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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第五章 夏、少女は駆け巡る
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夏にして君を想い

 七月中旬。 

 宝塚記念も遠くに過ぎ去り、日本中いたるところで当たり前のように猛烈な暑さを記録している。比較的涼しいとされるここ北海道へも夏は構わず追いかけてきていた。

 汗でじっとりと衣服が肌に張り付いた。衣服の胸元を前後させ僅かばかり風を通す。

 日鷹青は函館競馬場内にある厩舎地区にいた。

 北海道での開催ではその地理的条件からトレセンからの輸送時間の問題があり、多くの馬が滞在競馬を選択する。函館競馬場と札幌競馬場での開催のおよそ二ヶ月の間、多くの競馬関係者もまたこの北海道の地に集っていた。

 騎手である青も二週間前から今週末のレースが終わるまで北海道に滞在している。 

 正午を過ぎ、青は馬房の手入れのついでに涼を取りがてら水を撒く。ホースから出る水は陽光を受けて生き生きと弧を描き、地面を愉しげに跳ねた後は遊び疲れたように浅い窪みに溜まる。

 物言わぬ水溜りを見つめ、今日何度目かわからない溜息を吐いた。ダービーが終わってからというものどうも気持ちが入らない。

 それはレース結果にも如実に表れていた。春までの勢いはすっかり影を潜め、せっかく増えた騎乗依頼も徐々にではあるが着実に減ってきている。

 握りしめたホースの水勢が強くなった。

 秋を迎え、さらに強さを増しているであろう彼らにこのままで勝てるのだろうか。

 そんなことを悶々と考えていると、厩舎横に白い軽のワンボックスが止まった。運転席から出てきたのは長束(なつか)士門(しもん)だ。北海道開催の間何人かの若手装蹄師がこちらで滞在して装蹄を担当しているが、長束もその一人である。

 こちらを一瞥すると、リアゲートを開け仕事道具や蹄鉄を下ろしていく。ひしめき合う金属がかちゃかちゃと擦れる音だけが辺りに響いた。

 今日は北海道に遠征している咲島厩舎所属の馬、ミラクルポップの装蹄日だ。今週末にレースを控えているので蹄鉄を新しいものに履き替える。

「じゃあ、馬を引いて何回か往復してくれるか?」

 装蹄の用意が整うと、いつものように長束は言った。

 青は頷き、ミラクルポップの手綱を引いて洗い場までの間のスペースをゆっくりと往復する。長束は馬を見る角度を変えながらじっくりと歩様を確認していく。そして、小さく、だが力強く一度頷いた。

「うん。わかった」

 それが長束が装蹄を始める合図だ。

 青はミラクルポップを洗い場に連れて行き、支柱に繋がれた張り綱に固定する。長束は左後肢を両太腿で固定し、蹄鉄を外して削蹄、そして新しい蹄鉄を小気味いいリズムで打ち付ける。あっという間に一本目の脚の装蹄が終わった。そこから四本の脚が終わるまではものの十五分程。流石の手際であった。

「少し蹄鉄の角度を内向きに調整した。これでもっと滑らかに歩けるはずだ。引いてくれ」 

 言われるままに馬を引く。たしかに先程までより馬蹄の音が生き生きとリズムを刻んでいるのが分かる。

 長束は僅かに相好を崩し、満足そうに目を細めた。

 その横顔を茫と見ていると、不意に長束の猛禽類のような眼が青を捉える。

「そんな調子で週末乗るのか?」

 詰問というにはいささか優しい声色で長束は青に訊ねた。皐月賞後のあの剣幕で厩舎へと来たイメージがどうしても浮かぶが、普段はそれとは異なり泰然自若、暗闇に潜み獲物をじっと待つ夜禽を彷彿とさせる。

「俺はそいつがレースで最大限に力を引き出せるように蹄鉄を打った。お前はその馬を勝たせるために明日のレース乗れるのか?」

「あ、当たり前じゃないですか」

 言葉とは裏腹に情けなく声が上擦った。心の裡を見透かされているようで頬が熱くなる。

 長束がなにも言わずに青をじっと見た後、ぼそっと呟いた。

「お前のなにが良いんだろうな」

「……は?」

「いや、お前を預かっている咲島先生はともかくとして、田知花先生や由比先生がなんで乗せるのかまったくわからない。まさかアマサカルにまで乗せるなんて思いもしなかった」

