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今、私にできること

 最終コーナー、馬群の内側からクラッシュオンユーが抜け出す。先頭を行くアフィラドール、セイホーランデブーはクラッシュオンユーに躱され、続いて濁流の如く押し寄せた馬群に呑み込まれた。外に膨れたバショウセンが追い出しを図る。それと時を同じくしてアレクサンダーがその大波から一頭飛び出してきた。

 そのままクラッシュオンユーに並び、暫しの間馬体を併せたあと、最後は一馬身差でゴール板を横切った。

 青が手元のタブレットの映像を止める。

 タイミング悪く、右手を掲げた由比が画面で大写しになって静止した。

 両腕を突き上げて体を伸ばす。体を預けた背もたれが軋む。天井のシーリングライトが乾いた瞳に沁みた。

 何度も繰り返し見た映像。瞼を閉じてもそれは鮮明に流れた。もはや実況すら諳んじることができる。

「……その走り、まさに雷霆の如し……」

 ふん。なにが『雷霆』だ。

 青は唇を噛む。

 クラッシュオンユーが勝ってたら、きっと、こう、もっとなんかいい感じのがついていたはずなんだ。

 そんな不毛な考えが頭をぐるぐると回る。そうはいっても特にその「なんかいい感じ」のものはさっぱり思い浮かばなかった。そこでまたいらぬ自己嫌悪が襲った。

 皐月賞の動画を閉じ違う映像を表示する。アレクサンダーの新馬戦だ。去年の菊花賞当日、京都芝千八百メートル右回りで行われ、トルメンタデオロも出たあのレースである。これももう何度見たかわからない。

 青は皐月賞の敗戦後、アレクサンダーのレースをすべて見直していた。レース映像だけではない、調教映像、新聞、雑誌。雑多なコラムから精緻なラップタイムまで、集めることのできる資料はすべて掻き集めた。

 改めてわかったことがある。

 アレクサンダーは強い。

 馬鹿みたいだがそうとしか言いようがないのだからしょうがない。

 弱点のひとつでも見つけられないかと考えうるすべてを浚ったが、見れば見るほどにその強さに改めて圧倒されるばかりだ。その強さの綻びすら未だ掴めない。

 しかしそれでも、この机の上を埋め尽くす情報の山で形作られたアレクサンダーは、皐月賞で肌に感じた本物に比べたら出来の悪い張り子の様だった。

 青も薄々わかっていた。

 ここでいくら頭を掻き毟り唸っていても攻略の糸口は見えてこないということに。

 アレクサンダーは絶対に超えなければいけない壁だ。

 クラッシュオンユーの眼前に聳え立つ壁。これからもレースを走っていく限り、幾度となくアレクサンダーと相見えることになるだろう。今クラッシュオンユーがいないからといって、じっと指を咥えて待っているわけにはいかない。

 青は勢いよく椅子から立ち上がる。その反動で椅子がくるりと半回転した。

 青はなにもない壁をじっと睨みつける。

 そうだ。今、私にできることをやる。


「ごめんね、日鷹さん」

 木曽調教師はバツが悪そうにこめかみを掻いた。

「ラットアタットの騎手はもう決まっちゃってね」

「そう、ですよね」

 今日、青が木曽厩舎を訪れたのはラットアタットに乗せてもらうためだった。ラットアタットは毎日杯を勝った後、皐月賞を回避した。疲れが残っていたのもあったが、なによりも万全の状態で日本ダービーに出走するための選択であったらしい。

 青は肩を落とす。

 毎日杯の後、鞍上が空白のままだったのでもしかしてと思ったがそう上手くはいかないか。

 クラッシュオンユーが故障、つまりダービーで身体が空いているのに連絡もなかったということは、その時にはすでに他の騎手が水面下で決まっていたということだ。

「まさかクラッシュオンユーが故障しちゃうなんて僕たちも思わなかったからね。もっと早いうちにわかってたらお願いしたんだけど」

「……いまから代えられませんか? 私、どうしてもアレクサンダーともう一度戦いたいんです」 

 青は木曽の目を力強く見つめる。木曽の目元には優しい笑みを浮かんでいた。

「それはだめだよ」

 木曽はこちらから目を逸らすことなく、静かに、だが、はっきりとした調子で言った。

「君には感謝している。君じゃなかったらラットアタットはダービーに辿り着くことはきっとできなかっただろう。それにラットアタットに一番合うのは君なのかもしれない。

 でもだめだ。物事には通さなきゃいけない義理や道理がある。今回乗ってくれる騎手だって他に依頼があったかもしれないのに僕たちの依頼を受けてくれた。君もこのレースに対する想いは当然あるだろう。けど、それは僕たちも一緒だ」

