だから僕は馬に乗る
雄大なファンファーレが競馬場を満たす。
その余韻を残したままゲートが開く。
熱く渇いた砂に水を打ちつけるように勢いよく十頭が駆け出した。砂煙が沸き立つ。
佐賀競馬場を象徴する白い砂の上を暫く横並び、直線半ば青の乗るロッキンチェアーズが一頭外から被せるように抜け出して先頭へ出た。迷いのない追い出しだった。
それに追随するように二三頭続く。その一頭、ヒューガドライブの鞍上に北斗がいる。荒々しいダートレースにおいてそこだけには静寂が満ちていた。その身体は馬上でまったくブレることがない。それは類まれなる技術故なのか、将又レースに対しての欲のなさ故なのか。
剣は後方で控えた。
前だけを見据える。
何度となく走ったコース。佐賀競馬の騎手としてここで負けるわけにはいかない。
ド、ド、ド、ド、ド。
列は乱れることなく、大きな変化もないまま早くもレースは後半へと突入していく。イッツマイデイは砂を被っても意気が落ちることはない。
もう七歳を迎えた。競走馬としてのピークは過ぎたが、それを経験とメンタルで見事にカバーしている。このメンバーにあっても決して見劣りしない。なにより、たかだか二年目の自分よりもずっと先輩である。
迷う必要などない。その背中がすべて知っている。
『さあ、コーナー回って直線に入ります。先頭はイッツマイデイ。このまま逃げ切ることができるのか』
鞭を入れ、進行を開始する。
全身の毛が逆立つ。血潮が滾った。
『後方から上がってきたのは佐賀競馬所属イッツマイデイ。みるみる差を詰めます』
スタンドから喚声が浴びせられる。
先頭の青の後ろ姿がぐんぐんと近付いてきた。
一年前、初めて君と戦ったあのレース。あの時、後方から捲ってくる姿に恐ろしさを感じたのと同時にどうしようもなく興奮した。
今度は僕の番だ。そう剣は心で念じる。
ロッキンチェアーズに並ぶ。隣にある筈の青の顔を窺う余裕はない。
ゴール板が近づいた。
「お疲れさん」
頬にいきなり冷たい感触が伝わる。慌てて身を引くと、そこには飲料缶を持った北斗が立っていた。ここは厩舎地区で一人になりたい時に利用する穴場なのだが、まさか見つかるとは思いもよらなかった。
「ほれ」
再びむんずと差し出された缶を受け取る。
「……ありがとう」
「なんやねん。気の抜けた声しくさってからに。ほら、ちょい詰めろや」
言うが早いか、北斗は無理やり剣の隣に腰を下ろした。手に持った炭酸飲料の入った缶を開け、一気に呷る。快哉を上げて口元を拭った。
「せっかく勝ったってのにもっと喜んでみたらどうや。ん?」
「喜んでるって」
剣は鬱陶しそうに北斗の横っ面を手で押した。
「幸せなら態度で示そうよ、ってな。昔の人も歌ってるで」
「しつこいな――」
「なあ、お前、今馬乗ってて楽しいんか?」
それまで軽薄に纏わりついていた北斗が一転、冷たい三白眼で剣を睨めつけた。
「楽しいよ。というか、それをまさか北斗君に言われるとはね」
「僕は大きいレースに興味ないだけで馬に乗るの嫌いやないし。仕事やと思っとるから。――けどお前はちゃうやろ?」
そこで少し間を空けて、
「お前は競馬ってのをもっと純粋な勝負の場だと思っとる」
北斗は言い切った。
「別に否定はせん。でもな、そんな顔してまでやる必要があるんかってことを言いたいんや。これは騎手としてやない、お前をガキの頃から知っとるお節介な兄ちゃんとして言っとるんや」
「……たしかに、そう割り切れたら楽なのかもしれないね」
北斗はなにも言わずに目で先を促す。
「でも、僕はそんな利口じゃないからさ。駄目なんだ。あのレースで味わった感覚を忘れることができない。それどころから想いは日に日に大きくなっていく。もう一度、――いや、何度だってあの気持ちを味わいたい。
地方の、それもそんなに大きくない競馬場の若手騎手である僕の身の丈に合わない夢かもしれない。けど、佐賀競馬を諦める理由にするつもりはない。
そのためだったらどんな辛くて苦しいことも受け入れる」
そこまで言い切ると、北斗が肺の空気をすべて吐き出したような溜息をついた。
「あかん。ここまで阿呆やと思わんかったわ。もう知らん。勝手にせい」
その芝居がかった一挙手一投足に思わず口元が緩み、剣は懐かしむように北斗を見た。
「……北斗君は優しいね。そういうところ昔から変わらないよ」
「ふん。なにを今さら当たり前のこと言うとるんや。僕はええのは顔だけやないんやで」
「そうだね。心配してくれてありがとう。もしかして今回の霧島賞の出走はこっちに顔を出す口実だったの?」
「さあな」
