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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第五章 夏、少女は駆け巡る
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夏夜、朝の方角へ

『さあ、四コーナーを越えて向かえる長い長い府中の直線。最後方から駆け上がってきたのはクラッシュオンユー』

 馬蹄の音に紛れてやけに鮮明に実況が聞こえる。

 眼下のクラッシュオンユーが馬群の大外を回って馬場を駆けていく。一頭、また一頭と抜き去り瞬く間に先頭の馬の背中を捉えた。

 雷鳴のように激しく轟く蹄の音。

 アレクサンダーだ。

 手綱を強く握り、クラッシュオンユーの鬣に顔を埋めるようにしがみつく。すると後方から風を切り裂くような音がした。

 アマクニである。

 クラッシュオンユーよりも後方、雄大な馬体が迫る。遮眼革をしていない左眼がぎらりと光った。

 暫くして三頭は並ぶ。

 しかし、クラッシュオンユーの脚が宙を掻くかのように速度が上がらない。忽ち二頭は私たちを置き去りにする。

 後方からの轟音。

 ピクチャレスク、ジュラシックジャズ、ラットアタット、バショウセン、トルメンタデオロ、グレイテストマン、ラパンシャスール――これまで戦ってきた馬が次々と襲いかかってくる。そして名もわからぬ馬でさえ次から次へとクラッシュオンユーを追い抜いていった。

 馬蹄の音、息遣い、喚声、叫喚、罵声、すべてが遠ざかる。

 そして視界が、闇に呑まれた。

  


 運転席側のドアが開いた音でハッと目を覚ます。

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 カーナビにデジタルで表示されている時刻はとうに零時を回っていた。日曜のレースが終わった後、急いで荷造りして深夜に函館競馬場を発ったので、出発から一時間ほど経ったことになる。

 寝惚け眼に強烈な光が突き刺さった。少し置いて目の前に建つそれがコンビニだと気付く。

 ゆっくりと視線を横に移すと、乗り込んできた長束と目が合った。

「ん? ……悪いな、起こしたか?」

「いえ。すいません……。寝ちゃってて」

「いいよ、別に」

 言葉の通り、本当に気にする様子もなく運転席に腰を下ろした。

「いえ。運転してもらってるのにそういうわけにはいきません。起きてます」

 長束はこちらを見て小さく息を吐いた後、コンビニの袋から無言で缶コーヒーを取り出し青へと放った。慌ててそれを掌中へ収める。

 缶から伝わる冷たさがゆっくりと手に沁みていった。

「起きててもいいけど、あっち着いた時に後悔しても知らないぞ」

「……ありがとうございます」

 エンジンが唸りを上げる。

 眩いばかりのコンビニの光に別れを告げ、車は再び夜の闇へと走り出した。

 暫く走るとフロントガラスをひとつ雨粒が打つ。窓を打つ音の間隔は短くなり、すぐにそれは間断なく拡がる。それを優しくワイパーが拭った。

 雨音が車内の沈黙を際立たせる。

 すっかり明かりもない。カーナビに映る街並みが下へ下へと流れていなければ、前へと進んでいるのかも不安になるくらいの暗闇だった。

 無言が流石に気まずくもあり、青はもぞもぞと小さく腰を浮かし、何度となく席へ座り直した。どうも据わりが悪い。それを察したのかどうか、長束はなにも言わずにカーオーディオにあるボタンを押した。間を置かずにラジオが流れる。深夜に似つかわしくない賑やかさが沈黙を埋めた。

 思わず、ほっと息を吐く。

 流れるラジオからは若い男がリスナーからの投稿を読んでいるところだった。時折短いツッコミを入れながらも終始和やかな空気が流れる。誰なのかはまったく存じ上げないが、心のなかで手を合わせて感謝した。あとで調べて感謝のメールでも送ろうか。

 そんなことを半ば真面目に考えていると、

「今年の皐月賞、俺はクラッシュオンユーが勝つと思ってた」

 気持ちが楽になったのは長束も同じなのか、喉につかえていたものを吐き出すように呟いた。思わず耳を疑う。俄には信じられない言葉だった。アレクサンダーが圧倒的な人気を集めていた皐月賞。多くの人々がアレクサンダーの勝利を思い描いていたことだろう。

 それなのに――。

「……それ、本当ですか? 本当にクラッシュオンユーが勝つと思ってました?」

「こんな嘘ついてどうするんだよ」

 長束は一笑に付した。

「でも――」

「待った。その前にひとつ質問だ。トレセンで馬を一番知ってるのは誰だと思う?」

 そう言って青の返答を待たずに長束は訊いた。長束の欲している答えの察しがつき、わざとそれ以外の答えを口にする。

「調教師じゃないですか?」

「たしかにな。調教師は馬を育てるプロだ。でも、一つの厩舎で与えられる馬房は多くても三十馬房、レース毎に入れ替えていっても一度に預かれる馬は多くて七十頭くらいが限界だ。東西のトレセンで競走馬登録されている馬は九千頭弱だから一パーセントにも満たない」

