朝日に君は輝いて
黒く塗りつぶされていた空は気付けば藍色に変わり、瞬く間にその青が抜けて白んでいく。その白さは夜に馴染んでいた目に沁みた。不意の光にぎゅっと細めていた目を見開く。そこにあるのは地平の先どこまでも続くかのような草原だった。
国道を外れ舗装されていない土の道へと入っていく。不規則なリズムを刻み、ずんずんと進む。暫く行くと車が止まった。
「ほら、着いたぞ」
長束が前方へ顎をしゃくる。真新しい看板、木でできた控えめなそれには『翠嵐牧場』とたしかに書かれていた。道中聞いた話ではまだ歴史の浅い小規模の生産・育成牧場とのことだ。
「ここが……」
ついに来たのだ。
クラッシュオンユーの故郷に。
早速荷台から荷物を下ろす。長束は看板の横にある一本道、その奥を指差して、
「この道をまっすぐ行くと青い屋根の厩舎がある。この時間だ、もう起きて馬の世話しているのもいるだろうから誰か声掛けてくれ。牧場主の海田さんには事前に連絡は一本入れといたから問題ないはずだ。もしなんかあったら俺の名前でも出せばいい」
「ありがとうございました」
青は深く腰を折って恭しく頭を下げた。長束は眉間に皺を深く刻み、下唇を突き出して手を払う。
「よせよ。用事のついでに乗せただけだ」
「でも、長束さんが乗せてくれなかったら今ここに来れてないのは事実なので。ありがとうございます」
青は今度は頭を下げることなく、まっすぐと長束を見据えた。長束はこめかみを掻き、目を伏せる。
「わかったわかった。礼はいいから行け」
「はい。行ってきます」
「……おう」
長束はそうぶっきらぼうに言い、口元に笑みを浮かべた後、車へと乗り込んだ。唸りを上げて車は地平の彼方へ走り去っていった。その後ろ姿を見送って大きく振っていた手を下ろし、細く伸びた道へと視線を移す。まだ少しひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
一歩踏み出す。
地面は少し泥濘む。深夜に降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。道の脇に生い茂る草に落ちた露が顔を出したばかりの太陽に照らされてきらきらと輝く。湿度の高い青い匂いが鼻腔を抜けて肺に満ちる。
知らず知らずに歩く速度が早くなった。少し息が弾み、汗が滲む。
左手に柵で囲まれた放牧地が見えてきた。朝の風がそれを撫でる。
「あっ」
緑が広がるそこに、黒い影がひとつ小さく佇む。その青毛は朝日を受けて上質なビロードのように艶めく。
先程より強い風が吹いた。
夏の湿り気を含まない、爽やかな風が額に張り付いた前髪を絡め取る。あれは――。
「クラッシュ!」
クラッシュオンユーがそこにいた。
荷物を放って柵へとしがみつく。声に反応したのか、クラッシュオンユーが一瞬青を振り向いた。視線が絡まる。
――が、一瞥すると再びクラッシュオンユーは頸を戻しどこか遠くを見据える。ひとつ欠伸をし、左後ろ脚を持ち上げ、器用に耳の裏を掻く。まるでなにも見ていないかのように。
青は口を尖らせる。
喜び勇んで駆け寄って来て欲しいとは言わないが、そう無関心を決め込まれると癪である。
柵に手をかけてもう一度声を掛けようとすると、
「お姉さん誰?」
不意に下から声を掛けられた。動きを止める。
視線を落とすと、まだ小学校に上がりたてぐらいの男の子が澄んだ丸い目で青を見上げていた。
「……えっと」
「不審者だあ!」
今度は背後から甲高い大きな声を浴びせかけられる。振り返るとさっきの子供より少し大きいおかっぱ頭の女の子が、さらに声を大きくして「不審者! 不審者!」と騒ぎ立ててくる。
「ちょっと、違うって、私は――」
そこまで言ったところで、まあ、この子たちから見れば紛うことなき不審者であることには変わりないかと思い直した。うん、たしかに不審ではある。
しかし、こう不審者を連呼されるというのも心外であるというのもまた事実だ。なにせ(長束が)約束は取り付けてあるのだから。
いつの間にかその小さな手で服の裾をしっかりと掴まれ、隣にいた少年もぎこちないながらも女の子の真似をするために「不審者」のシュプレヒコールが起こる。たまったものではない。
