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王と呼ばれた男

 成海竜児が地方競馬の道に進んだのはまったくの偶然であった。

 テレビで競馬を見た、という特に珍しくも面白みもない理由で騎手の道を志したが、彼は当時競馬というものに中央と地方の違いがあることなど知らなかった。馬に跨りカッコよく走るのが競馬。恐ろしいことに、それがその時の彼の競馬に対する認識のすべてだった。

 彼が福島県南端部の街で生まれ育ち、地方競馬騎手の養成機関である地方競馬養成センターが栃木県の最北端の那須塩原にあったのも運命の悪戯だったのかもしれない。養成所が自分の家から車で三十分ほどの場所にある、と近所のおじさんに聞いた時には、こんな田舎町にも取り柄はあるものだと彼は初めてこの町に感動に似た感情を覚えた。もはやその時、成海にはそれ以外の養成所が存在するなどという考えは頭の片隅にさえない。

 そんなものだから、まさか地方競馬騎手ではテレビで見た日本ダービーをはじめとした大レースで勝つどころか、出場するのすら難しいなんてことに思い至らなかったのも無理からぬことだったのである。

 誰か周りの人が教えてやればよかったのにと思うかもしれないが、もちろん教えていた。彼が養成センターに入所するまで、友人知人、父母祖父母、果ては教養センターの職員からも折に触れてそういった類の注意喚起や確認は受けていたのだ。しかしながら、騎手になれる、という興奮のなかでそんなことはすべて彼の耳の右から左へと流れていった。

 無理もない。

 成海もまだ若かったのである。

 

 そんな彼に大波のような後悔が襲いかかったのは地方競馬の騎手として川崎競馬で頭角を現した頃だった。ちょうど五月の中頃だ。

「なんで俺はダービーで乗れないんすかあ」

 成海は今日何度目かわからない管を巻く。

 顔を真っ赤にして、もう何杯目かもわからない酒を呷った。喉元が大きく動くのに合わせて、グラスの中身がみるみる減っていく。

 川崎にある馴染みの居酒屋。

 長年付き合いのある美しいとさえ形容したい禿頭の店主はいつも気を利かせて人目につかないこの奥の座敷席を空けといてくれる。翌日が休養日の時に卓がよく訪れる店だ。

 座敷には成海と番場卓の二人が向かい合う形で座っていた。

「だから、中央の騎手じゃないからだよ」

 卓は唐揚げをひょいと摘むと、今日何度目かわからない返答をした。

 地方競馬の騎手が中央のレースに乗るためにはいくつか条件をクリアする必要がある。

 まず自らが騎乗する地方競馬所属の馬がその日のレースに出走していることが大前提だ。そうすることでその日限定の「該当競走限定の騎手免許」が発行され、晴れて中央のレースに出走することができる。地方所属馬が出走することができるのは特別指定競走と指定競走に限られるのだが、煩雑になるのでここでは割愛しよう。

 さて、その例でいくと、日本ダービーに乗るためには日本ダービーに地方の馬を出さなければいけないのかと思ってしまうがそうではない。

 たとえば、その日の第一レースに地方所属馬が走り、その馬に乗ることになれば、地方所属騎手は先程の「該当競走限定の騎手免許」でその日その競馬場で行われる平地レースすべてに乗ることができるのだ。これを逆手に取って、地方の有力騎手に中央のG1レースに乗って貰うため、その日に行われる条件戦に地方馬を用意するという手段をとる陣営も珍しくない。

 そのため、先程の卓の返答は厳密に言えば的を射ていない。だが成海は反論しようとはしなかった。彼自身、駆け出しの地方騎手という身分で中央のG1、ましてやダービーの騎乗依頼が来るなんてことはありえないことは頭では分かっているのだ。

 成海はグラスを手にしたまま机に突っ伏した。

 酒が入った今、願望は止め処なく口から溢れていく。

「あの時、競馬のことをしっかり調べてたら俺は絶対中央に行ってました。行けた自信もあります。この前ももし入ってたら同期になるはずだった奴らのレースをテレビで見ましたけど、ありゃ酷いもんだった。絶対、俺が一番上手い。絶対だ」

