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咲島厩舎、総力結集!

「無茶苦茶だ」

 身体の前で腕を組み、咲島はパイプ椅子に凭れかかる。早朝の調教を終え、咲島厩舎の面々が厩舎のミーティングルームに揃った。狭い室内で咲島以外は神妙な面持ちで立っている。

 咲島は視線をぎろりと青に合わせた。

「佐賀でなに吹き込んできたんだ」

「だから何度も言ってますけど札幌記念に出すってことに関しては私はなにも言ってないです」

 咲島は深く皺が刻まれた眉間を掻く。武市の性格については咲島のほうが比べるまでもなく詳しい。青への発言は八つ当たりに近かった。

「クラッシュオンユーはあっちで調教をつけますか?」

 調教助手であり、厩舎の取りまとめ役でもある市口は不安そうに眉を寄せながら咲島に訊ねた。

「そうするしかねえだろうな。函館までの移動は馬運車とフェリーを使って一日がかり。金もかかれば時間もかかる。第一、怪我明けであまり何度も長距離輸送はしたくねえ」

 クラッシュオンユーは怪我も治り、牧場で軽い調教も再開している。しかし、当初の予定でいけば他のクラシック戦線を戦った三歳馬と同様に秋、九月以降のレースで復帰予定だった。

 咲島は腕を組むと目を閉じ天を仰ぐ。誰もが咲島の次の言葉を待った。沈黙が部屋を満たす。

「私が札幌記念まで北海道に残ります」

 青が沈黙を破る。

「依頼はどうするつもりだ。新潟も中京も騎乗依頼があっただろ」

「依頼はちゃんとやります。騎乗が終わったら北海道に戻って世話すれば」

栗東(こっち)での仕事はどうするつもりだ」

「それは……」

 青は言い淀む。

 暫くして咲島は凭れていた身体を起こした。古くなったパイプ椅子が軋んだ音を立てる。 

「市口。こっちはお前に任せる」

「え? それって――」

「北海道に行く。生島、お前も来い」

「は、はい」

 クラッシュオンユーを任されている生島が少々戸惑いながら返事をした。市口は恐る恐る訊ねる。

「あの、北海道にはどれくらいの期間いるつもりですか」

「明日から札幌記念が終わるまでだ」

「そんな!」

 市口は悲鳴に似た声を上げる。

「そんなの無理ですよ。一ヶ月以上厩舎に先生が不在だなんて」

「男が情けねえこと言うんじゃねえよ」

「でも――」

「しっかりしなさいよ」

 視線が一斉にその声の主に集まる。咲島の娘であり、市口の妻でもあるみずきが膨らんできたお腹をさすりながらミーティングルームへと顔を出した。

 みずきは市口を嗜める。

「そんな顔してどうするの? できると思っているからお父さんだって託してるんでしょ。

 青ちゃんたちは北海道で頑張る。あなたはこっちで頑張る。それだけじゃない」

 市口は口を真一文字に結び、みずきの顔をじっと見つめ、少し視線を落とした後に目を閉じた。暫く後、意を決したように拳を握り、そしてかっと目を見開いた。

「わかりました。任せてください」

 みずきは満足そうに頷く。

「――よし、決まりだ」

 咲島はパイプ椅子から勢いよく立ち上がり、辺りを睨めつける。

「こっちはお前らに任せる。しっかり頼んだぞ。――日鷹」

「はい」

「お前の騎乗依頼は近々で決まっているもの以外は札幌で乗れるように調整する。無理を聞いてもらうんだ。生半可な気持ちで北海道に乗り込むってんならただじゃ置かねえぞ」

「はい」

 当然そんなつもりはない。それに突然の出走とはなったが、ようやくクラッシュオンユーに乗ることができるのだ。あの背中を知る自分が一番レースを焦がれていたのは言うまでもない。

 拳を握った。

「絶対勝ちましょう」

 その言葉にその場にいた皆が、おう、と声を上げた。


 北海道に着いてからはまさに怒涛であった。

 咲島と生島が先に函館競馬場に乗り込み、牧場からクラッシュオンユーを迎えた。北海道での開催はすでに札幌競馬場へと移っているが、滞在のための馬房があり調教も函館でおこなうためだ。

 八月に入ると青も本格的に北海道滞在を開始した。

 クラッシュオンユーへの調教はこれまでとは勝手が違っている。怪我明けのため、適度な負荷を見極めなければいけないし、これまでレース直前の追い切り以外は負荷をかけるために調教助手である市口が騎乗していたのを青が担当しなければいけない。咲島、生島と喧々諤々調教内容を擦り合わせる日々が続いた。

 それに加え、三歳馬の春から秋にかけての成長というのは著しい。それを如実に表すように、久しぶりに調教でクラッシュオンユーに跨った青に訪れたのは歓びよりも戸惑いであった。

