魔術師の杖
それに一番早く気付いたのはグレイテストマンの鞍上、猿江圭だった。
十八頭中、十七番目。最高方で息を潜めていた彼の目の前で那須が逆手に持っていた鞭を順手に握り返し掲げた。
――左手?
その光景を見て猿江の頭に疑問が浮かぶ。
競馬場のコースには右回りと左回りがあり、各競馬場でどちらか一方向にしか走れない(地方競馬における大井競馬場のように右回りでありながら、近年左回りのレースが新設された競馬場もあるが、このような両回りの競馬場は世界でも唯一の例である)。そして東京競馬場は左回りになる。
基本的に騎手は外側の手、つまり右回りであれば左手、左回りであれば右手に鞭を持つ。鞭を入れられた側と反対の方向へと馬の推進力が向くからだ。つまりこのレース、右手で鞭を持つのが普通である。
そんなことを考えていると、前方の那須は鞭を振り下ろさずアマクニの左側頭部のあたりで小さく円を描く。まるで魔術師が呪文を唱えるような所作だった。
――ああ。
そこで猿江は得心した。
――〝見せ鞭〟か。
見せ鞭。
その名の通り、馬に鞭を見せることだ。鞭を使うことで機嫌を損なう馬に対して用いられたり、急に鞭を入れると驚く馬に対して事前の合図としても用いられる。
アマクニは右眼にブリンカーを装着しているためわざわざ左手に鞭を握り変えていたということだ。わかってしまえば手品のタネ明かしのように他愛もない理由だ。
小さな疑問も晴れ、猿江はグレイテストマンに鞭を入れた。グレイテストマンは小気味よく鞭に反応し、ギアを上げる。
そうして目の前を走るアマクニに半馬身程まで距離を詰め馬体を併せた頃、那須は鞭を引いた。流れるような手際で、左手に持っていた鞭を軽やかに右手に持ち替える。
そして、振り下ろした。
馬蹄が地面を強く打つ音を乾いた高い音が切り裂く。
瞬間、時が止まる。
先程まで掌中に捉えていたアマクニからあっという間に引き離された。アマクニはまるで魔法にかけられたように加速した。
魔法をかけたように馬を一変させる。
そんな、那須孝介を評する時に大仰で時に陳腐にも思える言い回しが、たしかな現実となって目の前に現れた。
振り下ろされた鞭はさながら魔術師の杖。
通常の乗馬の姿勢と異なり、鐙を極端に短くし上体を水平に倒すモンキー乗りでは上腿や下腿の力を使って馬を御することができない。そのため、鞭や手綱をどれだけ有効的に使うのかというのも騎乗においては非常に重要な技術になってくる。その些細な所作のひとつひとつが騎手の実力を雄弁に語るのである。
猿江の全身から汗が噴き出す。
鞭の合図によってアマクニが手前を替えた。
ただそれだけだ。それだけにすぎない。
手前替えは特別な技術でもなんでもない。レースにおいてはごく当たり前に行われていることだ。
多くの馬はラストスパートに際してこの手前替えを行うが、それは同じ手前で走り続けることで特定の脚に体重の負荷がかかり続けているためだ。疲労が蓄積していない側へと手前を替えることでラストスパートに備えるのである。
――だが。
猿江は生唾を飲み込む。
あまりに速い。異次元の加速。
この馬はこれほどまでに速く走ることができたのか。
猿江は呆然とアマクニを見送ることしかできなかった。
『先頭、コスモナビゲーター粘る粘る! それを追うのはトルメンタデオロ、ラットアタット――』
山背が先頭で風を切る。
耳を劈くような喚声の中でも、後方の馬蹄の地面を打つ音はどんどん大きくなった。だが、それ以上に心臓が体内を飛び出さんばかりに激しく脈動し、音を立てている。
いくら長い府中の直線といえど、時間にすれば三十秒ほどでゴールまでたどり着く。
三十秒。
この永遠にも思える時間、このまま先頭を走り切ればダービーの栄光が降り注ぐ。
暑い。汗が止め処なく流れる。
今日の府中は、あの日の皐月賞とはまるっきり正反対だ。短い直線、冷たい雨で馬場が悪いなかで紛れの三位だと書かれ言われたレース。そして今日のレースも十番人気で迎えた。
悔しかった。
だから、皐月賞の三位を決して紛れではないと証明してみせる。そしてなにより、コスモナビゲーターはそれに相応しい馬だ。
残り一ハロン(二百メートル)を目前とし、数多の馬が襲いかかってくる。
恐怖と興奮がないまぜになる。だがそれでいい。寧ろ心地良いくらいだ。すべての馬から狙われる。それが逃げ馬の醍醐味ではないか。
山背の口角がくっと上がった。
俺は今、この最高の舞台で最高のジョッキー達と本気で戦っている。騎手としてはこれほど名誉なことはない。
「……ありがとう、ナビ」
ここまで連れてきてくれて。
