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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第四章 春、躍るクラシック
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青い空に、ゼッケンは白く

 五月末。

 気温二十八度。夏をすぐそこに感じる少し湿り気を帯びた風が吹き抜ける。

 東京の空は晴れ渡っていた。

 東京都府中市にある京王線府中競馬正門前駅の改札前に堂々と佇む黄金のアハテルケ像を横目に、東京競馬場の正門へと続く専用歩道橋がまっすぐと伸びる。そこにはこの日のために横長の天吊りポスターがずらりと掲げられていた。

 馬毎の十八枚の写真。そこには馬名や主だった戦績が記されているほか、種々の一文が添えられていた。

〈轟く馬蹄、〝雷霆〟を誘う。――アレクサンダー〉

〈すべてを薙ぐ〝独眼竜〟の一太刀。――アマクニ〉

〈〝俊才〟、鮮烈な復活を描かん。――ピクチャレスク〉

〈〝太古の鼓動〟が大地を揺らす。――ジュラシックジャズ〉

〈府中に〝王〟は並び立たぬ。――アマサカル〉

 しばし此度集った戦士たちの雄々しい姿に目を奪われながら通り抜けると、いよいよ東京競馬場の正門に出る。そこにはすでに夜明け前からダービーを心待ちにする多くの人々が詰めかけていた。

 午前八時。通常より一時間早く門が開く。

 いまかいまかと待ちかねていた人々が場内へとどっと雪崩込んでいった。その駆ける足音はこれから始まる戦いを盛り上げるためのドラムロールのようだ。

 東京競馬場は日本ダービー当日を迎えた。


 日本ダービー。

 日本で最も認知されているであろうこのレースは、正式名称を「東京優駿」という。

 その名が示す通り、その年に生まれた「最も優れた馬」を選定するレースである。このレースが終われば次代の新馬戦が始まることもあり、その世代の馬の総決算の場がここだ。

 競馬はダービーに始まり、ダービーに終わる。すべてのホースマンはこのレースを目標として日々研鑽に励むといっても過言ではない。ダービーなくして今日に至る競馬の発展はありえなかった。

 ダービーが行われる芝十二ハロン(二千四百メートル)という距離は俗にクラシックディスタンスと呼ばれ、その伝統を示すとともに、フランスの凱旋門賞やイギリスのキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス、そして日本のジャパンカップといった各国の最高峰とみなされる多くのレースはこの距離で行われてきた。

 そんな競馬の世界におけるクラシック(最高傑作)を観ることのできるレースのひとつがこの日本ダービーである。

 第四レースを終え、第五レースまでの間に設けられている昼休憩の時間にダービーへと騎乗する騎手十八人がウィナーズサークル脇に勢揃いした。ダービーに出走する騎手の紹介のためである。これもまた日本ダービーという晴れの舞台ならではの光景だ。 

 名前を呼ばれ、馬番の若い馬に乗る騎手から順に観客の前に駆け出していく。

「どうもー! 未来のダービージョッキーでーす!」

 諸手を挙げ、大きな声を発して駆け出したのが一枠一番、コスモナビゲーターに乗る山背だ。押しかけた人波に哄笑が広がる。そしてそれは険しい面持ちで控えていた騎手たちの緊張をも溶かした。

「凄いね、山背さん」

 小さく笑いながら、隣に立つ由比に青は言った。あれだけ臆することなくあの言葉を言えるのは余程自信があるか、そうでなければとんだお調子者である。

 どちらにしてもこの舞台にあってその姿は羨望に値した。

「ああ」

 由比は短く返した。

 瞬間、青の背に身震いするような冷たさが走る。

 由比は普段から物静かだが、今日はいつもとはまた雰囲気を異にしていた。内に滾る熱情を抑えつけるような冷たさ。その炎が大きければ大きいほどに、それを覆う氷の膜はより冷たく鋭く研ぎ澄まされていくに違いない。