「あのね、私は約束してここに来たの。海田さんと。わかるかな?」
努めて優しく女の子に話しかける。が、
「あたしそんな約束してないもん!」
まったく聞く耳を持たず、女の子は奮然と鼻の穴を膨らませた。
「いや、だからあなたとじゃなくてね――」
「ぼくもしてなーい」
今度は男の子が無邪気に手を挙げた。ああ、もう。乱雑に髪を掻き上げたその時、
「騒がしいぞお前たち」
また、声がした。今度は嗄れた男の声。いい加減うんざりして顔を上げる。少し白髪が混じった真っ黒に日焼けした細身の男。歳は六十近いだろうか。
「不審者だよ!」
女の子は手柄を見せつけ誇らしげに胸を張る。男の子も見様見真似でそれに倣った。
「違います」
青はそれを力なく否定する。男は一瞬目を眇めた後、破顔した。
「おお、日鷹騎手か。早かったね。話は聞いてるよ」
ああ、ようやく話のわかる人が来た。青はほっと胸を撫で下ろした。
「いやあ、すまんな。知らん人を見て孫たちが興奮してしまったらしい」
「いえ、全然。元気で素晴らしいことです。はい」
ということは先程の子供たちも「海田」なのだろう。彼女たちの主張もあながち間違いではなかったということだ。
あの邂逅の後、青は牧場の隅に建てられた家の中へと通された。北海道あたりだとこれが普通なのかもしれないが、ずっと関東で暮らし、騎手になってからも独身寮で暮らしているのでその広さに少し不安になる。
海田は台所から戻ると涼し気なグラスに麦茶を入れて戻ってきた。氷が実に冷涼な音を立てる。ありがたくそれをいただく。喉が鳴る度に身体の細胞ひとつひとつが生き返っていくようだった。
「しかし、無茶したなあ。こんな強行スケジュールで来るなんて。午後には飛行機であっちに帰るんだろう? 長束君も呆れとったよ」
「いやあ……」
誤魔化すように後ろ頭を掻く。少し頬が熱くなった。話題の対象を変えようと青が口を開く。
「でも、クラッシュが元気そうでよかったです。なんならトレセンにいるときより自由な感じで」
憎たらしいくらいに、と結ぼうとした言葉を飲み込んだ。海田は笑う。
「そりゃそうさ。トレセンじゃ狭い馬房に入れられて、やっと出れたと思ったらきつい調教、苦しいレース。そんなのに比べたらここはまるで天国みたいなもんだろう。どこまでも続いていくような大地を自由に駆けることができるんだから。仕事から解放されて優雅なバカンスみたいなもんだ。たまにはリフレッシュしないとな。人間だって四六時中仕事のこと考えてるなんて嫌だろう?」
「え? うーん……」
思えば騎手になってからずっと競馬のことばかり考えている気がする。そんな思いを表情から察したのか、
「まあ、まだ学ぶことの多い若手騎手に言うことじゃないか。それもわざわざ休みの日にこんな遠くに来るような子に」
と海田は笑う。青もそれに苦笑いで返して視線を手元に落とす。
――そうか、全く気付かなかった。
競馬のことを四六時中考えることは苦ではない。むしろ楽しいくらいだ。しかし、そうでない者もいるだろう。クラッシュオンユーにとってもそうではないのかもしれない。だったら――。
ふと、先程クラッシュオンユーを見た時に浮かんで慌てて掻き消した考えが口をついた。
「ずっとここにいれたほうがクラッシュにとっては幸せなんですかね……」
恐ろしい考えだった。クラッシュオンユーと自分のこれまでを否定するような。
「それは無理な話だ」
「え?」
しかし、海田はそれをあっさりと否定する。
「クラッシュオンユーだけじゃない。〝競走馬〟っていうのはレースを走らなくちゃ生きていけないんだ。馬も人間も生きていくには金がかかる。自分の食い扶持は自分で頑張って稼いでもらわないとな。子供が大きくなったのに働かずにいつまでも家にいられても困るだろう?」
「それは……そうですけど。でもそれって、私たちは馬に苦しい嫌な思いをさせていることになるんじゃないですか?」
アレクサンダーに勝ちたい。アマクニに勝ちたい。それはすべてただのエゴなのかもしれない。クラッシュオンユーは果たしてそれを望んでいるのだろうか。
