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博奕の駒

 中山競馬場で行われたユースフルジョッキーズシリーズファイナルラウンドの最終戦。優勝して迎えた表彰式。あの大観衆のなか、なにを喋ったのかはよく覚えていない。だが、人生においてあれほど興奮し、あれほど泣いた日はなかったのは間違いないだろう。

 地方競馬の騎手でも中央の騎手と遜色なく戦える。それはこの日本最西端の競馬場で走っているだけでは決して気づくことができなかった。

 YJSを終えてから初めて走った佐賀競馬場の外壁には優勝を祝った垂れ幕が設置され、ファンの作った応援用の横断幕がこの日ばかりは「剣恋太郎」の名でパドックを所狭しと埋める。そしてさらに、レースとレースの間ではささやかながら観客席の前で優勝セレモニーが設けられた。

 今日という一日が剣恋太郎という騎手一人を祝うためにあるというのは、騎手冥利に尽きるというものだ。しかし、なぜだろう――、

 いつもより少しだけ人の多いスタンド。

 慎ましやかな歓声と拍手。 

 その日、佐賀競馬場が少し小さく見えた。


 

「よろしくお願いします」

 いつものように生真面目に頭を下げる剣からレースを終えた馬を五十がらみの四角顔の厩務員が受け取る。

「あいよ。お疲れさん。ナイスレース」

 ありがとうございます、とはにかみながら会釈して剣は足早に次のレースの準備へと向かった。その後ろ姿を黙して見送る。そして、

「気合い入っとんなあ恋太郎の奴ぁ」

 と感慨深げに唸った。

「そうか? いつもあんな調子じゃねえか?」

 頬がこけた細面の歳近い厩務員が呆けた声を出す。四角顔の厩務員は眉を寄せ、わざとらしく溜息をついた。

「お前はそんなんだからいかんばい。見てみい、あの肩の力の入り方。さっきの笑顔もぎこちなかったしな。ありゃ相当気合入っとるぞ。お前、どうせまたぼーっと余所見してたんだろ」

 細面の男は特段気にする様子もなく、気のない相槌を打つ。

「いやな、あの次男坊がどうにもな」

「……ああ、アレか」

 視線の先には一星北斗がいる。なにやら楽しげに関係者と談笑していた。

「去年は三男坊が来とったから今年も来ると思っとったが、まさか次男坊が来るとはな。派手な頭しとるし、ほかの兄弟と雰囲気も違うから少し気になってのう」

「成績もパッとせんしな。まあ、出来の悪い子ほど可愛いって言うだろう。それに顔はいいからこういう催しには丁度良いかもしれん。やっぱ顔がいいのは得だな。夏ちゃんもそうだが、一星先生に似なくてよかったってもんだ」

 そう四角顔の男が大口を開けて笑うと、

「なにがおかしいんだ?」

 その背後から一星調教師が低い声で訊ねた。四角顔の男はさっとクソ真面目な表情を作る。

「やや、これはこれは先生。盗み聞きだなんて人が悪い」

「お前がでかい声で話してるから嫌でも耳に入ってきたんじゃないか」

「あの、俺はなにも言ってないですよ、先生」

 細面の男は慌てて否定した。四角顔の男はその脇腹を小突く。

 一星調教師は七十の定年を一度延長し、薄くなった白髪を撫でつけているが、その背筋はピンと伸び、声にはまだまだ張りがある。この三人はまだ髪が黒々と生い茂っていた頃からの知己の仲であり、一度話すと昔に戻ったようにどこか和やかな空気が流れた。

 四角顔の男が再び口火を切る。

「やっぱり先生としては可愛いお孫さんに勝ってもらいたいもんなんですかい?」

 一星調教師は鼻を鳴らす。

「勝負の世界に孫も息子もあるかね。だいたいあいつは欲がなさすぎる。今回のレースもどこまで本気で乗れるのか。あんなんじゃこの先苦労することになるわい」

「はあ」

「だいたい、霧島賞が九州産馬による九州産馬のためのレースってんなら、当然九州の生き残り、佐賀競馬の俺らが勝ちにいかなきゃならんだろう。違うか?」

 ふた昔ほど前には現存する佐賀競馬以外にも、九州には大分の中津競馬、熊本の荒尾競馬といった地方競馬場があったが、残ったのは佐賀競馬場だけだ。九州の誇りは、この佐賀競馬の小さな双肩にかかっている。

 これには二人の厩務員も、うんうん、と大きく頷かざるを得ない。四角顔の男が訳知り顔で言う。

「となると先生んとこで預かってる恋太郎に勝ってもらいたいもんですな」

 しかし、一星調教師は腕を組み、無言で首を横に振る。

「いんや。あいつも根を詰め過ぎだからなあ。あのまんまじゃ近いうちに潰れちまうかもしれん」

「はあ、上手くいかんもんですねえ」

 二人の中年厩務員は神妙に頷いた。しかし、一星調教師は苦味走った顔を崩し、思いのほか明るい声で、

「なに、若いもんは苦労した方が良いんだ。なんたって若いんだからな」

 とおおらかに笑った。


「よお、恋太郎。さっきのレース上手く乗ったやん」

 検量室から帰ってきた剣の肩を、北斗が背後から忍び寄り乱暴に叩く。お世辞でも嫌味でもなく本心であった。しかし、剣は短く感謝の言葉を発した後、難しい顔でそそくさと去ってしまった。