山背は噛み締めるように呟いた。
一頭、また一頭と熾烈な争いから脱落していく。
中団のトルメンタデオロも陥落目前であった。
長い長い府中の直線、ゴールは遥か先で悠然と勝者を見定めていた。
府中の直線は競走馬の、そして騎手のポテンシャルを嫌でも曝け出す。
「お前にダービーは相応しくない」
「なんでお前が走っているんだ」
「恥さらし」
浴びせられる喚声。それは形を変え、怒号となり、罵声となり、嘲笑となり俺を責め立てる。
番場は後方から迫る馬に呑まれながら必死の形相で馬を追う。それがたとえただの徒労であろうと、追う。それしか、今の俺に残されたものはない。
なぜ、ハナ争いで諦めてしまったのか。行くべきではなかったのか。覚悟を決めていた筈なのに。
なにも間違っていなかった筈だ。間違いなく最良の賢い選択だった。
いや、違う。俺は自分を信じることもなく、馬を信じることなく、ただ勝負から逃げただけだ。言い訳を求めただけだ。
いつもそうだ。
あそこで俺のレースはとっくに終わっていた。
最後の直線、脱落するものもいれば当然先頭へと駆け上がるものもいる。
ピクチャレスクは乾いた馬場で本来の素軽い末脚を余すことなく発揮する。かと思えば、その隣でアレクサンダーは地を割らんばかりに踏みしめる。
二頭は苦も無くトルメンタデオロを躱した。
その背中が物語る、圧倒的な才能、圧倒的な力。
どうやったら手に入れることができる。ここを走るには、俺には足りないものが多すぎる。
ジュラシックジャズ、そしてアマサカルが横を通り過ぎる。成海、日鷹の横顔が掠めた。まっすぐと前だけを見据え、こちらを歯牙にもかけない、その横顔が。
かっと頭が熱くなる。
「……! お前たちにだけは負けねえ……!」
僅かに残った意地が番場を奮い立たせる。
その時、視界の端に黒い影が横切った。口から、その影の名前が零れ出る。
「――アマクニ……!?」
『内から抜け出したのはピクチャレスク! 軽やかな足取りで先頭を捉えます! コスモナビゲーターここでついに陥落!』
ルピが跨るピクチャレスクが踊り出る。そして、
『皐月賞馬アレクサンダーも上がってくる! 皐月賞に続き、ダービーもその手に掴むのか! ……並んだ並んだ! ピクチャレスク、アレクサンダー並びまし――』
そこで、実況の声が途切れた。
もう一頭、猛然と駆けてくる馬をその目に捉えたからだ。
『ア、アマクニ! 大外からアマクニが急襲!』
アマクニが府中の直線を切り裂く。
風というには些か鋭く、雷というには些か静か。それは研ぎ澄まされた白刃、その一太刀に似ていた。
アマクニはあっという間に先頭で並び立つアレクサンダーとピクチャレスクに迫る。
『先頭まであと二馬身、……一馬身、……並んだ! 並びました! 三頭並んだ! ゴールはもうすぐ、さあ、ダービー馬の栄光を掴むのはどの馬か!』
三頭、ほぼ差がなく横並び。
残り百メートルを切る。
みるみるうちにゴールが近づく。
ゴールまで、あと五完歩。
四――、ピクチャレスクが抜け出す。
三――、アレクサンダーもそれを抜き返す。
二――、アマクニも負けじと追う。
一――、ここでアレクサンダーが僅かにリードを保つ。勝利の女神が微笑んだ。
――かに見えた。
外を並んで走るアマクニの頸がぐっと伸びる。
『三頭並んでゴールイン! 今年のダービー、勝者はどの馬なのか! アマクニか、アレクサンダーか、ピクチャレスクか! 波乱の展開になりましたダービー、確定までしばらくお待ちください』
電光掲示板の四着五着にのみ番号が表示された。一着から三着は表示されないまま、代わりにその間に写真判定を示す『写真』が表示される。
騎手は検量室前へと引き上げた。ターフは先程の熱狂が嘘のような静謐に満たされる。
単勝人気一・一倍。多くの観客がアレクサンダーの勝利を、三冠への挑戦権の獲得を願った。
暫くして『確定』のランプが灯る。
判定写真が掲示板のスクリーンに大写しになった。
ローマ数字のⅠの隣に「18」、Ⅱの隣に「3」、Ⅲの隣に「8」。それぞれの差は「ハナ」だ。
どよめき、そして嘆息。そして揺り返すような喚声が府中に轟く。
『この接戦をものにしたのはなんとアマクニ!
七番人気からの逆襲! 府中の直線、眼光鋭く最後方から並み居るライバルを撫で斬りです! ダービーの申し子、那須孝介はこれでダービー五勝目!
二着はピクチャレスク! 皐月賞馬アレクサンダーはまさかの三着! 観客席は異様な興奮に包まれています!』
誰もいない府中のターフをいつまでもいつまでも喚声が満たした。
次回は7月22日(火)更新予定です。