 冷静と情熱。氷と炎。相反する二つが、渾然一体となり目の前に立つ由比一駿を形作っていた。

 名前が呼ばれて由比は駆け出す。

 少し間をおいて青の名前が呼ばれた。青は顎を引き、口を固く結び直す。一筋の汗がおとがいを伝った。

 ――私はまだ、本気の由比と戦ったことがないのかもしれない。

 青は小さく息を吐き出し、観客の前へと駆け出した。

 時を同じくして、控える騎手たちの後尾で小豆畑が嘆いた。

「いいなあ、山背ちゃんは。一枠一番だよ、一枠一番。皐月賞も三着だったし、ツイてるねえ最近。枠変わってくれねえかなあ。うちのは逃げ馬なのにさ、この枠はあんまりだ」

 小豆畑は肩をすくめ、八枠十六番の大外に追いやられた恨み節を吐いた。それを隣に立つ中堅騎手の吉成が受ける。

「神様も日頃の行いをよく見てるんでしょ」

「どういう意味だ、おい。だいたい俺より外のお前に言われたくねえわな」

「俺は別に枠にこだわりないんで」

 涼しい顔の吉成に、小豆畑は険しい顔をして唇を尖らせた。 

「だったら僕が代わりますよ」

 横から那須が口角を上げて小豆畑の顔を覗いた。小豆畑は眉を顰める。

「阿呆んだら。なんで大外のお前と代わるんじゃ。お前なんかダービー勝ちすぎて競馬の神さんから飽きられとるから端っこじゃないか。こりゃ、たまには大人しくしてろっちゅうこっちゃ」

 那須は困ったように笑う。

「だったら神様は意地悪だなあ。馬もオーナーも、先生だってダービーは初めてなのに」

「知らん。いい加減俺に勝ちを譲れ」

 小豆畑は憤懣やる方ないといった様子で腕を組むとちょうど名前が呼ばれた。

「あっ、呼ばれてますよ、アズさん。早く行かないと」

「言われんでもわかっとるわいっ」

 言うが早いか、小豆畑は肩を怒らせて小走りに駆け出した。

 発走時刻は着実に近づいていた。


 白のゼッケンを纏った馬が一頭また一頭と馬場に駆け出す。

 クラシック競走には紫紺地に黄文字という特別なゼッケンが用いられるが、日本ダービーだけは白地に黒文字という一般競走のゼッケンと一見同じものが用いられている。そう思うのも無理はない。その違いは縁取りに用いられる控えめな金糸の刺繍だけだ。

 すべての競走馬が一度はつける汚れなき純白のゼッケン。

 幾重の戦いを勝ち抜き、同世代七千頭余りの馬の頂点を決める戦いに辿り着いた彼らに、この舞台でこれ以上相応しい色があるだろうか。

 そんな事を考えながら、新発田は薄っすらと青くなった顎を撫でて独りごつ。

「逃げるのは、内からアフィラドール、ラットアタット、セイホーランデブーの三頭。大外を引いたセイホーランデブーは強引にハナを狙いに行くか、それとも二番手集団で控えるか……。どちらにしても厳しい競馬になるだろう。

 続くのが、ピクチャレスク、アレクサンダー、アマサカル、冠名セイホーのもう一頭セイホートリップ、サーカスキング、ラトマティーナ、トゥディメンション」

 そこで隣に立つ末崎が口を挟んだ。

「先行にG1馬がズラリですね」

 新発田は、ああ、と短かく相槌を打ち話を続ける。

「少し後方に移ってトルメンタデオロ、ジュラシックジャズ、コスモナビゲーター、サスケハナ、ルルイエ、ハリケーンコースト。それよりも後ろでいきたいのが、アマクニとグレイテストマンってところだな」

