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SAGA : RETURNS

「……アイルービーバック、鳥栖駅」

 そう感慨深く呟いて、青は電車移動で凝り固まった身体を伸ばす。

 クラッシュオンユーとの久しぶりの再会から一週間後、北海道から遠く離れた佐賀県にある鳥栖駅にいた。ここに降り立つのはほぼ一年ぶり。勿論、佐賀競馬のレースに乗るためだ。 

 額の汗を拭う。

 北海道の夏の暑さも厳しいものがあったが、西日本から九州に至ってはやはり別格である。

 月曜に栗東トレセンに戻ってからは慌ただしかった。依頼のあった馬の調教をつけ、出走手続きを済ませて週末には九州にある唯一のJRAの競馬場である小倉(こくら)競馬場での騎乗を終えた。そして明日は佐賀競馬場での騎乗だ。ここまできても体が暑さに慣れている気がしない。

「それじゃあ、『また帰って来る』じゃん」

 車のバックドアを開けながら、夏は上の方で結んだポニーテールを揺らしけらけらと笑う。

「あれ? そうだっけ?」

 オレンジ色が爽やかな丸っとした可愛らしいボディラインの軽自動車へ荷物を詰め込むと青は助手席に乗り込んだ。夏とは去年の佐賀競馬で初めて会って以来偶に連絡を取り合っていたが、こうして会うのは年末のユースフルジョッキーズシリーズ(YJS)のファイナルステージの時ぶりになる。佐賀に行くので連絡を入れたら今日わざわざ迎えに来てくれることになった。

「なっちゃん運転できたんだね」

 シートベルトを締める。夏は鼻歌交じりに大きめのサングラスをかけた。バックミラーで髪を軽く整えてからエンジンをかける。

「余裕余裕。馬に比べたら車なんて簡単だよ。ガソリン入れてアクセル踏めば進んでくれるんだから。――じゃあ、しゅっぱーつ!」

 そう言って夏はアクセルをベタ踏みする。シートベルトが勢いよく胸に食い込み、潰れた蛙のような声が出た。

 背部ドアに貼られていた真新しい若葉マークが頭によぎる。別れを告げる暇もなく、後方の鳥栖駅がみるみるうちに小さくなった。

 ……アイルービーバック、鳥栖駅。


「いやあ、まさか青があんなに活躍するなんてね。由比くんはわかるとしてもさ」

 夏がサングラスを直しながら話し出す。幹線道路に入り、かかり気味だった車――否、夏はようやく落ち着いた。

「甘く見てもらっちゃ困るよ。有言実行の女だからね。私は」

 青は誇らしげに鼻を鳴らした。

「中央で飛ぶ鳥落とす勢いの騎手様がこんな遠くまで遥々ありがとうございます」

 夏はそう慇懃に語り、そしてお互い弾けるように笑った。ひとしきり笑った後、

「でも楽しみだなあ。剣君も乗るんでしょ、霧島賞。YJSの借りは返さないとね」

 青は組んでいた指の骨を鳴らす。

 (つるぎ)恋太郎(れんたろう)。佐賀競馬所属の騎手であり、YJSでは中央の青や由比、船橋の千崎を退けて優勝した。騎手としての性なのか、佐賀競馬場で走れることになって夏よりも先に思い浮かんだのは彼のことだった。

「うん、まあ……」

 夏の歯切れが悪い。交差点の信号が赤になる。車は停止線の少し前で止まった。

「どうかしたの? 剣君となんかあった?」

「いや、私と恋太郎になにかあったというか……。なんかあいつ、ここ何ヶ月かピリピリしてるんだよね。話しかけ辛いっていうのかな」

「ふーん。まあ、騎手だからそういうこともあるんじゃないの? 私だってレースの前は神経質になるもん」

 自らの騎乗、その勝ち負けに多くの人生、馬生が掛かっているのである。それ自体は別におかしいことではないだろう。しかし、剣のことを小さい頃から一番近くで見てきた夏が違和感を憶えるというなら、なにか変化が起きているというのも事実に違いない。

「うーん……。そりゃあ、霧島賞は凄く大事なレースだよ。九州産馬限定レースだからやっぱりみんな気合入ってるしさ」

 競走馬であるサラブレッドのほとんどは北海道で生産され、九州産馬は全体の一パーセントほど。南九州の三県で細々と馬産が行われているが、それを振興する目的でもこういった九州産馬限定のレースが行われている。霧島賞はその立ち位置、歴史からいっても九州産馬にとって重要な地位を占める。