北斗は目線を逸らした。
髪を金色に染めているが、その横顔は記憶の中の姿と変わりない。だからこそ違和感がある。
「でも僕は北斗君のほうが心配かな」
「は?」
「なんか雰囲気変わっちゃってさ。昔はもっと負けず嫌いな人だと思ってたけど。なんか牙が抜けちゃったみたいで」
北斗は肩をすくめる。
「人間歳をとれば変わるんや。人にも馬にも分限ちゅうもんがある。少しだけ賢い凡人の僕は何事もほどほどがええってのを理解したってわけや」
剣は、そんなことない、と言って首を横に振る。
「僕は昔から三人のなかで北斗君が一番上手いと思ってるよ。お兄さんや海里くんよりも」
それに昨日の水浴びの時に見た肉体は日々のトレーニングで培われたものであるのは明らかだった。態度とは裏腹に、その肉体も技術も一流の騎手に足るものがある。だからこそ北斗の現状はまったく腑に落ちなかった。
「――それは見る目ないで、恋太郎」
北斗は口の端でどこか寂しげに笑って立ち上がり、くるりと背を向けた。
「ま、のんびり頑張りやー。中央に顔出すときは連絡忘れるんやないぞ」
「うん。次こそは北斗君を熱くさせてみせるよ」
「はは、やってみーや」
すっかり日の落ちた空。下弦の月が優しく二人を照らしていた。
剣と北斗のやり取りの少し前。
霧島賞を終えた青は、以降の騎乗依頼がないこともあってレースを共にしたロッキンチェアーズの手入れの手伝っていた。
通常三十七、八度ほどの馬の体温はレースを終えたばかりでは四十二度を超える。加えてこのうだるような暑さだ。熱中症を防ぐためにも、迅速かつ適切にその体温を下げる必要がある。
厩舎地区の洗い場で水をかけるとロッキンチェアーズは気持ちよさそうに目を閉じた。
「お疲れ様」
レースでついた砂を落としながらロッキンチェアーズを労った。
逃げは上手く決まったのだが、最後の最後、ゴール板直前でイッツマイデイに差されてしまった。昨年の佐賀競馬での意趣返しといったところだろうか。敵ながら見事だった。
「ああ、ここにいた」
聞き覚えのある声に振り返る。
「武市さん」
ロッキンチェアーズ、そしてクラッシュオンユーの馬主である武市さんが、いつものラフな格好ではなくクールビズのスーツスタイルで立っていた。ダークグレーのスーツがよく似合っている。
青は頭を下げた。
「すみません。最後に抜かれてしまって」
「いや、あれで差されちゃしょうがない。相手が一枚上手だった。またよろしく頼むよ」
「はい。ありがとうございます」
武市はロッキンチェアーズに歩み寄り優しく頬を撫でた。その横顔は自らの子供を見るかのように柔らかい。
「クラッシュオンユーに会ってきたんだって?」
馬の頬を撫でながら唐突に武市は呟いた。青が翠嵐牧場に行ったことを知っている人は少ないが、誰から聞いたのだろうか。
「はい。すごく元気そうで。秋に乗るのが待ち遠しいです」
「そうかそうか。そんなに元気になってたのか」
そう笑いながら武市は青に向き直る。顎を撫で、宙を見てなにやら考える素振りを見せた。そして、
「……北海道か」
ポツリと呟いた。
視線を青に戻す。なにかを見極めるように暫く青を見つめた後、徐ろに胸元からスマホを取り出した。画面を操作し、耳に当てる。少しの間の後、武市は話し始めた。
「――ああ、もしもし、僕だ。すまんな急に。――ん? 悪い話じゃないよ。いやな、クラッシュオンユーの復帰戦なんだが、まだ決まってなかったよな? ――ああ、だったら出したいレースがあるんだよ」
そこで言葉を切り、目を細める。
「〝札幌記念〟に出したい」
スマホの向こう側が俄に騒がしくなったのが離れていてもわかった。そして、向こう側の相手は恐らく咲島だろう。
「――え? 急なのはいつものことじゃないか。ちょうど夏の北海道旅行でも洒落込もうと思ってね。じゃ、よろしくね」
武市は相手の返事も待たずにさっさと通話を切った。
「じゃあ、そういうことで」
「そういうことで、って本当に札幌記念に出すんですか? いくらなんでも無茶じゃ」
「うーん、でも了承は取ったしなあ」
あれは了承を取ったと言えるのだろうか。いや、そんなことよりも札幌記念の開催は八月末。あと一月半しかない。
「善は急げだ。何事も早いほうがいい」
そこで武市はなにか思い出したように短く声を発した。
「――ああ、そうだ。復帰戦だからって負けていいと言うつもりはまったくないよ。勝っておいで。期待してるよ。クラッシュオンユーにも、もちろん君にもね」
武市の目はこれまでに見たことないほどに怪しく光った。
次回は9月23日(火)更新予定です。




