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穏やかなる牛あるいは黙する岩

「見てくださいよ先輩! アマサカルの想定騎手まで書いてるのうちの新聞だけですよ」

 末崎が鼻息荒く右隣のデスクから身を乗り出した。

 デスクに所狭しと広げられた今朝の各スポーツ紙。そこには扱いの違いはあれど、アマサカルのダービー出走を驚きとともに報じていた。

 末崎はその中からひとつの新聞を鷲掴みぐっと掲げた。見慣れた大日スポーツの真っ赤な題字ロゴ。たしかにアマサカルの鞍上が日鷹であるとまで付け添えているのはうちの系列のそのスポーツ紙だけだった。そしてその情報源はなんとこの末崎だったのである。

 新発田(しばた)はそれを静かに横に払い除け、末崎を睨んだ。

「飛ばしじゃねえだろうな」

「まさか! そんなわけないじゃないですか」

 心外とばかりに末崎は胸を張る。

「じゃあ、なんで他社が掴めなかったネタをよりによってお前だけが掴めたんだよ」

 末崎の目が一瞬泳ぐ。

「そ、そりゃあ、僕の類稀な取材力の賜物に決まってるじゃないですかあ。やだなあ、もう」

「……まさか厩舎に忍び込んで盗み聞きなんてしてねえだろうな」

 末崎は目と口を開き硬直した。図星のようである。

 新発田はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「当分田知花先生のとこには近づくなよ。自分の命が可愛いならな」

 乱雑に散らばった紙面に目を落とす。

 アマサカルの写真。ダービー出走の見出し。

 しかしそれよりも、日鷹がその鞍上であるということのほうに新発田は内心驚いていた。

 ――まさか田知花先生が日鷹をアマサカルに乗せるとはな。

 視線を上げ、上目遣いで末崎を見る。

「それで、なんで日鷹を乗せるってわかった? お前がなにかしら確信を持つような言葉や行動があったんだろ?」

 先ほどの説教で据わりが悪いのか、末崎は渋々といった様子で口を開いた。

「……囲みが終わった後、どうしてももう一言欲しくて田知花厩舎の前で張ってたんですよ。そしたら日鷹騎手が厩舎に駆け込んできて……」

「きて?」

 末崎は言い淀む。そのタイミングで厩舎の中に入ったのだろう。その部分をぼかしながら言葉を続けた。

「『私をアマサカルに乗せてください』って、そう言ったんです。そこから少し沈黙があって、田知花先生が『わかった』って」

 ますます腑に落ちなかった。 

 田知花は見た目ほど冷酷ではないが、情にほだされる男でもない。

 なんで日鷹なんだ?

「日鷹騎手が乗るのがそんなにおかしいですか?」

 末崎が首を傾げる。どうやら心の声が漏れ出ていたらしい。 

「春に田知花厩舎の馬にも乗ってたし。別に不思議でもない気がしますけど。まあ、今回はちょっと力技かもなあ、くらいですかね」

「そりゃ普通の馬ならあの先生も乗せるだろ。アマサカルはG1馬だぞ。中央競馬で国際グレードを持つG1レースは年に二十四回しか施行されない。つまり、どんなに多く見積もっても一年間にG1馬になれるのはたった二十四頭だけだ。G1馬ってのはそれだけ特別な馬なんだよ。しかも、トップジョッキーのルピの乗り替わりなんだぞ」

