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春にして君と離れ

「『雷霆・アレクサンダーまずは一冠!』ねえ、……なにこの雷霆って?」

 編集長は煙草の煙をぷかぷかさせながらスポーツ新聞に目を通している。その姿は水面で餌を待つまるまる太った鯉を彷彿とさせた。早朝の喫煙室は編集長と俺の二人だけがいる。

「実況が叫んでたんですよ。『まさに雷霆の如し』って。そのフレーズからでしょう」

「ああ、実況アナ渾身の口上ってわけか。なるほどなるほど」

 こういう大レースでは実況アナも勝ち馬に相応しいとっておきのフレーズを予め用意しておくものだ。ぴたりとハマるものもあれば、うーんと腹落ちしないものもある。

「武田信玄で有名な『風林火山』がありますよね。『疾きこと風の如し』云々ってやつ。あれ風林火山だけで終わりじゃなくてそれにまだいくつか言葉が続くんですよ。そのひとつに『動くこと雷霆の如し』って言葉があるんですけど、そこから引用したんじゃないですか?」

「ふーん。……で? 雷霆って結局なに?」

「激しい雷のことですよ」 

「ほお。雷ねえ。あの雨の皐月賞を勝ち、稲妻の流星を持ったアレクサンダーにはお誂え向きだねえ。あっ、でも『雷』に帝王の『帝』で『雷帝』とかのほうがかっこいいんじゃないか? どう思う?」

「あー、いいんじゃないですか?」

 どっちでも。

 編集長は「だよねだよね」と、上機嫌に煙を吐き出し、灰皿に煙草を潰すように押しつけて火を消す。

「しっかし、ダービーはどうなるのかねえ。クラッシュオンユーは怪我で回避なんだろ? あの脚は府中で見たかったけどなあ。とんだ冷水ぶっかけられちまった」

 編集長の持つ新聞の隅には『クラッシュオンユー 挫跖で無念のダービー回避』という小見出しが躍っている。咲島が言っていたように、クラッシュオンユーはダービーに出ることはない。

 挫跖は蹄の炎症の総称だ。一般的に患部を冷やすなどの対策が用いられるほか、消炎剤を投与するケースもある。軽ければ比較的早く調教を再開できるが、中途半端に回復した状態で調教を再開すると歩様に異常をきたすいわゆる跛行(はこう)を併発することも少なくない。

 馬にとって、時には馬主や厩舎関係者、騎手、生産牧場にとっても一生に一度きりの晴れ舞台であるダービーよりも、クラッシュオンユーのこれからをとったということだ。

「こればっかりはしょうがないですね。クラッシュオンユーも運がなかったってことですよ」

 そして日鷹も。

「それに、こんなところで運に見放される馬はどのみちダービー取れませんしね」

「まあ、違いない」

 編集長は深く頷き、新しい煙草に火をつけた。煙をゆっくりと肺に入れて大きく吐き出す。

「最も運がいい馬が勝つのがダービーだ」

 煙は大きく広がると部屋に染み込むようにゆっくりと消えた。


 クラッシュオンユーのいない馬房はひどく広い。

 本来なら皐月賞後からダービーまでの六週間、在厩調整の予定だった。その馬房が今は空だ。

 診断の結果、挫跖は比較的軽微なものであったので、ダービーへの出走もできなくはなかった。だが、オーナー、そして調教師である咲島先生の意向もあり、クラッシュオンユーの将来を鑑みて春シーズンは全休となった。反対したのは私だけだった。

 クラッシュオンユーは療養を兼ねて北海道の牧場へ放牧に出されている。

 ちゃんと食べているだろうか。そんな物思いにふけりながら馬房の清掃をしていると若い男性が一人訪ねてきた。一緒に馬房の掃除をしていた生島さんがそれに気づいて短く挨拶を交わすと、先生を呼びに奥に消える。

 訪ねてきた男に顔を見る。よく見知った顔だ。

「どうしたんですか? 長束さん」

「謝罪に来た」

 猛禽類のような鋭い目を一瞬こちらに向け、質問に憮然と答える。

「謝罪?」

 しかし、次の疑問には再び口を真一文字に結び、むすっとした顔をするだけだった。

 先生が奥からぬっと現れると、猛禽類のような目の男――長束(なつか)士門(しもん)は腰を直角に曲げて短く刈り上げられた頭を下げた。

「この度の落鉄の件、申し訳ありませんでした」

 咲島先生はやれやれといった具合には首を振ると、長束の小柄ながらがっしりとした肩に手を置き体を起こした。

「やめてくれ。お前の装蹄にはいつも感謝してる。絶対外れないなんてあり得ないからな。偶々それが皐月賞だっただけだ」

「よりによって、です。本当に申し訳ありません」

 長束さんは栗東トレセンに所属する後東(ごとう)装蹄所の装蹄師だ。咲島厩舎は数年前から後東装蹄所にすべての馬の装蹄を依頼している。現在は後東装蹄師の弟子である長束さんが二十半ばながら咲島厩舎の馬の装蹄の一切を任されていた。

