美浦組
今回の60話「美浦組」から、地の文が一人称一視点から三人称一視点になります。しっくりこなかったから戻すかもしれません。何卒よろしくお願いします。
「成海が乗ったらどんな馬でも勝たせてくれる」
そんな噂が美浦トレセンで流れるのに時間はかからなかった。
あれから半年。磯貝は厩舎の大小に関わらず赴き、片っ端から騎乗依頼を取り付けた。その甲斐あって、成海は時にその日開催される平地レースすべてに乗るほどだった。
馬の質は決して高くないので勝ち星の伸びは順調とは言えなかったが、それでも有力騎手とはなかなか縁のない零細厩舎を中心として着実に支持を集めていった。
それを面白く思わないのは有力騎手を抱えるエージェント連中である。
彼らの標的は成海ではない。そのエージェントである磯貝だった。
中央に移籍してくる成海のエージェントの座を虎視眈々と狙っていた彼らにとっての目の上のたんこぶ、それが磯貝にほかならなかった。
磯貝を排除して成海とのエージェント契約を取り付ける。
エージェントたちはそのために懇意にしている調教師に根回しをして回った。抱えている有力騎手を優先して回すことを条件に、磯貝へ馬を回さないように話をつけたのだ。
桒島もそんなエージェント一人である。
一カ月ほど前、痺れを切らして直接成海を焚きつけたが、逆に成海が騎乗数を増やしていたことに臍を噛んでいた。そんな胸中穏やかではないなか、美浦トレセンで馴染みの調教師を訪れた際に出た言葉に思わず耳を疑った。
「……あの、もう一回言ってもらっていいですか?」
調教師が息を吐く。片眉を上げ、気怠げに白髪の目立つ頭を掻いた。
「次のレースは成海を乗せる、って言ったんだ」
「ちょっと待ってくれ! 話が違うじゃないか」
「あんたらのくだらない縄張り争いはうんざりだ。第一、うちのオーナーたちからも最近うるさいんだよ。なんで成海を乗せないんだ、ってさ」
「いやしかし――」
調教師は桒島の発言を手で制した。
「それに結局うちみたいな厩舎にはあんたいい騎手回す気ないだろ? 目の前にいくら美味そうな人参ぶら下げられてもさ、食えなきゃ結局飢え死になんだよ。俺たちもバカじゃないんだ」
「な、成海だっていつかそうなるに決まってる! 今は碌な馬に乗れないから乗ってるだけじゃないか!」
「いいよそれでも」
調教師はあっけらかんと言った。
「少なくとも今は乗ってくれる。それで十分だ。それに勝てれば今度は堂々と次走の依頼もできるしな。あんたがなんと言おうが、一回目がなけりゃ次もないんだ」
「成海を乗せたら、俺が預かってる騎手はあんたのところの馬二度と乗せないぞ」
桒島はいやらしく片頬を上げる。もうなりふり構う様子もない。調教師は桒島を冷たく見据えた。
「しつこいよ、桒島さん。いいか? 俺たちの関係に上も下もない。預かってる馬に乗ってくれる騎手がいなけりゃ調教師は困るし、逆も然りだ。だからこそ俺は信頼のおける人間にしか馬は乗せてこなかった」
そこで調教師は桒島をさらに鋭く睨んだ。
「今のあんたと一緒に仕事はできない。帰ってくれ」
最早にべもない。桒島はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
『決まった決まった! 一着セイテンタイセイ! 六番人気の下馬評を覆しました。成海竜児も移籍後初、ようやくとなるG1勝利です! 俺は南関の王で収まる器じゃない、と言わんばかりに雄叫びを上げました!』
喚声の中、成海は天高く右腕を掲げる。
成海がG1のタイトルを獲ったのは移籍してから二年ほど経った頃だった。
この頃になると地方時代と同じく舞い込むように依頼が殺到し、騎手リーディング争いの上位に食い込むようになった。「南関の王」という言葉を蔑みに用いるものは最早いない。
その姿はまさに“王”という肩書きを背負うに相応しいと誰もが認めたのだ。
成海は少し歳を取った。
だが、その瞳が以前より一層激しく燃えていたことはここで語るまでもない。
※
『――成海さん?』
磯貝が訝しんだ声を出す。
「……ああ、悪いな。少し考え事してた」
柄にもなく物思いに耽った自分が可笑しく、成海は苦笑する。その後、ひと通り用件を済ませ電話を切ろうとした時、ふとあることが頭をよぎった。
「なあ、トルメンタデオロはダービーに出るのか?」
『もちろん。賞金は足りてますからね』
当たり前じゃないですか、と磯貝は続けた。
「あの馬じゃダービーは勝てない。いつまでデザートストームの後を追うつもりなんだ」
デザートストームは昨年の皐月賞、日本ダービーを勝った二冠馬だ。その全弟たるトルメンタデオロの双肩に大きな期待がかかるのは無理もない。だが、これまでのレースの結果、そしてその内容を見ればこの馬が兄に到底及ばないのは瞭然だ。