 今回佐賀で騎乗する機会を得たのも、クラッシュオンユーの馬主である武智さんが佐賀が郷里ということで毎年購入していた九州産馬のうちの一頭がめでたく出走することになったからだ。 

「でも――」

 ちらりと夏が青に視線を送る。

「でも?」

 夏は青の質問が聞こえなかったのかなにも言わずに前を向き直った。もう一度訊こうかと逡巡していると、後部座席からいきなり軽快なメロディが鳴る。着信音。電話だ。

 夏が顔を顰める。

「なに? もしかして剣君から?」

「え? あー、違う違う。まあ似たようなもんだけどね。さっきからしつこいから無視。――ちょっと競馬場行く前にスーパー寄っていい? お祖父ちゃんに差し入れ買っていきたいから。アイスでも買ってこ」

「え? うん、そうだね」

 信号が青に変わる。健気に鳴り続ける着信音をBGMに車は発進した。


 佐賀競馬場。

 午後三時を過ぎたが日はまだ高い。

 競馬場に併設されている厩舎地区に入り、文字が掠れた立て看板を通り過ぎ目的の厩舎に着いた。インターホンを何度か押すが返答はない。

 スーパーの袋をぶら下げながら夏が頬を膨らませた。

「まーたどっかいってる。今日来るって言ってたのに。もう。アイス溶けちゃうじゃん」

「馬房のほうにいったのかな?」

「かも。ちょっと探してくる。悪いけど持っといて」

 言うが早いか、夏は青に袋を押し付けるとあっという間に駆けていった。早く見つかればいいのだけれど。

 何気なく辺りを眺めていると、ふと先程の立て看板に視線が吸い寄せられる。やはり随分と年季の入った看板だ。

「『一……厩舎』……? うーん、なんて書いてあるんだろう」

 目を見開いたり、反対に細めたりしても文字が一部掠れて判然としない。名字だと思うが、血縁者である夏の名字には「一」の文字は入っていない。

 その時、悲鳴が聞こえた。

「! なに?」

 夏の声だ。

 声のした方へと慌てて駆け出す。おそらく馬房、洗い場のほうだ。洗い場の一角でなにやら言い争う声が聞こえてくる。ビンゴ。牽制の意味を込めて、なるべく大きな声を出した。

「なっちゃん! 大丈――」

 目の前の景色に言葉を喪う。

 夏の背中越し、目に飛び込んできたのは上裸の若い男だった。

 肩くらいまで伸びた緩いウェーブのかかった金髪、彫刻刀で刻まれたような細身の筋肉が水に濡れてきらきらと光る。その筋張った手に握られたホースから流れる水がバシャバシャとコンクリートを打っていた。

 金髪の男は肩を竦める。

「そんな怒るなや夏。暑かったんやからしゃーないやん。それに外で浴びるのめっちゃ気持ちええで。やっぱ開放感がちゃうわ」

「そこは馬の洗い場なの! あんたは風呂で浴びなさいよ『ほくと』!」

「いいやん、今はお馬さん使ってないんやから。そんなやいのやいの言わんでも」 

 断片的な情報が一気に脳を駆け巡る。「『一……厩舎』と書かれた掠れた看板」「派手な金髪」「軽薄な関西弁」そして「ほくと」……。

一星(いちほし)北斗(ほくと)……」

 金髪に水を滴らせ、その隙間から覗く切れ上がった目が青を捉えた。

「仮にも先輩なんやから『さん』くらいつけてや、日鷹ちゃん」 

 濡れた金髪を掻き上げてへらへら笑う。

「いいから早く服着て」

「わーかったって。久しぶりやのに五月蝿いなあ、もう。さっきは電話も出てくれんしさあ。いつからこんな子になってしまったんや」

 そうぶつぶつと文句を垂れながら身体を拭き、服を着る。

 一星北斗。

 中央競馬で「一星三兄弟」として知られる競馬一家・一星家の兄弟騎手、その次兄である。競馬学校では猿江や刀坂のひとつ上の代だったはずだ。

 長男である一星陸とはクラシックで相見え、三男の一星海里とはYJSで戦ったこともある。しかしながら、この北斗との対戦はその見た目のインパクトに反してあまり記憶に残っていない。