 装蹄師はその名が示す通り競走馬に蹄鉄を装着する専門職だ。

 蹄鉄は馬の蹄を保護するためのU字型の装具である。蹄鉄とはいうが、現代においてそのほとんどはアルミニウム合金であり、軽く、それでいて頑強だ。

 蹄鉄は人でいえば靴に相当する。

 馬の蹄は「第二の心臓」とも呼ばれるほど馬が生きていくうえで重要な場所であるが、反面、柔らかく繊細で脆い。

 それを保護するために発明されたのが蹄鉄だ。

 それぞれの馬の蹄の形、状態、そして走りに合わせて装蹄師は最適な蹄鉄を選び、打ちこむ。

 競走馬の本来の能力を十二分に発揮させるためのそれは、シンデレラにとってのガラスの靴のようなものだ。裏を返せば、一度それが外れてしまえばかかっていた魔法は解けてしまうともいえる。

 クラッシュオンユーは先の皐月賞で落鉄した。

 左後肢の蹄についていた蹄鉄が外れていたのだ。原因はレースが終わってまもなく思い当たった。同時にあのゴール間際に聴こえたあの高い金属音の正体にも。

 追突だ。

 走っている時に競走馬の前肢と後肢が当たることを追突という。追突の発生は後肢の踏み込みが大きかったり、前肢の蹴り上げが弱かったりすることが原因とされている。

 あの追突の時、それぞれの脚の蹄鉄が当たったことであの音が鳴った。そして、その時に恐らく蹄鉄が外れたのだ。

 ――だが、

「落鉄してなくてもレースには負けてました」

 二人の視線が私に向けられる。

 二人との中間あたりに視線を落とす。

 あの音が鳴ったのはゴール目前だ。落鉄は直接的な敗因ではない。私がもっと上手くクラッシュオンユーを導くことが出来たかどうか、それが問題だ。

 長束さんの装蹄に問題があったわけではない。 

「だから、そんなことで謝らなくても――」

()()()()()だと?」

 長束さんは顔を真っ赤にして吠えた。その目はかっとこちらに見開かれている。

 ――しまった。

 思わず後退った。

 額をひやりとした汗が流れたが、どうしたことかその目に宿った怒りはすっと引いていく。こちらから視線を外すと、長束さんは驚くほどに穏やかな声で言葉を続けた。

「勝ち負けの話はしてない。今回の挫跖の原因が俺にあるからここに来たんだ」

 先生がこめかみを指で掻きひとつ息を吐く。 

「だが、そのおかげで軽い挫跖で済んだともいえる。たしかにツイてないが、最悪でもなかった。今年に入って四カ月でもう三走してたからな。いい休養だと思えばいい」

 長束さんは眉間に皺を寄せ下唇を噛む。

「すみません」

 力なく再び謝罪の言葉を口にした。

「……お前の仕事に落ち度はない。これからもよろしく頼む。後東さんにもよろしく言っといてくれ」

 そう言って先生はその肩をポンと叩いた。

「……はい、ありがとうございます」

 険しい顔で下を向いたまま、彼は帰っていった。

 先生は、さっさと仕事に戻れと私たちを手で追い払うと、再び奥へと消えた。 

「蹄鉄って、()()()()()()()()()()もんなんすよ」

「え?」

 作業を再開して少し経った頃、生島さんがぼそっと呟いた。作業の手を止めて顔を上げると、どこか遠くを焦点の合わない目で見ている。

「外れちゃいけない、じゃなくてですか?」

 生島さんは頷く。

「絶対外れない蹄鉄はそれはそれで危険なんすよ。

 たとえばクラッシュオンユーが起こした追突。落鉄で力が分散されましたけど、もし外れてなかったら脚や腰、背中にダイレクトにその衝撃が伝わったり、蹄の神経に傷をつけることになったかもしれないっす。もしかしたらもっと大きな怪我につながってたかもしれない。

 まあ、絶対外れないほうがいいっていう装蹄師もいるっすけどね」

 そういった考え方もあるのか。しかし、そうなると疑問を感じずにいられない。

「じゃあ長束さんは今回の件、あんな深刻になることないと思うんですけど。それに、そもそもこれまでクラッシュオンユーは追突なんてしたことなくて、今回のは事故みたいなものだし」

 生島さんは困ったように眉を八の字にして後ろ頭を掻いた。

「うーん、士門くんは真面目すぎるというか……。やっぱり師匠である後東さんの存在が大きいんすかねえ」

「その後東装蹄師ってそんな凄い人なんですか」

 生島さんは目を大きく開き、「そりゃあもう」と唸った。

「名馬の影に後東鐵文(てつふみ)あり、と言われた名装蹄師っすから。装蹄師って、厩舎や騎手と違って競馬新聞とか見るだけじゃわからないんすけど、やっぱり強い馬にはちゃんといい装蹄師がついてるんすよ。たとえば――」