 北斗は下唇を突き出す。

 はー、やだやだ。

 北斗はあからさまに大きな溜息をついた。

 故郷は遠きにありて思うもの、とは昔の人もよく言ったものだ。祖父の顔なんて一日見れば腹いっぱいであるし、夏も昔と違って随分と生意気になってしまった。なにより剣の拍車がかかったあのクソ真面目ぶりにはほとほと参った。ああ、さっさと今日のレースを終えて栗東に帰りたい。

 鹿児島の雄大な地名を冠する霧島賞とは言っても、地方の一重賞。元は中央の小倉競馬場で行われていたものが、地方競馬に属する九州三場の持ち回りとなり、二場が廃止の憂き目にあったために佐賀競馬場になんとか収まったにすぎない。

 なぜあそこまで熱くなれるのか理解に苦しむ。

 それに、だ。競馬はどこまでいっても詰まる所は()()()()()()()なのだ。馬も騎手もそのための駒に過ぎない。同じように、どれだけ美辞麗句で飾り美談で覆ったとしても競馬場の本質は賭場だ。どれだけ白熱する名勝負が繰り広げられようと、賭場としての魅力がなければ存在することはできない。

 実際、かつて全国で廃場の危機があった。

 地方自治体やそれに準ずる組織によって主催される地方競馬が、地方財政の厳しい懐事情にあって赤字を垂れ流しながら存続するなど、競馬をしない市民にとって言語道断なのは当然至極である。

 そうして地方競馬が次々と廃場となった二〇〇〇年代。その初頭、一地方競馬場で走る一風変わったアイドルホースが耳目を集め再起の一助となった例は確かにあった。しかし、それも所詮焼け石にほんの一滴にすぎず、そのどうしようもない焼け石が穿たれたのは、地方競馬の勝馬投票券をネット上でどこでも気軽に買えるようになったからだ。そこで生じた莫大な金によって地方はようやく息を吹き返した。

 金金金。

 いくら立派なお題目を唱えても、やはり最後に物を言うのは銭金である。

 地獄の血の池で浮き沈みしてなんとか生き長らえた地方競馬は当然これに甘んじることはない。そこからさらに知恵を絞りに絞ったからこそ今日がある。名の知れたレベルの高いレースが金を集めるのは自明であるが、地方馬のレベルは――南関ならいざ知らず――中央に較べるまでもない。だからこそ、勝てない馬を集めた高知の「一発逆転ファイナルレース」や、同じような趣向を持つ佐賀の「SAGAリベンジャーズ」といったギャンブル妙味に溢れたレースを設け、駄馬からも金を生み出そうと躍起になっているのである。その道のりはきっと涙無しには語れないことだろう。

 北斗は大欠伸をひとつした。眦を拭う。

 だから競馬はスポーツであるという考えは苦手である。別に騎手にも特段憧れはなかった。競馬一家に生まれたからなんとなく騎手になっただけだ。と言っても、今は中央で調教師を営んでいる父は一廉(ひとかど)の騎手、というわけでもなかった。「一星三兄弟」なんてのも、それはひとえに兄と弟の地道な活躍によるもの。活躍していた二人がたまたま兄弟であったから、ついでに顔だけは良いぱっとしない残り物を加えてマスコミがそう呼んでいるにすぎない。騎手として静かにそれなりに生きていければと思っていた自分は「一星」というたいしたこともない家名に巻き込まれたといってよかった。

「北斗くーん、こっち向いてー!」

 スタンドの一角から黄色い声援が浴びせられる。先週末に小倉でも見た顔だ。余程暇なのだろう。

 張り付いた笑顔を作って手を振った。瞬間、叫声が沸き立つ。

 ――阿呆くさ。アイドルでもないのになんでこないなことせなあかんのや。

 そう内心で毒づき、北斗は小さく舌を出した。

 

 グローブをはめた手をゆっくり広げ、握る。何度となく繰り返した。人気の少ない競馬場の隅で剣は一人立っていた。

 ――緊張している。

 細く、そして長く息を吐いた。

 不安を振り払うように、レースのことを頭に描く。

 霧島賞。

 三歳以上九州産馬限定競走でダート千四百メートルで行われる短距離戦の地方重賞だ。そしてこの距離は佐賀競馬場で最も施行回数が多い距離でもある。

 スタンド右側のポケットからスタートし、一周千百メートルあるトラックを右回りに走る。最初のコーナーまでの直線はおよそ三百五十メートルあり、ダートの鉄則通り前目の馬が有利ではあるが、極端に脚質の不利はない。自分自身何度も走ったコースである。

 出走馬は十頭。うち中央所属の馬は七頭にものぼる。馬質からいえば中央と地方では当然差がある。だかそれはこのレースレベルであれば騎手の腕で埋めることのできる差だ。いや、必ず埋めてみせる。

 緊張が解れたのか、ようやく革が手に馴染んできた。

 一歩踏み出して日陰を出ると、夏の日差しがじりじりと肌を焼いた。


「いい顔してるじゃん」

 騎乗命令によって、パドックを回っていた馬に青は駆け寄る。ピンクのメンコが可愛らしい。

「でしょ? 今日は頼みましたよ。日鷹さん」

 歳若い厩務員が騎乗を手伝いながら得意気に言う。それに対し、

「任せてください」

 青も力強く言葉を返した。

 馬上で見る景色もまた懐かしい。あの日あの時、佐賀競馬場でのレースがなければ、剣や夏との出会いも、そしてクラッシュオンユーとの出会いもなかった。人生とは思いも寄らない所に運命が眠っている。

 今日のレースもきっとまた未来に繋がっていくはずだ。きっと、いい未来に。

 

 時刻は十六時三十分。発走時刻が、迫っている。

次回は9月16日(火)更新予定です。

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