「でも、この前の皐月賞だってあわや一着だったし、特別見劣りしている気はしないけどなあ。あれ勝ってたらG1ジョッキーですよ」

「仮にあそこで勝ってても俺の意見は変わらんよ。ルピの代わりにしては日鷹は軽すぎる」 

 末崎は、ふうん、と気の抜けた返事をして数秒宙を見つめた。すると、短くと声を上げ、締まりの無い口をして顎を撫でた。

「わかりましたよ先輩。悔しいんですよね。若い僕たちみたいのが活躍しちゃって」

「は?」

 思いもよらぬ台詞に頓狂な声が出た。

 末崎はこちらの反応などお構い無しに、気持ちよくなったのか身振り手振りを大きく話を続ける。

「いや、いいんです。なにも言わなくて。でも、いつまでも先輩たちの時代じゃないんですよ。僕たちみたいな若いのが新しい時代を作っていくんですから」

 鼻の穴を膨らませて末崎は胸を張った。

 新発田は大きく息を吐く。椅子に深くもたれ掛かり、眉間を指で揉む。

 まったく。頭が痛くなってきた。

 横目で末崎を睨んだ。

「あのな、そうやって若さと勢いだけでなんでも乗り切れるほど世の中は甘くねえんだ」

 そこで言葉を切り、念を押すように続けた。

「よーく覚えとけ」


 栗東トレーニングセンター田知花厩舎。

 薄曇りの午後、そこには二つの人影があった。昨日のやりとりの後、改めてアマサカルに会いに青は田知花厩舎を訪れていた。

「……これが」

「アマサカルや」

 田知花厩舎の古株厩務員である矢尾は青を横目に誇らしげに顎を撫でる。馬房にいるアマサカルを見て、青は思わず感嘆の溜息を漏らした。

 大きい。

 だが、太っているというわけではない。地面から鬐甲までの高さ、すなわち体高は勿論のこと、胴囲に至るまで、普通の馬よりもひと周りもふた周りも大きく、遠近感が狂ったようなそんな類の「大きい」だった。

 しかし、威圧感といったものはない。ぼーっと宙を見つめる姿は馬というよりも牛といったほうがぴったりの風貌であり、もはや自然に悠然と佇む岩のようでもあった。

「でかいやろお? 前走の馬体重は五百七十二キログラムやったからな」

「ご、五百七十二っ!?」

 中央に登録されている競走馬の平均体重はおよそ四百七十キログラムといわれている。アマサカルはそれを遥かに凌駕していた。噂には聞いていたがここまで大きいとは。しかし、この馬を見れば記者があれだけダービー参戦に疑問を投げかけたのもよくわかる。

「……あの、本当に中距離走れるんですか?」

 アマサカルは到底中距離馬の馬体ではない。

 馬の場合も人間の短距離走者と長距離走者と同じように適性が体格に現れる。短い距離を走る馬ほど胴が詰まり筋肉質で体重が重く、長い距離を走る馬ほど胴が長くシャープであり体重が軽い傾向にあるのだ。他にも走り方や血統など馬の向き不向きを決する要素は多岐に渡るが、アマサカルを少しでも馬に詳しい人間が評価したのなら、まず間違いなく中距離は走らないと断ずることだろう。

「まあ無理やろな」

 矢尾はからっとした調子で言った。それは担当厩務員の彼も例外ではないらしい。

 青は眉を寄せる。

「じゃあなんで――」

 矢尾は鼻を鳴らし、青の言葉を制する。

「オーナーの意向言うてたやろ。アマサカルの馬主さんは先生と昔っから懇ろでな。先生にダービーを獲らせたいんや。定年まで今回含めてあと二回しか先生にはチャンスがないからな」

「……田知花先生ってダービー勝ったことないんですか? 私、てっきり取ってると思ってました」

 矢尾はゆっくりと腕を組み、それは深く頷いた。

「ああ。先生は調教師としてG1レースを三十勝しているめちゃくちゃ凄い人なんやけど、ダービーにはとんと縁がなくてな。当然いい馬を何回も出したし、絶対勝てるやろ、ってレースも何回かあったんやけど」

 そこで不自然に言葉を止め、矢尾は口を噤んだ。

「どうかしました?」

 矢尾ははっとして青を向き直った。慌ててかぶりを振る。

「いや、なんでもない。とにかく、や。たしかにアマサカルはダービーに向いてないかもしれんがオーナーの想いも熱いもんがある。その想いに応えたるのが漢ってもんやろ。それに」