今の時点で、ダービー……いや、G1レースで勝ち負けできるレベルには達していない。
磯貝が短く息を吐く。
『俺に出走レースを決める権限はないんで。それにダービーは勝つかどうかだけのレースじゃない。あそこはすべてのホースマンにとって憧れの場所なんですよ。出れるならそりゃあ出るでしょう』
「憧れ? 呪いの間違いだろ」
成海もまたその呪いに導かれてここにいる。電話口で磯貝が苦笑した。
『憧れでも呪いでもいいですよ。似たようなもんじゃないですか。僕と成海さんにとっての中央がそうだったように、とにかくそんな簡単に諦められるもんじゃないんですよ、ダービーの舞台は。俺は調教師の気持ちも馬主の気持ちもよくわかりますよ。あの舞台に立つチャンスは有限なんです。
いいじゃないですか、ダービーが終わったあと秋にでもゆっくり適鞍を探せば。それで誰も文句言いませんよ。みんな少なからずあの馬に夢を見てたんだから』
――夢を見ていた。
その言葉にトルメンタデオロに対する磯貝の評価が透けて見えた。ファンが偉大な兄の影を重ねるために、オーナーのダービー出走という名誉を叶えるために、そんなことのためにダービーを走らされる。それがあの馬にとってなんの意味がある。
あまりにも憐れではないか。
成海は鼻を鳴らす。
だが、自らも見捨てた馬のことだ。とやかく言う権利は持ち合わせてはいないし、これ以上深入りするつもりもない。
「――で、騎手は誰にするんだ?」
『まったく他人事みたいに。誰のせいで調整に苦労してると思ってるんですか』
そうぼやいた磯貝はその言葉とは裏腹に存外楽しげである。
『もちろんもう決めてますよ』
電話の向こうの磯貝がにやりと笑った気がした。
「ダービー……? 俺がですか?」
番場稔が声を上げる。
水曜日。追い切りが終わった午後の時間。唐突な磯貝からの電話は、その内容もまた唐突だった。
『ああ、成海さんがダービーでは別の馬に乗ることになったからね。トルメンタデオロの騎手が空白になった』
あの噂は本当だったのか。
皐月賞の後、成海がトルメンタデオロを下りると発言した、という話がまことしやかに囁かれた。トルメンタデオロの着順がぱっとしなかったこともあり、そんな話はすぐに無数のニュースのなかに流れたのだが、この話が出るということはあれは本当だったということだ。
「……なんで俺なんですか?」
当然の疑問だった。
番場は年初の暴力沙汰で謹慎していたが、調教師にきついお灸を据えられたうえでようやくそれが明けた。だが、その影響で主要な馬に乗ることは叶わず今年のクラシック戦線からはすっかり脱落していたのだ。
『僕の斡旋している騎手で手が空いてるのが君だけだった』
続く言葉を待つが磯貝はなにも言わない。
「……それだけ?」
『そうだよ。まさか自分が上手いからだとか思った? だったらそれは自惚れだよ。君はまだその辺の若手騎手と変わらないし』
「そんなことは思ってないです。ただ気になっただけなんで」
番場は図星を突かれ、思わずむっとして語気を強くした。
『まあ、理由なんてどうでもいいじゃないか。君は今、ダービーに騎乗するチャンスを手に入れたんだ。乗るの? 乗らないの?』
磯貝は端的に番場に訊いた。
ダービーに乗れる。
騎手にとって、これ以上ない口説き文句だ。だが、
「……考えさせてもらっていいですか?」
あまりに唐突な物言いにすぐに首肯することができない。ダービーまではまだひと月ほどある。せめて数日気持ちを整理する時間が欲しい。
『だめだ』
しかし、磯貝は冷たく言い切った。
『君が乗らないなら知り合いのエージェントに頼んで違う騎手を手配してもらう』
「みすみす仕事を手放すってことですか。そんなの磯貝さんになんの得が」
エージェントの報酬は、騎手がレースで得る賞金すなわち進上金の中から支払われるのが一般的だ。騎乗依頼を譲ってしまっては当然報酬は手に入らない。
『これ以上トルメンタデオロの厩舎とオーナーには迷惑をかけられない。ただでさえこっちの都合で急に下りることになったんだ。ダービーまではもう一カ月を切った。これ以上騎手を探すために使える時間はない。無論、君に使う時間もね』
――もう一カ月しかない。
その言葉に番場は唇を噛む。
そうだ。たった一カ月。ダービーまでの一日一日、一分一秒を惜しんで馬を最高の状態に持っていくのがホースマンの仕事だ。
もう一カ月しかないのだ。
『……十分だけあげよう。乗るつもりがあるなら折り返してくれ』
待ってるよ、と磯貝は言い、番場の返答を待たずに電話を切った。
