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一冠目

 激しい雨の中、目の前に横たわる直線に青の乗るクラッシュオンユーが先頭で入ってきた。さっきまで最後方を走っていたように見えたが、一体いつの間に前に出てきたのだろうか。

 そんなことを思いながらその姿を追うと、一頭、馬の塊の中から飛び出してきた。ゼッケン三番、そこに記された名前は判然としないがそんなところを見るまでもない。

「……アレクサンダー」

 強い馬の走りは毛色が違う。輝きを放つ、と言い換えてもいい。その強すぎる輝きは図らずも周りをすべて暗い翳に落とした。

 アレクサンダーはあっという間にクラッシュオンユーに迫ると、それを軽々と抜き去った。

 このままアレクサンダーが勝つ。

 誰もがそう思った瞬間、再びクラッシュオンユーは加速しその身体に近づいた。その光景を目の当たりにして、あちこちでどよめきが起こる。

 二人の若者の一歩も譲ることのない駆け引きにスタンドにいるすべての視線が注がれていた。

 ――青が勝つかもしれない。

 この大舞台で、騎手になったばかりのあの子が。かつて大洋が勝ったこのレースで。

 青の姿に大洋が重なる。

「……だめ」

 そう呟いて腰を浮かす。

 一度は離れかけたクラッシュオンユーがアレクサンダーに再び並びかける。興奮のピークに達していたスタンドが、その天井を突き破るようにしてさらに盛り上がる。

「だめ!」

 席から立ち上がり、辺りも憚らずそう叫んだ。


 頬を打つ雨の痛みが増す。

 薄く開けた瞼から見えるのはアレクサンダーだけだ。すぐにでもその背中が近くなる。……そのはずだった。

 差が縮まらない。

 その差、二分の一馬身。

 クラッシュオンユーのこの荒い息遣い。この走りは間違いなくスプリングステークスの時のクラッシュオンユー、いや、それ以上だ。それなのにアレクサンダーを抜くことができない。ゴールはもうすぐそこに迫っている。

「なんで……」

 なんで追いつけないんだ! なんでなんでなんで!

 由比の背中を睨みつける。一緒に競馬学校に入学し、寝食を共にし、時を同じくして卒業した。クラッシュオンユーとアレクサンダーだって同じ三歳馬だ。私たちとあんたたちでなにが違うんだ。

 物言わぬ背中に問いかける。

 その時、不意に由比が振り返った。

 一瞬視線が交錯する。その口の端がわずかに上がっていた。

「なっ……」

 この苦しくて苦しくてしょうがない勝負のさなか、由比が笑っていた。

 思わず目を伏せ、唇を噛む。

 ――こんなに近くにいるのに、これほどまでに遠いのか。

 僅かな希望の糸は立ち消え、底の見えないどこまでも深い穴に落ちていくような感覚が襲う。

 キンッ――。

 突如、暗闇に金属がぶつかったような澄んだ高い音が響いた。レース中であれば通常は考えられない音。それが足下で鳴った。

 ――なんの音だ?

『いま、ゴールイン!

 その走り、まさに雷霆の如し! 降りしきる雨の中、クラシック最初の一冠を手にしたのはアレクサンダー! 競り合ったクラッシュオンユーは惜しくも二着! 二年目騎手たちが壮絶な叩き合いを演じました! 三着争いは接戦です!』

 ゴール板を通過した。

 ゴール後、各馬がゆっくりとペースを落としていく。由比のもとへ多くの騎手が称賛のために駆け寄り、ある者は声をかけ、ある者は手を差し出した。

 ――負けた。完敗だ。 

 言いようのない無力感に天を仰ぐ。

 あれほど降っていた雨が止んでいた。

 黒々とした雲の裂け目から一筋光が降り注ぐ。その光は観客の声援に応えるために馬場で駐立していたアレクサンダーと由比に注がれた。そのあまりに出来過ぎた光景にさっきまでの喧騒が嘘のように静まりかえる。

