に手を当てて笑い取り繕う。本当に表情豊かな人だ。

 度会は仕切り直すようにパンと手を叩く。

「じゃあ、行きましょうか。さ、乗って乗って」

 度会に導かれ、那須と青は駐車場の端に駐められていたステーションワゴンに乗り込んだ。

 車はゆっくりと発進した。景色が流れる。その景色を茫と見ながら青はこの旅の目的を思い起こしていた。

 流されるままにここまで来たがこれからどこへ向かうのだろうか。

 青がちらりと視線を助手席に座る那須の手元に向ける。菊、百合、竜胆、そしてカーネーション……。花の種類や色合いから見ても十中八九供花だろう。お盆の時期を考えると今日の目的は墓参りと考えるのが自然だ。

 花束から運転席へと目線を移す。

 ということはこの愛想の良い女性、度会はその関係者もしくは那須の親族といったところだろうか。しかし、なぜ墓参りに私をわざわざ連れてきたのだろう。これが本当に札幌記念攻略のヒントになるのだろうか。そう、青は首を捻りながら後部座席のシートに沈み込む。

 うーむ、わからない。

 考えがぐるぐると頭のなかで回る。心地よい揺れにいつの間にか眠ってしまっていた。


「着いたよ。青ちゃん」

 那須の声に目を覚まし、緩んだ口の端からみっともなく垂れた涎を慌てて拭う。

 車から降りると辺りの景色に既視感が襲った。その正体にすぐ思い至る。牧場だ。ついひと月ほど前に訪れた翠嵐牧場の姿が今見えている景色に重なったのである。ここは翠嵐牧場よりは少し規模が小さいだろうか。

「じゃあ、度会さんちょっと行ってきますね」

「ええ。ゆっくりね。あたしは家の方で待ってるから」

 度会はそう言うと奥に見える赤い屋根の建物に消えていった。那須が青を振り返る。

「じゃあ、行こうか」

 少し小高い丘になっている場所へ那須は歩き出した。青はその後を少し離れてついていく。古びた馬頭観音を過ぎた頃に辺りを見渡すと、牧草地では馬が数頭草を食んでいた。

「ここワタライ・ファームはもともと度会さんとその旦那さんで経営していた小規模な生産牧場だったんだけどね、今は引退馬の面倒を見る養老牧場になってるんだ」

 青の視線の先を目で追い、那須は説明する。

「養老牧場、ですか?」

「競馬や乗馬を引退した馬が天寿を全うできるように世話をする牧場のことだよ。金銭的な問題もあってなかなか難しいことも多いけどね。ここは馬主さんやファンの寄付とか支援があって運営してるんだ」

「へえ」

 競走馬とは毎日のように触れ合っているが、引退馬と接する機会は少ない。レース場を去った後も馬は生きていくのだと当たり前のことに改めて気付かされる。

 暫く進むと那須が立ち止まった。

 そこには石でできた膝丈ほどの墓碑がぽつねんと立つ。まだ真新しく立派な造りだ。辺りの草花も含め手入れも行き届いており整然としている。しかし、言ってはなんだが現代の人間の墓だとすると些か簡素に過ぎる気がした。

 那須はそこに屈み込み花を供えた。後ろから覗き込むと文字が刻まれている。流麗な英語の筆記体だ。

「『Merry……』」

「『メリーメイカー(Merrymaker)』って書いてあるんだよ」

「メリーメイカー?」

 おそらく人名ではない。それならば、

「馬の名前ですか?」

 那須が頷く。

「ああ。とっくに現役を引退した馬だからね。青ちゃんが知らないのも無理はない」

「もしかして今日の目的って、このメリーメイカーの墓参りってことですか?」

「そう。この子には毎年必ず会いに来ていたんだ。一昨年、天国に行ってしまったから今はこうやって墓参りになってるけどね」

「へえ。そんな凄い馬だったんですね」

 名だたる馬に数多く乗ってきた那須がわざわざ毎年訪れるような馬なのだから。まあ、自分はそんな馬の名前さえ知らなかったわけなのだが。青は恥じ入った。

 しかし、いや、と那須は小さく否定した。

「凄いとか強いだったら、この馬よりも良いのは騎手人生で沢山出会ったよ。イスカンダルとかソムニアとかね。でも、この馬はそれ以上に特別なんだ」

 特別?

 その理由を訊ねる前に、那須は口を開く。

「このメリーメイカーは僕に初めてのG1勝利を与えてくれた馬で――」

 墓碑に落としていた視線を青に走らせ、こう続けた。 


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 風が吹く。

 少しの湿り気を含んだ風は木々をさわさわと揺らした。

「……お父さんが、乗るはずだった馬……?」

 喉が張り付き声が上手く出せない。額には汗が浮かんだ。

 なぜここで父の名前が出てくるのか。

 それに、その口ぶりは騎乗停止や怪我で乗れなかったという類のものではない。父はメリーメイカーという名の馬に乗ることができなかった。何故なら――そのレースの前に死んでしまったから――。

 生きていたら、父が乗るはずだった馬。

「青ちゃん。少し昔話に付き合って貰ってもいいかな」

 那須の言葉に青は恐る恐る頷く。

 父と同期だった那須孝介。その口からなにが語られるのか。 

 ありがとう、と微笑み、那須は静かに語りだした。

「これは、僕がまだ魔術師と呼ばれるずっと前、今から二十年くらい前の話だ」

次回は10月7日(火)更新予定です。

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