「すごい自信だなあ」

 卓は小さく鼻を鳴らし、呆れたように眉をひそめる。成海は伏せていた顔を持ち上げて上目遣いで卓を見た。

「事実っすもん。逆に俺は卓さんのほうがよくわかんないっすよ」

「なにがだ?」

「卓さんだったら絶対中央でも勝てるじゃないっすか。那須とか、最近目立ってきた岸とか目じゃないっすよ。なんで中央で乗らないんすか」

 卓の表情がゆがむ。笑っているような、それでいて泣きそうな、そんな表情だ。

「息子にも最近似たことを言われたな」

「げっ、あいつと一緒かよ」

 その言葉に成海は露骨に渋面を作る。だが、心底嫌という感じではない。成海と息子の稔は数えるほどしか会っていないが、もし稔に兄がいたらこんな風だったのだろうなと思う。それもあって、卓にとって成海はかわいい騎手の後輩であると同時に息子のような存在でもあった。

 卓は苦笑した後、口を開く。

「でもな、俺は地方競馬が性に合ってるんだ。毎日調教をして、レースをして。見知った顔の客が罵倒してきたり、そうかと思えば泣いて感謝されたり。そういうのが好きなんだよ、俺は。だから騎手を続けてこれた。今の俺があるのは大井や南関、そして地方競馬のおかげなんだ」

「『地方競馬の伝説』が昼間から酒飲んでるおっさん連中のために地方に籠もるっていうんですか。夢のないこと言わないでくださいよお」

 成海は今にも泣きそうな顔で情けない声を出した。卓は顔を顰め、眼前の小蝿を追い払うように手を振った。

「やめろよそれ、あんま好きじゃないんだ。だいたいまだ現役だぞ俺は。それじゃなんか死んだ奴みたいじゃないかよ」

「そんなことないっすよ。けどいいなあ。俺もかっこいい二つ名が欲しい」

「欲しいならくれてやるよ」

 成海は唇を尖らせる。

「自分で勝ち取らなきゃ意味ないんすよ。お下がりはごめんです」

 そんなくだらない話を延々としながら夜は更けていった。


 成海はその後もめきめきと力をつけ目覚ましい活躍を見せた。

 川崎競馬場の勝利騎手リーディングを獲得したかと思えば、翌年には、大井、川崎、船橋、浦和の南関四場すべてでリーディングジョッキーとなり、南関東競馬での地位を確固たるものにした。

 この頃にはもはや騎乗依頼を受ける量よりも断る量のほうが増え、それをさばくために仲介としてエージェントの磯貝を間に立てるようになった。そうしたなかでダービーとはいかないまでも中央競馬のG1レースにも乗ることができ、少ない騎乗機会ながら好成績も収めていった。

 しかし、成海がそんなことで満足するはずもない。裡に燃え滾る想いは、収まるどころかさらに激しくなった。

 そして、遂にその時がくる。

『おめでとう。これで来年から中央の騎手か。寂しくなるな』

「ありがとうございます」

 電話口の卓に向かって頭を下げる。

 成海は中央の騎手試験を無事突破し、晴れて地方から中央への移籍が決まった。地方競馬で師と仰ぐ卓に合格を一番に伝えようと急いで電話を掛けたのだ。

 いくつか言葉を交わした後、成海はこう切り出した。

「なあ、番場さん。一緒に中央に殴り込みましょうよ。俺とあんたなら、絶対あいつらに一泡吹かせてやれる」

『また、その話か』

 卓は半ば呆れた様子で苦笑した。

『面白そうだが遠慮させてもらうよ。もうペーパーテストなんて答えられる歳じゃない』

「そんなのどうにでもなりますよ。

 ――だいたい、俺たちみたいなのがいつまでも地方で満足しちゃいけないんです。もっと大きな舞台で活躍しなくちゃ、いつまでも地方は舐められて下に見られたまんまだ」

 一瞬、電話口の卓は沈黙した。

『……竜児、それはお前が勝手にそう思ってるだけだ。中央も地方も互いに敬意を持って互いに尊重している。競い合う仲間であって敵じゃない』

「仲間?」

 卓の言葉を成海は鼻で笑った。

「本気で思ってます?

 だったら随分おめでたいですね。交流重賞とか見てくださいよ。掲示板は中央の馬が独占してる。中央と地方の関係を深めるためとか綺麗事抜かしてますけど、あんなの中央の奴らが地方を食い物にしてるだけっすよ。あいつら地方の賞金だけかっさらっていきやがって。