 私もそこから目を離すことができなかった。

 どれだけ時が経っただろうか。永遠にも感じたし、僅か数秒のことにも思えた。

 しんと静まり返った客席に、ひとつ拍手が打ち鳴らされる。すると、二つ、三つと拍手が呼応し、またたく間に四方へ広がった。万雷の拍手と喚声が中山競馬場を埋め尽くした。

 視界が滲む。

 雨が止んだというのに、暫く頬は濡れたままだった。


「……あの、大丈夫ですか?」

 近くに座っていた若い男が心配そうに眉をひそめ、小声でこちらに問いかけてきた。

「え?」

 思わず立ち上がった後、ぼーっと立ち竦んでしまっていた。とっくにレースは終わり、勝利ジョッキーインタビューへと移っている。

「あ、すいません。大丈夫です」

 頭を二三度下げながら慌てて腰を下ろし、背中を小さく丸めた。頬が熱くなる。

『――絶対に勝ちたかったレースだったので、勝てて嬉しいです』

 ちょうどお立ち台で勝利騎手インタビューに応えているのは若い男性騎手。アレクサンダーに乗っていた由比騎手。青と競馬学校の同級生だった子だ。

 青の姿はない。

 力が抜けていくに従って、全身に震えが拡がっていく。体を抱くように自らの両腕を包み込んだ。心臓が激しく脈打つ。

 あの瞬間口をついた言葉に自分自身困惑していた。

 視界がぐらりと揺らぐ。ここにいてはいけない。

 足下に置いていた鞄を鷲掴み、逃げ出すように中山競馬場をあとにした。

 

「……私の力不足です。クラッシュは頑張ってくれました」

 G1初騎乗で二着の騎手とは思えぬ険しい表情でレース後の囲み取材に日鷹は現れた。目の周りが赤い。

 ――泣いてたなあこりゃ。

 そこには触れず取材を切り出した。

「あの四コーナー内への急襲は見事でしたね。あれはレース前からプランがあったんですか?」

「いえ、……たまたまです」

 歯切れも悪い。あの一か八かを見事に成し遂げた騎手のものとは思えない。あそこまでいって勝てなかったのが余程ショックだったのか。

 負けず嫌いであることは勝負の世界に生きるうえでなにものにも代え難い気質であるが、行き過ぎればその身を焼き尽くす業火にさえなる。

 あまりに危うい。だが、それがまた彼女の原動力であり、魅力でもあるのは間違いなかった。

 日鷹が優勝した由比と比べて劣っているとは思えない。むしろ、あの大胆なレース運びはこのレースにおいて誰よりも秀でいていただろう。称賛されることはあれ、非難されることなど考えられない見事なものだった。 

 残酷だが勝負を分けたのは馬の差にほかならない。

 行き着くところそれが『競馬』。その本質は馬を競うところにあるということだ。 

「ダービーでのリベンジ、期待してますね」

 本心からの言葉だった。

 日鷹はきゅっと唇を結ぶ。真っ赤に腫れた目は虚空を見つめていた。

 その後、各騎手のインタビューに回ったが、馬場状態が芳しくなかったからか、はたまたアレクサンダーの強さを再確認したからかなのかは判然としないが、皆の反応は拍子抜けするほどに淡泊なものだった。

「少し大事にいき過ぎました。反省ですね。僕もクラッシュオンユーみたいに内から行けばよかったかな。どう思います?」

 そう言って苦笑したのは十一着のアマクニに乗った那須だ。だが、その言葉とは裏腹にさして気にしている様子はない。そのあっさりとした態度がかえって不気味だった。

 このレースレベルになるとアマクニに中距離は厳しいと初めから思っていた、ということだろうか。それとも腹に一物抱えているのか。

 その後もいくつか質問を交えたがのらりくらりと躱されて時間切れとなり、どうも釈然としない気持ちのままに次の騎手の取材に移った。 

「馬場だネ。雨じゃダメだヨ」

 ルピは端的に敗因を述べて肩を竦める。ピクチャレスクは六着だった。

 たしかにこのレース、ピクチャレスクのレース運びはぎこちないものだった。ホープフルステークスの面影もまるでない。

 ――馬場、ね。

 まあ、ピクチャレスクが二歳から伸び悩んでいるとしてもここで馬鹿正直には答えるわけがないか。

 結局この二頭の能力の底はこのレースでは見えなかった。ダービーにおいても皐月賞時点での勢力図が依然として幅を利かせることだろう。

 その後何人かの騎手を回ったが、どの騎手も似たりよったりの回答だった。そんななかで一人舞い上がっていたのが騎手生活十年目を迎えた山背(やましろ)だ。

 十五番人気ながら、四着の馬とのハナ差を制して三着に入ったコスモナビゲーターの鞍上である。

「いやあ、ありがとうございます!」

 ただでさえ細い目を糸のようにさらに細くして、山背は頻りにペコペコと頭を下げている。一人の記者がダービーに対しての質問をすると、堂々と胸を張り、鼻の穴を膨らませて答えた。