 青は下唇を噛む。

 もとはと言えば、春にこの馬に乗れないといったのは自分だ。虫が良い話なのは重々承知していた。

「……誰が乗るんですか」

「刀坂さんだよ。オーナーである交告(こうけつ)さんと美浦に行って口説き落としてきた」

 わざわざ美浦の騎手を。

 木曽厩舎は栗東トレセンにある。調教や打ち合わせを考えたらどうしたって栗東に所属する騎手のほうが都合がいい。

 そんな青の心中の疑問に答えるように木曽は続けた。

「今の時代、東西の移動なんてどうとでも融通が利くからね。それにダービーが行われるのは東京競馬場だ。だったら関東の騎手のほうが勝って知ったることも多い。なにより」

 木曽はそこで言葉を切る。

 そして、噛みしめるようにこう言った。

「今お願いできる騎手では彼女が一番いいと信じてる」

 その目には一寸の迷いもない。

 青にはもうなにも言えることはなかった。

 木曽はダービーに向けて最善を尽くした。それだけだ。青をラットアタットに誘った時もわざわざ中山競馬場までオーナーと共に赴いたのだ。様々な考えがあった末に導かれた答え。これが揺らぐことはないだろう。

 青は深々と頭を下げてその場を後にした。


 暗い顔を下に向けて、青は栗東トレセンを歩く。

 ラットアタットが駄目だった。 

 他の厩舎に当たるしかない。たしかトルメンタデオロも成海が下りて空白のはずだ。まだ騎手が決まっていなければ可能性がある。

 そんなことを考えていると、なにやら騒がしい人集りにぶつかった。あそこはたしか田知花厩舎の辺りだ。

 NHKマイルカップに関する取材だろうか。

 先週末に開催された三歳限定のマイル戦。田知花厩舎に所属しているアマサカルはワンセッションをアタマ差凌いで見事一着を取った。つまりG1馬ということになる。

「田知花先生、本当にダービーに出すんですか?」

 人集りから信じられないといった調子の声が上がった。ここからは判然としないが、あの囲みの中に田知花がいるらしいことは辺りの様子からわかった。

 だが、それよりも引っかかった言葉がある。

「ダービー……?」

 田知花厩舎からダービーに出れる馬がいただろうか。今年預託されている三歳牡馬ではアマサカル以外の馬は賞金的に厳しかったはずだが。

「……まさか」

 青は思わず小さく声が出した。

 ある答えが頭を過ったのだ。そしてそれならあの記者の反応も得心がいく。

 記者の一人がまた声を上げる。

「なんで変則二冠ローテなんです? NHKマイルカップを勝ったからですか? それとももともと出る予定だったとか?」

「オーナーの意向だ」

 姿の見えない田知花が短く答えた。

 青は生唾を飲み込む。

 間違いない。やはりアマサカルがダービーに出るのだ。

 変則二冠ローテ。

 牡馬の三冠を構成するのが皐月賞、日本ダービー(東京優駿)、菊花賞であるのに対して、変則二冠は春に行われるNHKマイルカップと日本ダービーのことを指す。

 昔ある調教師が好んで用いた、三歳牡馬が唯一出走可能な三歳限定マイルG1・NHKマイルカップ、三歳牡馬の最高峰を決めるレースである日本ダービーの二冠を目標とするローテ、それが「変則二冠ローテ」だ。

 三歳春というまだ馬が若い時期に、千六百メートルと二千四百メートルという試される適性が異なるレースそれぞれで結果を出すことで、クラシックを勝つために必要な早熟性と能力の高さを証明し、引退後の種牡馬としての価値を高めることを目的としている。皐月賞が範としている本場イギリスの二千ギニーが千六百九メートルのマイル戦ということもあり、こちらのほうが正統であり王道であるという見方もできなくはない。実際に過去そう嘯いた騎手や調教師はいた。

 しかし、変則二冠があまり普及していないのは、三冠競争の歴史と伝統に比べてNHKマイルカップのそれがまだ浅く軽いからということだけが理由ではない。

 その最大の理由であり障壁は「短すぎるレース間隔」だ。

 NHKマイルカップから日本ダービーまでの期間は中二週しかない。皐月賞からダービーまでは中五週あることを考えると、それがどれだけ馬の心身にとって過酷であるかということは歴然としている。身体が回復しないままレースを走ればいい結果を残せないばかりか故障を招くこともある。実際、過去このローテを歩んだ馬には故障が原因となり、三歳の秋や古馬になる前に引退してしまった馬も多い。