 そう言って、生島さんはいくつか馬の名前を挙げていく。その中には昔の馬にはあまり詳しくない私でも聞き覚えのある馬が何頭も出てきた。それだけでも後東装蹄師の腕がうかがえた。

 偉大なる師を持つプレッシャーか。

 私は父の存在に煩わしくなったり、反対に感謝することはあるが幸か不幸かプレッシャーを感じたことはない。

「あの……」

「はい?」

「……もしかして、その後東さんってノッキンオンハートの装蹄もやってたんですか」

「ノッキンオンハートの、というか、咲島厩舎(うち)ではノッキンオンハートから、っすね」

「ノッキンオンハートから?」

 生島さんが頷く。

「ノッキンオンハートが勝った有馬記念、栗東からの輸送、しかも久々のレースでピリピリしていたのか馬運車で暴れて落鉄しちゃって。ちょうどその時、現場に居合わせて蹄鉄を打ち直したのが後東さんなんすよ。そしたらびっくりするくらい大人しくなって。それだけじゃなくて、まさかあのイスカンダルにも勝っちゃうんすからね。

 それからうちの馬を徐々に面倒見てもらうようになって、今では全馬が後東装蹄所で装蹄してもらってるってわけっす」

「そうなんですか……」

 装蹄に上手下手があるのは感覚的にはわかるが、そこまで馬に影響が出るものなのかと今更ながらに驚く。

「でも、日鷹さんには士門くんの気持ち、わかるんじゃないすか?」

「え? 私は父のことで気負ったことはありませんよ」

「いや、そっちじゃなくて」

 生島さんはそこで言葉を切る。 

「なんか、暴走してどんどん進もうとするところが似てるんすよ。頑固なとこも」

 そう言ってにやりと笑った。

「私はあんな感じじゃないです」

「いやあ、どうすかねえ」

 むっとして返した私を意に介することもなく、生島さんはその後もしばらくにやにやと笑っていた。 

 

 皐月賞から二週間が経った。

 目の前の画面ではレース映像が流れている。今年の桜花賞の映像だ。休養日である今日、朝からこうしてパソコンの前で映像を繰り返し見ていた。

 ぬるくなったコーヒーを啜る。

 日本ダービーまで一カ月を切ったとはいえ、目下のところ三歳マイル王を決する大一番、G1・NHKマイルカップにいまは集中しなければいけない。なにせ桜花賞で二着に入ったワンセッションで挑むことになるのだ。メンバーを見ても十二分に勝ちを狙える舞台といえるだろう。

 カップを机に置いたタイミングで横にある携帯が鳴った。ディスプレイの表示には大きく『磯貝』と表示されている。

 ――来たか。

 画面を指でスライドして耳に当てる。

「なんだ」

『あっ、お疲れ様です、成海さん。今時間大丈夫ですかね』

「ああ」

『日本ダービーの馬、いいのが用意できそうなんです。先週の青葉賞を勝ったジュラシックジャズってわかりますか?』

 前置きもなく、磯貝は端的に切り出した。馬の名前頭のなかで反芻する。

「ジュラシックジャズ……ああ、ルピのお手馬か」

 ルピは日本ダービーでも皐月賞に引き続きピクチャレスクに騎乗予定だ。身一つで二頭の馬に乗ることはできない。必然、新たな乗り手を探す必要に迫られるがそれをいち早く取り付けてきたというわけだ。

『ジュラシックジャズは府中だったらピクチャレスクに負けない切れ味があると思います』

「ピクチャレスクに、ね」

 それでは意味がない。

 日本ダービーを獲るためにはあのアレクサンダーを倒さなければいけない。アレクサンダーより明確に劣るピクチャレスクに勝ったところでどうしようもない。だが、ダービーまで残りひと月を切った今、有力馬が有力騎手に抑えられているなかで、磯貝のそれはその馬に対する最大級の賛辞であるのもまた事実だ。

 力の差は俺の腕で埋めろというわけか。

「――わかった。その馬でいこう」

「わかりました。先生にすぐ連絡入れます」

 そう言って電話を切ろうとする磯貝にぼそりと呟いた。

「……この前は悪かったな」

『えっ?』

 磯貝が間の抜けた高い声を上げる。そして、少し経って笑い出した。

『やめてくださいよ成海さんらしくないなあ。ドッキリかなんかですか? あんなの日常茶飯事じゃないですか。今更そんな事言われてもちょっと気持ち悪いです』

「あ?」

『ちょっと、怒んないでくださいよ』

 そうひとしきり笑った後、急に真面目な声色に変わった。

『成海さん、俺はあなたとここで天下を獲るために来たんです。だから俺にできることはなんでもします。どんな無茶振りだって叶えてみせますよ。それが俺の仕事です』

 ――俺にできることはなんでもします。

 その言葉に、あの頃の出来事が昨日のことのように思い出された。

 俺がまだ、地方競馬の騎手だった頃のことだ。  

次回は6月2日(火)更新予定です。

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