「ダービー? 勿論一着を狙いますよ! コスモナビゲーターをダービー馬にしてみせます!」

 右手でどんっ、と胸を叩いて哄笑した。

 それを取り囲む記者たちは苦笑いを隠せていない。

 山背はG1騎乗経験も少なく、たしか今回の三着が最高順位だったはずだ。舞い上がるのも無理はない。だが同時に、このレースがやはり特異な条件下で行われたのだと改めて意識せざるを得なかった。

 山背には気の毒だが、コスモナビゲーターがダービーで好走する絵をどうしても描けない。

 山背へのインタビューを早々に切り上げ、ほかの関係者への取材に行こうとしたその時だ、

「ダービーは違う馬用意しろ!」

 通路に突如として怒声が響き渡った。何事かと声のする方へ向かうと、通路の隅で二人の男が言い合っていた。すかさず死角になる場所へ身を隠し、気づかれないようにそちらを覗く。

「ちょっと、成海さん。声でかいですって」

 二人のうちの一人は成海だ。それに相対する困り眉のつんつん頭の男は口の前で人差し指を立て声をひそめた。以前にどこかで見たことあるような顔だが、うーん、誰だったか。

 つんつん頭が言葉を続けた。

「だいたい、無茶言わないでくださいよ。こんなクラシック真っ只中でトルメンタデオロから成海さんが降りるなんてことになったら、おれがどんだけ頭下げなきゃいけないかわかります?」

「お前の手持ちの他の騎手に乗せればいいだろ。だいたい、俺に見合う馬を手配するのがお前の仕事だろうが。それで飯食ってんじゃないのかよ?」

 男は言葉に窮する。成海は言いたいことを言い終えたのか、怒り肩のまま通路の奥に消えた。

 男は一人うなだれる。

 ああ、思い出した。成海のエージェントだ。名前はたしか、……磯貝(いそがい)とかいったか。

 成海が地方から中央に移籍してきた時に一緒にくっついてきたはずだ。成海のほかにも何人かの騎手の騎乗依頼の仲介をしている。しかし、気になったのは別のことだ。

「またトルメンタデオロは乗り替わりか……」

 ルピに続き、成海にも降りられた。トルメンタデオロも厳しい立場に置かれている。二冠を獲ったデザートストームの全弟がこの扱いか。

 鳴り物入りでデビューした馬がいつの間にか消えていくのは珍しいことではない。この時訪れたのは、乗り替わりに対する驚きというよりも、トルメンタデオロへの憐れみの感情だった。そして同時に、デザートストームの現状へも思いを馳せずにいられない。まったく、因果な兄弟だ。

 勝負の世界は非情だ。

 結果が出せなければ深い谷底の奥へ奥へと転がり落ちていくのはなにも馬だけではない。今日の勝者でさえ明日の敗者になる。そんな勝負の世界の理を彼らは骨の髄まで刻んでいる。

 皐月賞を終えたばかりであるというのに、彼らの目はすでに大一番のダービーを見据えていた。

 磯貝がうなだれているのを横目にその場をあとにする。その帰りしな見知った背中があった。小走りで駆け寄り声を掛ける。

「お疲れ様です。咲島先生」

「ん?」

 咲島は片眉を吊り上げてこちらを振り向くと、眉間に皺を刻みつまらなそうにため息をついた。

「……なんだ、お前かよ」

「酷いな、その反応は」

 思わず苦笑する。まあ、取材嫌いな咲島は誰に対してもこんな具合なのだが。

 再び歩き出した咲島に歩調を合わせ、構わず話を続ける。

「クラッシュオンユーは凄かったですけど、なにより目を見張ったのが日鷹騎手ですよ。さすが咲島厩舎の秘蔵っ子ですね。アレクサンダーに勝つかと思いました」

「負けたけどな」 

「今回はそうですけど、ダービーだったらもっとクラッシュオンユーの末脚も生かせるんじゃないですか? 直線の距離が延びるし」 

「あー、ダービーには出ない」

「……え?」

 足を止める。あまりにさらりと言うので流してしまいそうになった。数歩先を行く咲島の表情はここからは見えない。

 ダービーに出ない? まさか――。

「――クラッシュオンユーになにかあったんですか?」

「すぐわかる」

 咲島は右手をひらひらと振ると、こちらを見ることもなく去っていった。

次回は5月27日(火)更新予定です。

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