 長束のそれは侮蔑ではなく純粋な疑問といったようだった。侮蔑であれば喧嘩腰で受けて立つのだが、そのせいで返答に戸惑いが出てしまう。

「それは……私がレースで結果を出してきたからじゃないですか?」

 田知花先生がアマサカルに乗せた真意については伏せた。乗ったのは事実である。長束はゆっくりと頷く。

「たしかにな。特にクラッシュオンユーの活躍はお前の功績と言ってもいいかもしれない。――だが、逆に言えば日鷹青という騎手はそれだけで語れてしまう。

 地も涙もないことを言えば、お前はクラッシュオンユーがいなければそこらにいる若手騎手と変わらない」

「そんなことは――」

 そんなことはない。そう言い切ることができればどれほど良かっただろう。それはクラッシュオンユーと離れたここ三ヶ月余り自分自身が痛感していたことだった。

「――まあ、いいか」

 長束は既に興味を失ったように立ち上がった。

「クラッシュオンユーも怪我が治って元気だったし、秋には答えがわかるだろう」

 長束はあっさりと言ったが、青にとってそれは衝撃的な言葉だった。

「……え? 治った……?」

 クラッシュオンユーが?

「ま、待ってください! クラッシュの怪我もう治ったんですか? そもそもなんでそれを長束さんが知ってるんですか?」

 私も知らないのに。

 長束片眉を吊り上げる。

「なんでって、会ってきたからだよ、この前。北海道滞在中はいい機会だから馬産の盛んな日高のあたりにある牧場を回ってるんだ。……なんだ、てっきり会ってたかと思ったよ。怪我も治って軽い調教を始めてたから近いうちにトレセンに戻るだろう」

 青から長束に問いかけたものの、その後半部分はほとんど耳に入ってこなかった。

 ――クラッシュオンユーに会ってきた。

 青は口を半開きにして瞠目する。

 ……そうか。そうだ。こんな簡単なことに思い至らなかったなんて。今までも答えはただレースの中にあったわけではない。それはいつも、()()()()()()()レースの中にあった。

 長束の言った通り、クラッシュオンユーは日鷹青という騎手からは切っても切り離せない存在だ。ネガティブな意味でもポジティブな意味でもそれは間違いない。

 そう、会えばいいんだ。

 今だからこそ、私だからこそクラッシュオンユーに会わなければいけない。そう思うやいなや、心は凪いでいた湖面が水鳥の羽搏きによって激しく水飛沫を上げるかのように乱れた。

 一度飛んだ鳥は目的地へと辿り着くまで羽を休めることはない。

「クラッシュオンユーはどこにいるんですか!?」

 急に身を乗り出し噛みつくように訊いてきた青に、長束は後退り怪訝な顔を向けた。

「どこって、……新ひだか町の翠嵐(すいらん)牧場だよ」

 翠嵐牧場。脳に刻み込むようにその言葉を反芻する。

「――わかりました。ありがとうございます」

 そう言うやいなや踵を返そうとする青を長束は慌てて止めた。

「ちょっと待った。……まさかこれから行くつもりなのか?」

「え? そうですけど……?」

 長束はあからさまに大きなため息を吐いた。

「ここから翠嵐牧場まで何時間かかると思ってるんだ。だいたい明日は開催日。今日二十一時の調整ルーム入りまでに間に合うはずがない」

 それは流石にまずい。

「うっ……じゃあ、どうすればいいんですか!」

「そんなこと俺に訊かれてもな……。週明けの月曜にでも行けばいいじゃないか。オフだろ?」

 それはそうなのだが、

「……ちなみに翠嵐牧場までってどれくらいかかるんですか?」

「車で四、五時間ってとこかな。当たり前だけど電車だともっとかかるよ」

 青は口元に拳を当て情報を整理する。

 土日はレースに乗るため、どれだけ早く動けても日曜のレース終わりからだ。当然、そこからの電車移動では目的地である新ひだか町の翠嵐牧場まで辿り着けないだろう。

 北海道滞在は今週末まで。火曜には栗東トレセンに戻らなければいけない。月曜の航空チケットを遅い時間に振り替えても、電車の動いている時間を考えれば相当無理をしなければならないだろう。

 車の免許でもあれば話は違ってくるのだが。残念ながら持っていない。

 トレセンへ帰るのを遅らせるか?

 そんなことを考えていると、不意に視界にそれが入ってきた。

「……あった」

 その視線の先にあるのは長束が乗ってきた白い軽のワンボックスだ。

 長束は青の表情と声色から不穏な気配を察して足早に去ろうとする。が、時すでに遅し。一足早くその腕を掴んだ。

「長束さん。ひとつお願いがあります」

 青の瞳がギラリと光る。

「無理だよ。俺はその日は別の牧場に行かなきゃいけないし絶対無理だ」

「それって日高のほうの牧場ですよね? その途中で降ろしてください。あっちに朝着ければ帰りは自分でどうにかします」

「そんな勝手なことを言われても――」 

「お願いします! 長束さんしかいないんです!」

 長束の言葉を遮って勢いよく頭を下げる。

 今はそれしか方法がないのだ。

 その後、幾ら長束が抵抗しても青は引き下がることなく、結局最後は長束が折れるほかなかった。

次回は8月19日(火)更新予定です。

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