海田は、うーん、と低く唸ると目を閉じて考え込んだ。暫くして目を薄っすらと開くと、宙を見つめ訥々と話し始めた。
「ひとつ面白い話がある。外国の偉い学者さんが調べたらしいんだがな、実のところ馬は別に速く走りたいと思って走ってるわけじゃないらしい。……ああ、一応断っておくが、なにもレースっていう概念を馬が認識しているかどうかという話じゃないぞ。それよりもっと根本的な馬っていう生き物の特性の話だ。
馬っていうのは本来群れで生活する社会的動物。一頭だけ抜け出して群れから逸れちまったら捕食者に食われちまう。つまり一番を目指すのは本能に反する行為なわけだ」
青は小さく相槌を打ちながら黙して話を聞く。
「しかし、競馬は一番速い馬を決めるスポーツ。群れから抜け出す馬が強い。でもそれじゃあさっきと話が食い違ってしまう。それはなぜだろうか?」
青も暫し考えるが、その答えを待たずに海田はこう言った。
「答えはシンプルだ。馬は本能的じゃなくて意識的に一着を目指している」
「……意識的に、ですか?」
海田は頷く。
「肉体を限界まで酷使し、本能の赴くままに逃げる中で見せるそれを凌駕する強い意志。勝つための意志、と言い変えてもいいかもしれない。この意志を持つ馬がレースにおいて勝者の資格を持つ。つまり、レースに勝つためには馬に〝勝ちたい〟〝一番になりたい〟と思わせないといけないということだな」
「……そんなことが可能なんですか?」
海田はごつごつとした指で顎を撫で、困ったように眉を寄せる。
「可能か不可能かと言えば可能なんだろうねえ。まあ、それを騎手が意図してやっているのかどうかはわからないけどな。馬がそういう空気を騎手や調教師、厩務員から雰囲気を感じ取っているのかもしれないし。恩返しをしようと殊勝な馬もいるかもしれん。
どちらにしても、人と馬、言葉を交わせない儂らがどこまで心を通じ合わせることができるのか。それを競馬の神様は試してるんだと儂は思ってる」
そこで一旦言葉を切り、海田は手元の麦茶を啜った。
「苦しい思いをさせているだけじゃないか、ってさっき君は言ったね。たしかに馬にとって競走生活とは辛く苦しいものかもしれない。でも、それは必ずしも不幸に結びつくわけではない。
一番を目指すことが本能に打ち勝つことであるようにそれにもまた打ち勝つことができるはずだ。だから日々ホースマンは馬が勝てるように愛情を込めて馬に接している。それが儂らにできる精一杯だからね。
――でも君は違う。君はもっと近くでクラッシュオンユーに寄り添えるはずだ」
からん、とグラスの中の氷が音を立てる。
「だって君は騎手だから。辛く孤独なレースでたったひとり側にいることのできる存在なんだよ、君は」
まっすぐと見据えられ、思わず背筋を伸ばす。青の肩に力が入り、握り締めた拳に短く切り揃えた爪が食い込んだ。
クラッシュオンユーが自分にとってかけがえのない存在であるように、彼には今自分しかいない。そんなクラッシュオンユーに対してなにができるのだろう。
「もう夏休み入るんだから使わないのは少しずつ持って帰って来るのよ」
「はーい」
「ねえ、早く行こうよ」
俄に部屋の外がどたばたと騒がしくなる。先程の姉弟の登校時間が迫っているのだろう。海田は声のするほうをちらりと見て、片膝に手をついて立ち上がった。
「さて、儂も仕事に戻るかな」
青は勢いよく立ち上がる。
「あの、ありがとうございました! 今日、海田さんに会えて良かったです」
「嬉しいねえ、こんなジジイにそんな言葉をかけてくれるなんて。儂も君に会えて良かったよ。
――せっかく来てくれたんだ、もう少しゆっくりしてくといい。帰りは空港まで送るから」
「ありがとうございます! あの、私、クラッシュオンユーにもう一回会ってきます!」
「……ああ、たっぷり見ておくといい」
青は玄関から飛び出し、広大な草原に立つクラッシュオンユーのもとへと何度も転びそうになりながら駆ける。その姿は先程に見たのと同じようにそこにあった。影が少しずつ大きくなる。
息が弾むのは、心臓が跳ねるのは、走っているからだけではきっとない。
次回は9月2日(火)更新予定です。