 これまでの各馬のレースを鑑みての展開予想。ここから大きく動くことはないはずだ。ただ、

「……アマサカルは先行で行くかねえ」

 新発田は小さく呟き、ちょうど馬場に繰り出したアマサカルに目をやった。

 これまでのレースはすべて先行抜け出しだ。今回もそれに倣うのが定石だろう。が、それはあくまでマイルレースだったらの話だ。

 G1馬ではあるが中距離未経験。当然、評価は割り引いて然るべきだが、鞍上は皐月賞で意表を突いた作戦を見事に成功させた日鷹青だ。一着はなくともレースに波乱を生み落とすことは十分に考えられる。 

 ――だが、そこまでだろう。

 アレクサンダーの二冠への道は盤石だ。

 唯一ライバルと言って差し支えなかったクラッシュオンユーは皐月賞で消えた。では、誰がアレクサンダーを脅かすというのか。

 ダービーは最も運のいい馬が勝つ。

 世代を代表する馬を決するレースにこのようなどこか他力な格言が用いられるのにはその歴史が深く関係している。

 日本ダービーは一九九二年にフルゲート最大十八頭と定められるまで出走頭数の制限がなかった。そのため二十頭以上の競走馬がレースに出走することはざらであり、当然その多頭数のレースで勝つためには多分に運の要素が絡んだ。これが前出の格言が生まれた理由の大きいところである。

 だからといって、現代においてこの格言が死んだとは思わない。畢竟、いつの時代であっても幸運の女神というものは強いものが好きなのだ。

 やはりダービーは最も運のいい馬が勝つ。だが、運だけに頼ろうとする馬にダービーの栄冠は輝かない。それだけのことである。

「……幸運の女神を振り向かせる色男は誰かねえ」

 スタンドが一際ざわめく。

 最後のゼッケン十八番、那須を背にしたアマクニが見事な鶴首を見せて返し馬に繰り出していった。


『白いゼッケン、青い空。深緑のターフに駆けるは十八頭の若馬たち。

 競うのは己が力。懸けるのは己が心。

 勝負と誇りの戦いで、ただそれだけが彼らの胸を熱く熱く焦がしていることでしょう』

 輪乗りを終え、馬たちがゲートに入っていく。

『一年前、初めて競馬場の芝を踏んだ七千八百六十四頭。その頂点に立つ馬が今日ここで決まります。

 三冠馬の息子は偉大な父の軌跡をなぞるのか。それとも若きマイル王はダービーでも最速の名を恣にするのか。はたまた若きG1馬がここで返り咲くのか。あるいはまだ産声を上げていない新たな伝説の始まりを私たちは目撃することになるのでしょうか。

 すべてのホースマン、すべての競馬を愛する人々の想いが、ここ府中、二分半にも満たない瞬間に注がれています。

 ――さあ、全馬ゲートに入りました。第✕✕回、日本ダービー――』

 スタンド正面、長い直線に据えられた発馬機に十八頭が揃う。先程までの怪物の如き喚声は嘘のように鎮まり、耳鳴りと消えた。

『――今、スタートしました』

 ゲートが勢いよく開く。揃ったスタートになった。

 堰を切った喚声がターフを震わす奔流となって押し寄せる。

 大きなひとつの群れからアフィラドールとラットアタットが抜け出そうとする。大外から侵攻するセイホーランデブーは最初からハナに立つのは諦め先行策を取る構えを見せた。

 大方想定通りの流れ。このまま第一コーナーを迎える頃にはいくつかの塊に分かれ隊列は整うだろう。

 そう、誰もが思った。

 しかしここで、彼らは目を見張ることになる。 

 アフィラドールとラットアタット。それを含めなんと()()が馬群から抜け出したのだ。

 十万人が詰めかけた東京競馬場がどよめく。

『ああっと、……ト、トルメンタデオロとコスモナビゲーターも逃げます! これで四頭! 四頭によるハナ争いになりました!』

 日本ダービーの火蓋は波乱とともに切られた。

次回は7月8日(火)更新予定です。

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