「番場くん、ダービーに出るの?」
携帯をゆっくり耳から離すと、一緒にトレーニングに向かう途中だった長谷新平が興奮を抑えきれない様子で訊いてきた。
「……ああ。トルメンタデオロの話がきた」
長谷が目を見開く。
「よかったね! すごい、これで同期の四人がクラシックレースに出てるってことでしょ。信じられない……。僕も頑張んなきゃ」
「まだ乗るとは決めてない」
「え?」
長谷は驚き目を見開いた後、眉を八の字にして困惑の表情を見せた。
「なんで? 騎乗依頼きたんだよね? ……断るの?」
「……俺のはあいつらと違って竜兄のおこぼれだ」
「そんなことないと思うよ」
「そうなんだよ」
数秒の沈黙が流れる。番場は重い口を開いた。
「……この前の皐月賞、お前も見ただろ」
「見ただろ、って。あの時、隣にいたじゃないか」
長谷の言う通り、二人はあのレースを中山競馬場で見ていた。そう、日鷹青と由比一駿のゴール前での激闘を。
「悔しいが、今の俺じゃ胸張ってあいつらと戦えない。今、俺がダービーに出てもただの見世物になるだけだ」
「あら随分ナイーブなのね」
番場は声に振り返る。そこには四王天愛が立っていた。
「なんでいるんだよ、四王天」
そうぶっきらぼうに返すと、
「私だって美浦トレセン所属の騎手だもの。美浦にいたらおかしい? 栗東にいたらそれこそ変でしょ」
愛は大仰に肩をすくめた。
「尾けてきたのか?」
愛は不快を露わにして顔を歪める。
「なにが悲しくて番場くんをストーキングしなきゃいけないのかしら。鏡見たことある? よかったら貸してあげましょうか?」
愛は番場の言を一笑に付す。今にも飛びかかりそうな番場を長谷は体を使って制した。
愛はそれに構わず言った。
「出なさいよ、ダービー」
「お前には関係ないだろ!」
「そうね。でも、貴方を見てるといらいらするの。そんなんだから『栗東組』とか『美浦組』とかって区別されることになるのよ」
この世代はその華やかな経歴から黄金世代と持て囃された。しかし、徐々に青と由比の実績が抜け出し始めると、二人が所属する栗東トレセン組と残りの三人が所属する美浦トレセン組とで区別されて扱われるようになる。
それが前出の「栗東組」と「美浦組」だ。
その初出は小さなネット記事、時期はちょうど皐月賞終わり頃になる。桜花賞で愛が惨敗を喫し、皐月賞で青と由比が連対の快挙を達成したのは決して無関係とはいえない。
凄いのは栗東組で、つまるところ美浦組は黄金世代を冠するには(まだ)相応しくないということである。
「俺のせいにするなよ。それはお前が桜花賞で負けたせいだろ。しかも、あんな酷い乗り方で」
番場の片頬が歪む。
普段は心に留める言葉が、余裕を失ったことで口をついた。
栗東組や美浦組といった揶揄はまだ世間一般に浸透しているわけでもない。ごく狭い界隈で用いられているだけだ。だが、一度下された評価は彼らの中に澱のように溜まり、その重みは僅かだが確かな亀裂を生んでいた。
愛は涼しい顔でそんな侮蔑の言葉に応じる。
「そうよ。私は桜花賞に乗れたもの。乗れなかった貴方と違って」
「乗れたからなんだよ。あんな無様晒すくらいなら――」
「乗らないほうがマシ?」
愛は番場の言葉に先んじて言った。その目は冷たく番場を刺していた。
言葉に窮したのは番場だ。
「がっかりね。それが本心なら貴方は騎手を名乗る資格はない」
番場をもうひと睨みした後、愛が踵を返す。
「くだらないプライドと一緒にここで腐って死ねばいいわ。それじゃ」
そう言い残して去っていった。
番場はその後ろ姿を真っ赤なお顔で睨みつける。歯軋りの音が辺りに響いた。
「なんなんだよあいつ……!」
「番場くん」
「なんだよ!」
声を荒げ振り向く番場に視線を向けず、少し先の地面を見つめながら長谷は静かに言葉を続けた。
「四王天さんの言ったこと、僕は間違ってないと思うよ」
「あ? お前もあいつの肩持つのか」
「僕だったら」
そこで言葉を切り、長谷は勢いよく顔を上げて番場を見た。番場を強く見つめる目は潤んでいる。
「僕だったらダービーに出る。絶対に」
ごめん、と言い残して長谷は走り去っていった。
番場は一人取り残される。
――なんなんだよ……!
人の気も知らないで勝手なことばっかり言いやがって。突然の騎乗依頼で一番混乱しているのは俺だっていうのに。
番場は拳を強く握る。
……上等じゃないか。ダービーに出る。そして、絶対に勝ってやる。絶対に。
「どいつもこいつも、ふざけんじゃねえ!」
番場は荒々しく携帯を取り出し、着信履歴の一番上、そこに表示されている名前に折り返した。
次回は6月17日(火)更新予定です。