「じゃあ、騎手です。騎乗数トップの騎手は千回近いレースに出ますし」

「なるほど。でもそれはあくまで騎乗回数。純粋な頭数で言えばもっとずっと少なくなる。でもまあ悪くない答えだ」

「……わかりました、わかりました。装蹄師って言って欲しいんですよね。装蹄師って」 

 むっとして青は返した。

「言って欲しいんじゃなくて事実を言ってるだけだ」

 当たり前だというように長束は言い切る。

「たとえば後東装蹄所で受け持っている馬は栗東トレセンに所属する馬、およそ三百頭。牧場で打っている馬も含めればもっとずっと多くなる。

 装蹄作業は馬の歩き方、走り方を見て、馬の脚を触り蹄を整える。まさに馬のすべてを見る作業だ。蹄鉄は二週間毎に交換するし、それを年間何千回と繰り返していれば馬の良し悪しから始まって結構なことがわかるようになるってわけだな。

 だからこそ俺はクラッシュオンユーが勝つと思った」

 改めて言われると筋が通っているように思える。質というものは往々にして莫大な数をこなしてようやく辿り着くものだ。そしてなにより、長束の言葉からはたしかな自信が迸る。

 いつの間にかラジオからは最近流行りのポップスが流れていた。

「クラッシュオンユーはいい脚をしていたよ。しなやかでいて程よい弾力がある筋肉。しっかりした繋ぎ。薄い皮膚と蹄。昔一度だけ装蹄した馬とよく似ていた。それも物凄い走る馬とね。驚いたよ。こんな事あるんだ、って」

 クラッシュオンユーに似ている馬。それはまさか、

「もしかして……ノッキンオンハートのことですか? それって」

 クラッシュオンユーの父であり、あの有馬記念で私の運命を狂わせた馬。きっとそうだ。

 しかし、昂る想いに反して長束はあっさりかぶりを振った。

「違うよ。いや、似てたのかもしれないが、ノッキンオンハートが現役の頃は俺もまだ修行の身でそんな大層な馬の装蹄は任せてもらえなかったから、わからないって言ったほうが正しいか」

「じゃあ」

 その馬の名前は、と訊くと、長束は前を見据えたまま言った。

「トルバドゥールだよ」

 暗闇にその名前だけがやけにくっきりと浮かび上がる。

 トルバドゥール。

 押しも押されせぬ現役最強馬の名前。クラッシュオンユーがトルバドゥールに似ている。「最強」の萌芽が彼にもまた芽生えているというだろうのか。

「俺がトルバドゥールを装蹄したのはあの菊花賞前。先生が持病の腰をやって急遽代わりに打った時だ。いまでもその時の感触がこの手にある」

 長束はハンドルを握り直した。

「師匠が言っていた強い馬の脚ってのはこういうのか、って思った。あの菊花賞、世間はデザートストームに夢中だったが俺はこの馬が絶対に勝つと確信していた」

 明かりもとうに途切れ、その表情は暗闇に溶けて窺うことはできない。

「そして今では現役最強馬だ。まさかここまでとは思わなかったけど。このままいけば日本競馬史において史上最強馬として語り継がれていくことはまず間違いないだろうな」

 そこで言葉を切る。そして長束は自嘲気味に笑った。

「――まあ、格好つけたけど所詮は勘は勘だ。実際、トルバドゥールは当たったが、クラッシュオンユーは外れたしな」

 ワイパーがキュッと音を立てて雨を拭う。

「……でも、良かったです」

「良かった? なにが?」 

「クラッシュオンユーがそんなに強い馬なら、私がもっと頑張ればいいだけじゃないですか」

 長束の口角が上がる。

「えらく自信満々じゃないか。できるのか?」

 わからない。だが、だからこそ力強く言い切った。

「必ず」

「そうか」

 長束は短く言い。否定も肯定もしなかった。

「……あの、長束さんは馬の力を引き出すために蹄鉄を打ってるってこの前言ってましたよね」

「ああ、それが装蹄師の仕事だからな」

「だったら騎手の――いえ、私の仕事は馬を勝たせることです。

 百パーセントじゃ終わらない。そこから十パーセントでも二十パーセントでも上乗せして、能力を引き出して馬を勝たせる。自惚れだとか、無謀だとか後ろ指さされたっていいです。私はそういう騎手になります。絶対に」

 膝の上で握っていた拳に自然と力が入る。後半に行くにつれて自分でも驚くほどに語気が強くなった。

「……馬の本来持ってる以上の力を引き出す、か。言うは易しだが、そんなのは魔法をかけるみたいなもんだ」

 ――魔法。魔法か。

 那須孝介の姿が頭に浮かんだ。どこまでも精緻で計算された奇術。あれが魔法だというなら、私も必ずあの魔法を手に入れてみせる。

「いいですね、それ。〝魔術師〟――はもういるから、差し詰め私は〝魔女〟ってところですね」

 鼻の穴を膨らませて得意げに言った青を尻目に長束は声を上げて笑った。青は頬を紅潮させて長束に噛みつく。

「ちょっと、なにが可笑しいんですか!」

 長束は眦を拭って、

「いや、なあ。魔女、ねえ。……いけて魔法少女とかがいいところじゃないか?」

「魔法少女ぉ?」

 思わず声が裏返った。

「嫌ですよ。なんかそれじゃ可愛って感じ強すぎるし、子供じゃないんだから。それにかっこよさが足りないです。かっこよさが」

「いいじゃないか。似合ってるぞ、〝魔法少女〟」

「似合ってません」

 腑に落ちない顔で青が文句をひとりごつなか、長束はふっと息を吐いた。

「――魔法、か」 

 青に聞こえないくらいの声で噛み締めるように長束は呟く。

「え? 何か言いました?」

 首を傾げる青に、なにも、と長束は短く返す。暫くして車内には再びラジオから流れる音だけが満ちた。

 車はただひたすら夜を往く。

次回は8月26日(火)更新予定です。

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