 皐月賞から休養していることもあって肉が付き、馬体重は成長分を鑑みてもクラッシュオンユーには余剰がある。休み明けの調教はその肉を削ぎ落とし、レースで走れる身体に仕上げる意味があるのだが――、

「なんか、……気持ち悪いです」

「気持ち悪い? 具合悪いんですか?」

 青の言葉に生島は首を傾げる。青は、私じゃなくて、と首を振り、足下のクラッシュオンユーに目を向けた。

「リズムが違うんです」

「リズム?」

 青は頷く。

「はい。全然違うわけじゃないんですけど、だからこそ少しのズレが気になるっていうか」

 ああ、と生島は得心する。

「ストライドとかピッチが変わったのかもしれないっすね。身体的にも精神的にも成長して走り方が変わってきてるのかも。成長っていうのは変化ってことっすからね。ただ、それがいい方に転ぶかはわかんないすけど」

 クラッシュオンユーが変わろうとしているのなら、私もそれについていかなければいけない。そう静かに心に誓い、青は唇を結ぶ。

「大丈夫っすよ。きっと」

 生島は青の心中を察したように呟く。青はなにも言わずに頷いた。

 調教を終え、洗い場で調教でついた身体の汚れを落とし冷やしていく。クラッシュオンユーは調教の時とは打って変わって無邪気にはしゃぐ。

「しかし今年は参ったね」

 不意にそんな声が耳に入る。年嵩の厩務員たちが小休止がてら数人集まって世間話に興じていた。その中の一人が口を開く。

「リアルビューティに出てこられちゃ勝てるもんも勝てんよ」

「まあたしかに強いが日本で走るのは久々だろ? 逆に勝つならここしかないんじゃないか」

「札幌記念の条件でか?」

 勘弁してくれよ、と男は嘆き周囲の笑いを誘った。

 クラッシュオンユーにとって古馬との初対決になる札幌記念。そのなかで最大の障壁として立ちはだかるのがリアルビューティだ。

 二歳女王として迎えた昨年のクラシック初戦である桜花賞は惜しくも二着だったものの、続くオークスでは見事勝利。昨年末の香港カップでの初の海外遠征を皮切りに、春はドバイのシーマクラシック、香港のクイーンエリザベス二世カップと海外を連戦した。勝ちこそつかなかったものの、海外での三戦は強豪相手にすべて三着以内と安定した成績を残している。

 その実力は毎年優秀な競走馬を輩出する四王天ファームにおいても現役の中距離牝馬で一、二を争う。

 札幌記念もまた二千メートルで行われる中距離戦。

 全体の高低差が〇・七メートルしかない平坦なコースであり、コース全体が丸みを帯びていることから直線が短いものの、その分コーナーは半径の大きい緩やかなカーブとなっている。そのためローカル競馬場に見られる小回りの器用さはあまり要求されず、純粋に実力が反映されやすいコースと言えるだろう。

 敢えて不安要素を挙げるならば、函館競馬場と札幌競馬場はその気候条件から一般的な野芝ではなく寒さに強く重い洋芝が使われていることだが、それも些細な問題だ。

 リアルビューティに死角なし、といったところである。

 しかし、他の馬はもとより、このリアルビューティに勝てなければ札幌記念での勝利は夢のまた夢だ。

 クラッシュオンユーが水に濡れた身体をぶるっと身を震わせた。

「へえ、クラッシュオンユーが復帰するっていうのは本当だったんだ」

「那須さん」

「こんにちは。青ちゃん」

 背後に立っていた那須はそうにこやかに笑う。クラッシュオンユーに近づき馬体をじっくりと観察している。

「那須さんも滞在ですか?」

「そうしたいのは山々なんだけどね。有り難いことに地方重賞の依頼もたくさん貰ってるから西に東に大忙しだよ。こっちにもついさっき着いたばかりさ」

 さすが一流騎手ともなると騎乗依頼の数も桁が違う。

「あの、質問してもいいですか?」

「ん?」

「那須さんはリアルビューティとレースで戦ったことありますよね。なんか弱点みたいなのはないんですか?」

「弱点? うーん」

 那須は唇に拳を当て宙を見つめる。暫くして、ふとなにか思いついたようににやりと笑い視線を青に絡めた。

「リアルビューティの弱点っていうのは教えられないけど、どうやったら勝てるのかは教えられるよ」

「ほ、本当ですか!」

「ただし」

 那須は青を手で制する。

「今は教えられない。来週のオフの日僕に付き合ってくれたら教えてあげるよ」

 そう言って、那須はなんとも魅力的に微笑んだ。

次回は9月30日(火)更新予定です。

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