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それぞれの思惑

「よっしゃあ行くぞ! ナビ!」

 大きな声を上げ、山背がコスモナビゲーターを追う。

 並んでもなお、追う追う追う。

 最内という利をこれでもかと生かし、コスモナビゲーターは苛烈なハナ争いを制して先頭に躍り出た。

 その姿を左斜め前に見て、トルメンタデオロに跨る番場は小さく唸った。

「あんたも逃げるのかよっ」

 逃げる四頭、コスモナビゲーター、ラットアタット、アフィラドール、トルメンタデオロ。そのなかで一番外に位置するトルメンタデオロは大群に覆い被さるように斜めに内へと切り込み、逃げ馬集団の最後についた。

 スプリングステークス、皐月賞、どちらのレースも見たが、これまでこの馬がとった正攻法でいっても十中八九このレースに勝つことはできない。能力の足りない馬が、能力で負ける馬に同じ土俵で勝つことは不可能ではないが容易いものではない。だったら、ここは腹を括って極端な位置取りを取る。それがこのレースに望むにあたって決めたことだった。枠順からいってもセイホーランデブーは控えるだろう、そう思っての逃げ。だが――。

 番場は唇を噛む。

 コスモナビゲーターの逃げは予想外だった。コスモナビゲーターが最内でハナを競いにいったため、それが呼び水となって内の二頭ペースも想定よりも上がってしまった。そのせいもあり外から先頭を狙いにいったトルメンタデオロは文字通り出鼻を挫かれた形になった。

 日本ダービーが行われるのは東京競馬場二千四百メートル左回り。

 スタンド正面の直線の坂を登り切った地点からスタートし、およそ一周回ってくるコースだ。外回りのコースで複合カーブということもあり流れに乗ったスピードが削がれることもない。紛れも少なく純粋に実力が反映されるコースだ。

 二千四百メートルという距離はまだ三歳の馬にとっては長い旅路となる。こんな序盤も序盤でハナにこだわって徒に体力を擦り減らす余裕はない。なにより逃げは勝つための手段であり目的ではないのだ。

 一瞬の逡巡の後、番場は追う手を止め、トルメンタデオロを少し下げた。

 第一コーナーを目前にして、緒戦のハナ争いはコスモナビゲーターに軍配が上がった。


 先頭を窺う成海の視線は冷ややかだった。

 成海の乗るジュラシックジャズは馬群の中団後ろの控えた。その視界には意表を突いた逃げに出たコスモナビゲーターとトルメンタデオロが映る。

 日本ダービーという日本で一番の栄誉に浴するレースにそんな付け焼き刃、思いつきで勝とうだなんてこれまでの歴史に泥を塗る行為である。それでも自滅するというならまだ勝手だ。が、もしレースを壊すようなら容赦はしない。

 成海は冷めた視線を手前に引き戻す。

 少し前を行くのはダントツの一番人気、単勝オッズ一・一倍のアレクサンダー。二番人気のピクチャレスク。そしてその二頭に寄り添うように走るのはNHKマイルカップ勝ち馬のアマサカルだ。

 成海はアレクサンダーでもピクチャレスクでもなく、アマサカルを恨めしそうに睨んだ。

 なんということはない、アマサカルが勝ったNHKマイルカップ、そのレースで二着に入ったのは成海が乗ったワンセッションだったからだ。鞍上は違えど、既のところで逃した栄冠。その悔しさが鮮明に蘇る。それに加え、中距離未経験のアマサカルの日本ダービーへの参戦は成海の神経を逆撫でした。

 ――今度こそ潰す。

 勝利へのみ向かうべき感情がいらぬ雑念を含む。しかし、成海にとってその雑念もが裡の激情に焚べられる薪であり炭であった。


 成海の心の裡など露とも知らない青は、アマサカルの雄大なる馬体の上で思案を巡らせていた。

 緩慢なスタート、流されるまま中団で揉まれ、この位置で落ち着いた。先頭から数えて十頭目の位置となる。普段であれば理想とは程遠い。

 だが、見方を変えれば最小限のエネルギーを使って流れに乗ったということでもある。それが最後にどう出るか。吉凶は未だ判断がつかない。ただ、アレクサンダーの動きを見るという点に関してはこれ以上ないと言っていい位置取りであった。

 だがそれで満足するわけにはいかない。

 アレクサンダーの走りをもう一度体感するのは勿論、アマサカルの距離の壁を克服し、このレースにも勝つ。そして田知花厩舎の面々へダービーの栄冠を届けてみせる。

 青はそんな決意を新たに第二コーナーへと入った。 

 

『千メートルを通過しました。タイムは、……五十八秒二。今年のダービーは速い流れになりました。依然としてコスモナビゲーターがハナを進みます』

 先頭はコスモナビゲーター、四馬身ほど離れてトルメンタデオロ、そこから少し離れアフィラドール、ラットアタットと続く。そこからまた二馬身ほど離れ馬たちがずらりと並ぶ。集団の先頭はピクチャレスク。セイホーランデブーとサーカスキングが競り合うように続き、ラトマティーナ、アレクサンダー、アマサカル、セイホートリップ。

 そこからまた離れ、トゥディメンション、サスケハナ、ジュラシックジャズ、少し離れてハリケーンコースト、最高方に陣取るのはアマクニとグレイテストマン、そこからぽつんと離れて一頭ルルイエがいる。

 隊列が固まり、束の間レースは膠着した。

 しかし、騎手たちは漫然と流されるままというわけではない。当初の計画通りにレースを推し進めるもの、レースプランを組み直すもの、なんとか一つでも順位を上げようとするもの。十八の思惑が入り乱れ交錯し、レースという生き物はその姿を今にも変えんとしている。 