 いいっすか。あれは侵略なんすよ、侵略。あいつらにとって地方競馬は交流の場なんかじゃない。ただの狩場なんだ」

 成海の言葉は徐々に熱を帯びる。最後の方はもはや怒鳴り声と言っていいものだった。

『竜児――』

「これ以上好き勝手させない。そのためにまずは俺が中央の奴らに軽んじてきた地方の実力を知らしめてやります。見ててくださいよ」

 成海は卓の返す言葉を待たずに電話を切った。

 この数年でいきすぎた中央への憧れは憎しみに変わり、地方への鬱積とした感情は彼の知らぬ間に愛情とも呼べるものに変わっていた。

 その変化に内心、彼自身も戸惑っていた。

 彼はいまだ若かった。


 南関の王。

 この名が付いたのは彼が地方競馬で二年連続で南関の騎手リーディングを獲得した絶頂期ではなく、成海竜児が中央に移籍したあとのことだ。

 とあるスポーツ紙のネット記事が出処だった。

 成海はそれを見て喜んだ。足取り軽く、胸を張ってトレセン内を闊歩したのは言うまでもない。

 だが、その喜びも束の間だった。

 ――勝てない。

 いや、厳密には勝ってはいるのだが、下馬評からいけば到底期待に応えるものではなかった。

 美浦トレセンに所属したが、騎乗依頼がなかなかこず、ようやく決まった馬も気性の荒い馬や能力が低い馬ばかりだった。

「成海に乗せられるのはその馬くらいしかないよ」

 ある調教師は冷たく言い放った。慌てて駆け出しその身体に縋り付く。成海ではない。エージェントを務める磯貝だ。

 騎手に馬を斡旋するのが仕事である彼は、成海以上に今の状況に焦っていた。磯貝は地方競馬においては優秀なエージェントだったが、コネクションがものをいうエージェントの仕事において、中央ではその腕を十分には活かせていなかった。

「ちょっと待ってくださいよ! 成海さんの腕は知ってるでしょ? ルピとか那須さんにだって遜色ないです。成海さんは南関の王って言われてるんですよ」

 調教師はその言葉に苦笑した。磯貝は思ってもなかった反応に戸惑う。

「南関の王、ねえ。ま、文句があるならさあ、今の馬で結果出してみなよ。みんなそうやっていい馬に乗っていくんだから」

 そこで言葉を切り、視線を成海の方へ向けてもったいぶった調子で、

「……まあ、無理だと思うけど」

 と小さく鼻を鳴らしそう零すと、調教師は去っていった。

 呆然とその場に立っていると、「おやあ?」と言って片頬を上げて男が近づいてきた。もったいぶった手つきで名刺をこちらに差し出してくる。

 名前を短く述べると、こちらの反応も無視して早口で捲し立てた。

「なかなか調子が上がらないみたいですね。南関の王といえど、やっぱり、地方とじゃ勝手が違いますか? 違いますよねえ。正直、正直言っていいですか? ちょっとがっかりしちゃったんですよねえ。ああ、成海竜児もこんなもんかあって。

 ――成海さんじゃなくて、そっちのが原因かもしれないですけど。エージェント変えたほうがいいんじゃないですか? 私とかどうです? いい馬紹介しますよ?」

 顎を磯貝の方へとしゃくり、いやらしく口角をつり上げる。成海は青筋を立て、低い声で告げた。

「失せろ」

「おー、怖」

 男はせせら笑ってそそくさと去っていった。

 この時、成海は悟った。

 あの「南関の王」という言葉が、成海竜児の功績を讃えたものなどではなく、多分に揶揄を込められた言葉だったということに。中央じゃ通用しない南関東競馬という一地方で粋がっているだけの田舎者、それがあいつらが俺に下した評価なのだ。

 成海は掌中の名刺を握り潰した。

「……俺のせいです」

 磯貝が下唇を強く噛み、その両拳を握りしめ怒りに肩を震わせる。すると、磯貝はやにわに両膝を地面につけ座り込み、額を地面に擦り付けんばかりに頭を下げた。

「……すいません……!」

 絞り出すような声が出る。

「俺の実力が足りないから成海さんまでバカにされちまった。俺がいい馬を用意できれば……。申し訳ねえ……」

 その言葉に怒り心頭に発したのは成海だ。

「――っ、ふざけんなっ……!」

 成海は地に伏せる磯貝を無理やり引き起こす。その双眸が磯貝を刺すように睨みつけた。

「俺がてめえの力がなきゃ勝てねえって言いたいのか? あ? 俺を誰だと思ってる、どんな駄馬だって勝たせてやるよ。だからお前はあるだけ馬引っ張ってこい。厩舎の奴らがお前に頭下げて依頼してくるようにしてやる。わかったな?」

 語気を荒げて成海は言った。

「……は、はい……」

 磯貝は気圧されたように目をしばたたかせる。しかし、最後に強く目を瞑ると、意を決したようにかっと見開いた。その目に煌々と光が宿る。

「俺にできることはなんでもします。任せてください」

 風がふわりと吹き、足下を土煙が舞った。

 日が中天にかかる。刻は四月も中頃のことであった。

次回は6月10日(火)更新予定です。

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