 そういった背景もあって、記者たちの質問に熱がこもるのも無理からぬことだ。

「アマサカルがマイルじゃなくて中距離でも通用すると見ているわけですね?」

 また違う記者が質問を投げかけた。

「オーナーの意向だと言ってるだろ。話聞いてたか?」

 田知花は鬱陶しそうに記者たちの質問を跳ね除けた。しかし、記者も慣れたものだ。それでおめおめと引き下がるわけがない。

 その記者は田知花を無視して話を続けた。

「アマサカルの父はフランス生まれのキロノバ。これまでの産駒で二千メートル以上の重賞を勝った馬はいないはずですが。ダービーの距離である二千四百メートルなんて出走した馬だっていないですよね。母馬の方を見てもその仔のなかに中距離馬は皆無だ」

「さすがよく調べてるもんだな」

 それは感心というよりは呆れた声だった。

「だがな、何度も言うようにこれはオーナーの意向なんだ。俺がとやかく言うことはない。これ以上粘っても無駄だぞ。さあ、どいたどいた」

 囲んでいた一帯がざわつく。田知花がその壁を無理やり割って出てきたからだ。

 記者を振り切って厩舎の中にぐんぐんと入っていく。流石の記者たちもそれ以上入るのは躊躇った。その聖域に踏み入って、田知花から烈火の如き怒りを買った記者がどうなったかは古い記者ほどよく知っているし、思い出したくもないというのが総意だった。

 最後の悪あがきとばかりに一人の若い記者が声を上げた。

「騎手はどうするんですか! NHKで乗っていたルピ騎手はピクチャレスク継続ですよね? アマサカルは……、アマサカルには誰が乗るんですか!?」

 振り向いた田知花の銀縁眼鏡が暗闇に冷たく光る。

「そりゃ神のみぞ知るだ。俺に聞くな」

 無表情にそう言って、彼は厩舎の奥へと消えた。 


 田知花が厩舎の奥に入ると、そこには歳の頃五十ほどの痩身の男が待ち構えていた。田知花厩舎一番の古株厩務員で田知花とは知己の中である。記者の姿が見えなくなったのを確認してから男は捲し立てた。だが、その声はまだ警戒もあるのか密やかだ。

「最後の記者の言ったことはもっともやで。ダービーではルピが乗ってくれないんやから。このタイミングで有力騎手を確保するなんて」

 そこで厩務員は不自然に言葉を止める。

 さすがに、無理や、という言葉を続けるのは彼も躊躇った。

「わかっとる」

「成海……は、トルメンタデオロを下りて空いてたけどジュラシックジャズに決まったいうし。……岸とかはあかんですか?」

 田知花は「岸」という名前が出ると眉間に皺を寄せ、苦々しく言葉を吐き出した。

「あいつが府中、ましてやダービーに乗るわけないだろ。だからどこも春には三歳馬に乗せようとしないのに」

 厩務員の男は骨張った指で特徴的な鷲鼻の頭を挟んで揉む。そうして一頻り唸った後こう言った。

「うーん、じゃあ刀坂とか猿江とかはどうです?」

「刀坂はラットアタットに乗る。木曽のガキが言っていた」

「……じゃあ猿江かあ。皐月で乗ってたバショウセンはダービーに出るには賞金が足りんから手が空いとるはずや。他の馬に乗る話も聞かん。はよ連絡をとって抑えましょうや」

 田知花はその提案に肯くことなく、ただ一点を見つめて顎を撫でる。厩務員が腕を組みそわそわと指でリズムを取っていると、なにかが走り寄ってくる音がした。

 厩務員の男が音に振り向くと、息を弾ませて一人の女が立っていた。

 日鷹青だ。

「久しぶりだな日鷹」

「私をアマサカルに乗せてください」

 田知花の挨拶を遮り、腹を空かせた犬が餌に食いかかるように青は言った。田知花はそれを窘めることもなく青を睨めつける。厩務員の男は顔を怒らせ慌ただしく会話に割り込んだ。

「ちょっと、なんや藪から棒に。失礼やぞ、日鷹。まったく、どこから嗅ぎつけてきたんや。騎手はまだ選定中や。もし頼むことになったらまた連絡をいれたるから今は帰――」

 そう言って青を手で追い払う厩務員を無視して田知花は訊いた。

「お前はダービーで乗る覚悟があるのか?」

「ちょっと、先生!」

「あります」

 青は短くはっきりと言い切る。そして、それ以上はなにも言わずに口を固く結んだ。ただ、その目だけが田知花に訴えかけている。

 私を乗せろ、と。

 田知花は暫しそれを見て静かに目を瞑り、細く息を吐いた。そして意を決したようにゆっくりとその目を開けた。

 翌日、あるスポーツ新聞の一面にアマサカルのダービー出走の記事が躍った。

 想定騎手のところには、「日鷹青」の名前がある。

次回は6月24日(火)公開予定です。

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