「なっちゃん、北斗さんと知り合いなの?」

「従兄弟よ。ただ私にとっては祖父ちゃんは母方の祖父になるから名字は違うけどね」

 夏は憮然と答える。それを気にする様子もなく、

「そ、親父の代から一星家は中央で走っとるけど馬に愛し愛される一星家はここ佐賀から始まったちゅうことや。故郷に錦を飾りにきたようなもんやな」

 北斗の芝居がかった身振り手振りが少し鼻につく。

「北斗じゃなくて陸君とか海里君が来てくれたらよかったのに。なんであんたが来るんだか」

「ひっど。傷つくわあ」

 今度は袖口を目元に持っていき、大袈裟に泣く素振りを見せる。勿論涙は流れていない。 

「二人とも忙しいから、こんなところまで出なくてもいいレースのためにわざわざ来たんやで僕は。感謝されることはあっても非難される筋合いないで」

 夏の顔が色をなす。

「ま、ちょうど祖父ちゃんにも会いたかったからええけどさ。夏たちにも会えるし」

 北斗は夏の様子に気づいていない。悪気はないのだろうがどうもデリカシーに欠けている。

「あんたね――」

「久しぶり、北斗君」

 騒ぎを聞きつけてきたのか、いつの間にか剣が隣に立っていた。夏の言葉を遮るように会話に割り込む。北斗の顔がぱっと明るくなった。

「おー、久しぶりやなあ、恋太郎。背――はあんま伸びてへんか。髪型――も前からそんなやった気がするし、……なんやあんま代わり映えせんなあ」

 北斗は屈託なく笑う。

「一年ぶりだからね。そんな変わんないよ、見た目は」

「引っ掛かる言い方するやん。中身だけは成長してますー、みたいな。男は中身だけやなく外見(そとみ)も変わらなモテへんでー」

 北斗はなおも軽口を叩き、にやけ顔で金髪を掻き上げる。

「別にいいよモテなくても」

「はあ? 嘘やん。なんのために騎手やっとるん? 男はモテなきゃ意味ないやろ。――あっ」

 待った、と言って北斗は手を前に出した。ちなみに誰も口を挟もうとは微塵もしていない。

「ああ、わかった。わかっちゃった。なんか立派な理由があるほうが偉いみたいなやつやろ。そうやろ? 嫌いやわあ、そういうの。

 金、酒、車、女。そういうシンプルで品のないやつでいこうや。ダービーで勝ちたいとか、凱旋門賞を勝ちたいとか、夢見る少女やないんやから」

「悪いけど北斗君が綺麗事って言うやつを否定したら僕は騎手をやる意味がなくなる。それにこの一ヶ月、僕は明日の霧島賞で勝つためにやってきた」  

「……まあ、別に恋太郎がどういう気持ちで騎手やろうが自由やけどさあ」

 伏し目がちに野放図な金髪を後ろに結ぶ。その精悍な顔立ちが際立った。

「そういう暑苦しいの嫌いやねん、僕」

 宙の一点を見つめどこか寂しげに北斗は言った。

「そうやって逃げるの?」

 表情を変えずに剣は言い放つ。顔を上げた北斗が俄に険を帯びた。

「逃げてへんわ。お前にとっちゃ霧島賞はたしかに思い入れのあるレースかもしれん。でも、僕に取っちゃたいして思い入れのあるレースやない。いくら焚きつけられても燃えるもんがなくちゃ燃えんのや。――ま、別にいつものことやけど」

「じゃあ、嫌でも熱くさせてみせるさ。本気じゃなくちゃ意味がないんだ。僕は北斗君にも」

 そこで言葉を切る。一瞬、青と剣の視線が交わった。

「日鷹さんにも負けない」

「……あっそ」

 北斗はせっかく整えた頭を乱暴に掻き乱し、勝手にしてくれとでも言いたげにそっぽを向いた。沈黙が流れる。シャワシャワという蝉の鳴き声だけが五月蝿い。

「……あの」 

 視線が一斉に青に向いた。いい加減重くなった袋を掲げる。

「アイス食べません? せっかく買ったのに、このままじゃ溶けちゃう」

「あっ! そうじゃん! やばいって!」

「おお、ええやん、日鷹ちゃん。やるー」

 夏が慌てて袋をまさぐる。北斗はけろっとした顔で、高級アイスの銘柄を述べた。まあ、勿論そのアイスはないのだが。

 ちらっと剣を盗み見る。剣はどこか遠くを見ていた。その姿は青の記憶のそれとはまるで別人のようだった。

次回は9月9日(火)更新予定です。

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