 先頭を往く山背は大きく息を吐きだした。 

 誰も前にいない先頭の景色、今にも心臓が口から出てきそうだ。できることならば、すぐにでも逃げ出してしまいたい――。

 少し前の彼だったらそう考えたことだろう。

 だが、皐月賞での三着は山背を大きく変えた。

 馬場状態も悪いなか、中団に控えたことで転がり込んできた三着。それが山背にもたらしたものは慢心でも驕りでもなかった。

 それがもたらしたのは飢え。いつの間にか置き忘れてしまっていた勝利に対する貪欲さである。

 消えかかっていた燃えさしに吹きかけられた目の覚めるような鮮烈な息吹。それがあのレース、あの結果だった。

 長年燻ってきた山背にとってコスモナビゲーターとの出会いはまさに出口の見えない暗闇の中の光明と言ってよかった。

「……いける。大丈夫や」

 山背は自らに言い聞かせるように呟き、手綱を握り直す。

 先頭は早くも向正面の直線の終わり、第三コーナーを目前としていた。

 この日本ダービーにおいて、コスモナビゲーターは抜きん出た能力がある馬ではない。そこで降って湧いた一枠一番という枠順。その時点で山背の覚悟は決まっていたといっていい。

 最短となる内ラチの経済コースを進み、息を入れることのできるぎりぎりのペースを見極めてレースを運ぶ。

 これを言葉にするのは簡単だ。だが、それが容易くできるのであればこの世に逃げ以外の脚質、戦略は存在し得ない。砂上の楼閣、絵に描いた餅、ともすればこんなことは妄言にも等しい。

 しかし、山背は本気であった。

 勇猛と無謀は違う。だが、それを隔つ壁、その境界を定めるのは一体誰だというのか。無謀と言われ、それを甘んじて受け入れた先に一体どんな矜持が宿るというのか。

 コスモナビゲーターは第三コーナーの大欅に突入した。その陰に隠れ、スタンドの喚声が僅かに揺らいだ。

 

 これまで数多くのドラマを見守ってきた大欅。

 ここを目印として第三コーナーから第四コーナーにかけて大きく弧を描いたカーブを周る。そこを抜けると、いよいよ全馬がラストの直線へと雪崩込んでくることになる。観客はその直線の入り口を逸る気持ちを抑え見つめていた。

 そして、ついに一頭が直線へと顔を出した。

 コスモナビゲーターである。

『四コーナーを越えて府中の長い長い直線に入ります! 先頭、コスモナビゲーターがまず喚声に迎えられました! 後ろとはまだ四馬身ほど――』

 喚声が一段盛り上がる。

 東京競馬場の最大の特徴はなんといってもゴール前に横たわる長い長い直線だ。

 その長さは五百二十五メートル。

 中央競馬においても屈指の長さを誇り、この直線で力を出し切ることができる馬でなければここでは栄冠を掴み取ることはできない。

 コスモナビゲーターの想定外の粘りに焦りを見せた騎手が追い出しを始めるなか、冷静にそれを見つめる者たちがいた。ピクチャレスク鞍上のルピ、そしてアレクサンダー鞍上の由比である。

「早い」

「早いネ」

 二人が呟いたのはほぼ同時だった。 

 獅子搏兎。

 獅子は兎一羽を狩るときでさえ傲ることも侮ることもない。故に獅子は獅子であり続けるのである。獅子たる二人はどこまでも冷静に状況を見定めていた。

 騎手、そして観衆の視線は颯爽と逃げるコスモナビゲーター、今まさに牙を剥かんとしているアレクサンダー、ピクチャレスクのもとへと注がれる。

 追い出しのタイミング、それがこの直線での勝負を分ける。観客もその瞬間を待っていた。

 その後ろ姿を目で追い、青もまたその時を待ち全ての神経を集中していた。

 ――まだだ。まだいけない。

 幾重にも馬蹄の音が重なり力強さを増す。アマサカルがスタートからここまでに走った距離は既に二千メートルに至り、これまでに彼が経験していない距離へと突入していた。幸いなことに脚はまだ鈍らない。

 だが――。

 一瞬瞳を閉じ耳を澄ます。

 喚声に混じりアマサカルから伝わってくる呼吸は荒く激しい。青は目を開き、短く舌打ちした。

 おそらくここから最後にもうひと伸びすることは難しいだろう。だが、この戦いが辛く苦しいものになるというのは最初からわかっていたことだ。それでも田知花は青を乗せた。託してくれた。

 私は私のベストを尽くす。

 そう青は強く心に誓うと、肺から息を吐き切り勢いよく吸った。

 鞭を入れる。

 それに反応しアマサカルのスピードがぐんと上がる。少し遅れてピクチャレスクに鞭が入り、アレクサンダーにも鞭が入った。

 入り乱れる馬蹄の音に一際力強い音が交じる。

『――まさに雷霆の如し』

 その瞬間、青の頭に不意にあの言葉がよぎった。その疾さだけでなく、その走る音もまた雷を彷彿とさせる。そんなことを考えていると、猛烈な違和感が突き刺さった。

 ――なんだ?

 混乱のなか、それでも青は馬を追う。

 ――この違和感はなんなんだ?

 その時、そんな疑念を吹き飛ばすかのように、強く吹いた風が青の顔を襲った。それに誘われるように青は後ろを振り向く。

 視線の先、遥か後方の景色に目を奪われる。


 那須孝介がゆっくりとステッキを掲げていた。

次回は7月15日(火)更新予定です。

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