 そこで言葉を切る。

「俺も先生にはダービー取ってほしい。いや、取らなあかん人なんや、先生は」

 矢尾は力を込めていった。その目には少しの迷いも窺えない。

 改めてアマサカルに目をやる。

 岩のように大きく雄大な馬体。

 この馬体、気性。厩舎にいる状態でしか判断がつかないが、これを動かすには骨が折れそうだ。しかし、一度動き出せば坂を転がり落ちるが如く凄まじい速さとなることだろう。

 スピードとパワーが高いレベルで求められるマイルG1をこの馬は勝っているのである。アマサカルの速さは間違いなく「本物」だ。

 青は顎に手を添え、思考を巡らせる。

 今課せられた試練は二つだ。

 一つ、どう動かすか。

 二つ、どう動かし続けるか。

 まず、どう動かすか。

 アマサカルはこれまで一貫して千六百メートル以下を走ってきた。レース距離が短ければ短いほどその全体の流れは速くなる。行き脚がつかなければ馬群に揉まれ、終始苦しい勝負を強いられてしまうのが短距離、マイル戦というものだ。

 そんななかでアマサカルは常にスムーズにゲートを出て前目で競馬を行ってきた。

 これまでが一貫して主戦騎手を務めたルピはこの巨岩をしっかりと動かした。つまり、動かす方策があるということだ。それをなんとしてでも見つけなければいけない。

 そして、次にどう動かし続けるか。

 日本ダービーの距離は二千四百メートル。舞台は同じ東京競馬場だが、前走のNHKマイルカップより八百メートルも距離が延びる。マイルの走りを再現するだけでは、最後の直線を迎える前にガス欠してしまうのは目に見えている。

 頭を過ぎるのは皐月賞のアマクニだ。

 アマクニも弥生賞の結果を不安視され、事実、皐月賞では大敗を喫した。鞍上が那須だったのにも関わらずだ。

 馬の適性は騎手の力では抗うことができない。が、私にだってできることはきっとあるはずだ。

 そんなことを考えながら、青は暫くの間じっとアマサカルを見つめていた。

 

 五月下旬。

 ダービーの一週前、その盛り上がりの最中に三歳牝馬の女王が決した。

 ダービーと同じく東京競馬場芝二千四百メートル左回りで行われるオークス(優駿牝馬)を勝ち、樫の女王のティアラを戴冠したのはパリスグリーンだった。

 ワンセッションがNHKマイルカップへ進んだことで、スコーピオングラスとの「二本の矢」の一騎打ちと目された戦いは、三馬身差完勝という呆気ない幕引きを迎えた。

 なんということはない。パリスグリーンはいじらしい三矢のうち一矢などではなく、すべてを無に帰す情け容赦のないインドラの矢だったということだ。

 二冠牝馬が誕生した今、当然人々が次に求めるのは二冠牡馬の誕生である。

 そして、当週木曜十四時。

 日本ダービーの枠順が確定した。


【第✕✕回 東京優駿(日本ダービー) 枠順】


 一枠一番  コスモナビゲーター(山背)

 一枠二番  トゥディメンション(牟田)

 二枠三番  ピクチャレスク(ルピ)

 二枠四番  サスケハナ(人見)

 三枠五番  アフィラドール(一星(陸))

 三枠六番  ラットアタット(刀坂)

 四枠七番  サーカスキング(徳重)

 四枠八番  アレクサンダー(由比)

 五枠九番  アマサカル(日鷹)

 五枠十番  セイホートリップ(大里)

 六枠十一番 トルメンタデオロ(番場)

 六枠十二番 ジュラシックジャズ(成海)

 七枠十三番 ラトマティーナ(伴)

 七枠十四番 グレイテストマン(猿江)

 七枠十五番 ルルイエ(相澤)

 八枠十六番 セイホーランデブー(小豆畑)

 八枠十七番 ハリケーンコースト(吉成)

 八枠十八番 アマクニ(那須)

次回は7月1日(火)更新予定です。

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